2016年4月14日木曜日

「分からない時の対処法」とは

こういう話をするといろいろな反応が返ってきますが、私は生物を勉強したことがほとんどありませんが、生物の質問対応はできます。生物を勉強したことのない人間が生物の質問対応!?そんなことできるわけない!と思われる方が大半です。しかし、勉強のルールが分かっている私からすれば、「分からない」という状況に陥った時にどう対処すればいいのかがすぐに分かるので、その通り生徒さん方を誘導するだけで生徒さんが自分で自分の分かっていない点に行き着くことができるのです。

 私が正解を知っていても意味がありません。生徒さんが勉強して知識を習得することが目的なわけですから、私はただエスコートするだけで良いわけです。では、どうやってエスコートしていくのか。そのことをここでお話しします。

 突然ですが、こんな例え話を聞いたことがあられると思います。無人島に流れ着いた2人の漂着人の話です。


2人の人(仮にAさんBさんとしましょう)が無人島に流れ着きました。助けが来るまでなんとか生き延びねばなりません。

実はAさんは魚釣りができるので、なんとか食料には困りません。さて、このときBさんはどうするのか。

①Aさんから魚を分けてもらう
②Aさんから魚の釣り方を教えてもらう


 このいずれかの方法になるかと思います。もちろん他にも選択肢はなくはありません。魚を釣ってもらう代わりに、美味しい食べ方を教えて一緒に楽しむとか。スキルの交換ですね。ただ、ここでは状況を簡略化するために上記の2点に絞って考えましょう。

 ①の選択肢を取れば、BさんはずっとAさんに依存することになります。もしAさんが死ねば、Bさんも死ぬのを待つしかなくなります。そこまでならなくても、Aさんと喧嘩でもすれば、もう教えてもらえなくなるわけですから、Bさんは困ってしまいます。

 じゃあ②はどうでしょう。Bさんは自分でも生き延びる術を手にしたので、Aさんとの関係が今後どうなろうとも生き延びれる可能性は高くなります。ここではお互いに殺す、殺されるという凄惨なストーリーは排除しましょう。

 生徒さんが分からない時に答えを教える、というのは①に当たります。しかし、人間は大抵聞いたことは忘れますね。すると、忘れた時にまた質問せねばならなくなります。するとまた答えを聞く。これで依存関係が続くのです。これが塾のシステムですね。

 一方で私たちはどうするかというと、大抵はすぐに答えを教えたりはしません(テストが直前だったり、という場合は別です)。まずは「どこらへんまでは分かる?」と聞きます。そうして一緒に問題文を追いかけていきます。

 すると途中で「ここら辺から」というラインに行き当たります。ここで「どう分からない?」と聞きます。「どう」というのは
①言っていることが分からない
②言葉の意味が分からない
③どうやって解決すればいいのか分からない
のどれだろう?ということです。

 ①は日本語が読み解けていないパターンです。それぞれの単語の意味は取れているのに、それをつなぐ日本語が分かりにくいせいで「分からない」のです。その場合は、日本語を紐解いて意味を伝えます。

 ②の場合は「定義」の問題です。その単語の意味することが明確に理解できていない場合に、だんだんイメージができなくなることで「分からない」状態になっていくパターンです。この場合は「これってどういうこと?」「これってどういう物質だったっけ?」と確認します。そこで理解が曖昧なものが出てくると、それを逐一教科書などで確認してもらいます。するとだんだん紐解けていくのです。

 ③では、①も②もクリアできているのに解き方が「分からない」パターンです。これは、解くために必要な知識が頭の中に入っていないか、忘れてしまっている状態なので、教科書に戻ってその単元の復習を促します。抜け落ちた知識や類似問題に当たってもらうことで、自分の欠けたピースに気づくことができます。

 こういった「分からない時の対処法」を実践していただくことを繰り返していると、もはや質問しなくても自分で解決できるようになってしまうのです。こうなれば依存関係はなくなり自立して生きていけます。

 ん?それではアップスタディなんていう自習室は要らなくなるんじゃないか?そうです。本来は自分で勉強できるのが一番効率的なんです。だから塾なんて要らないし、自習室だって要らないはずなんです。でも、どうして皆がこぞって塾に行き、余計なテキストや授業に大金を投じるかというと、この勉強のルールが分かっていないために、何をどう勉強していいのかが分からないからなんです。だから、お金を払って塾に依存し、課題を増やして不消化になり事態を悪化させてしまう人が多いのです。

 それってものすごく悲しいことだと思いませんか?確かに魚の釣り方を覚えるまでの過程は大変です。しかし、ずっと何かに依存していたら、その対象がなくなった時に自分で対処できなくなってしまいます。塾に行って「あれやれ、これやれ」に乗っかっていれば、遠回りこそすれいずれは成績が伸びるかも知れません。気持ちも楽でしょう。何も考えなくて良いですから。でも、それが原因で社会に出てから格差が一気に広がってしまっているんですね。だから「待ったなしの教育改革」なんです。

 「分からない」に対して答えをもらい続けるのか、「分からない」に立ち向かって行って「分かる自分」になるのか。私たちは、後者の子どもたちを育てたいと思っています。

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2016年4月11日月曜日

教育改革で勉強はこう変わる!

※この文章は、現在執筆中の本『勉強脳を覚醒させる「強い学力」の伸ばし方』からの抜粋となります。
 
 2014年12月文部科学省の中央審議会が「高校教育ー大学教育ー大学入学者選抜の一体的改革(案)」という答申を発し法案が国会で承認されたことで、当時の下村文科相が安倍晋三首相と「待ったなしの教育改革」へ打って出た。オリンピック問題で下村さんが辞任されてからは、現馳文科相がその志を引き継ぎ2016年3月には最終案が提出されたところだ。今日本教育は大きな転換点を迎えている。

  なぜ今教育改革なのか、という点についてはあなたももう何度も聞かされていると思うが、これまで知識偏重とされてきた日本の教育が、社会の実情と乖離してしまっていることが無視できなくなったからである。スマートフォンの普及により、いつでもどこでも分からないことは調べることができるようになった。すると知識をたくさん覚えていることの価値が薄れてしまう。これからは「考える力」を、というわけだ。ここら辺の件(くだり)はすでにお話した。 さて、詰め込み教育への反発から始まった今の教育改革だが、この教育改革によって今後どんなことが起こりうるのかを冷静に考えてみよう。改革がもたらすものは本当に未来への躍進なのだろうか。

  まず教育改革の中身を確認してみよう。従来の知識偏重型から多面的総合型入試への転換が柱であるが、その具体的な実態はどんなことが予定されているのか。
 ・大学入試センター試験の廃止 
・複数回に渡る学力到達度テストの実施 
・大学入試新共通テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の実施
 ・人物重視の面接や小論文などの推薦入試枠の増加 

 まず見られるのは大学入試センター試験の廃止である。これは大事な入試が一発勝負になってしまっている現状は良くないという判断から、複数回に分けた学力到達度テストに切り替えようというもの。しかし、一方で共通テストである「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」は実施されるとし、かつ記号式と記述式の二段構え。そして記述式の採点には時間が掛かるからという理由で前倒しの実施が検討されている。

  また東大でも推薦入試が導入されたように、今後はますます人物重視の入試体制に変わっていくとのことで、面接や小論文などを使って推薦入試枠を拡大し、知識偏重型からの脱却の目玉にしようという流れだ。

  今のままではいけないという問題意識や、何か改革せねばと動くことは大事なことだ。しかし、それには内容が伴っている必要がある。もしこの内容のまま改革が断行されれば、ゆとり教育とは比にならないほどの大混乱と、今後数十年レベルでの学力の超二極化が進んでいくことが予想される。そして二極化の下の方は一気に学力が低下する。その理由を見ていこう。

  そもそも「詰め込み教育への反発から始まっている」こと自体がナンセンスである。先にも述べたように、詰め込みそのものが悪いのではなく、不要な劣等感を醸成するような仕組みになっていることが問題なのだ。表面的に「知識よりも思考力だ!」とやっても絶対に上手くいかない。問題を履き違えたままでは出口も明後日の方に行ってしまう。

  それに、詰め込み教育を否定しようにも、前にも述べたように思考とは情報の活用を言うのだから、論理的におかしい話になっている。情報(知識)もない状態で思考はできない。ということは、知識の習得は思考力育成の「前提」である。これまではそれが目的化してしまっていたが、これからはそれがあってその上で考える力を養おうという流れに来ているのだ。それ自体は悪くないし、間違ってはいない。が、あまり正確に伝わっていないように思われるのは一気にハードルが引き上げられるのだという点である。なぜそう言えるのか、具体例を挙げて見ていこう。

  今ではアクティブラーニングやPBL(Project Based Learning)などの新しい教育手法が話題になってきているが、これも指導力如何は各教師の自助努力に任されている。教育手法が刷新されるのは悪いことではないが、それがすべての教師に同時に浸透していくのでない辺りに、危険な匂いを感じる。まずは人の育成ができてから手法の導入であるべきだ。大丈夫であろうか。

  ちなみにこれらの手法の変更に伴い子どもたちはどういう状況になるかというと、今まで以上に覚える時間を削られるということだ。なぜかというと、この手法刷新の目的は、生徒をより積極的に授業に参加させることにあるからだ。考える力の養成に関しては発信が伴うと成長が促進されるのは分かるから、それ自体は良いが、授業が参加型になるということは、
・授業の進行スピードが遅くなる
ということと、
・知識習得の量が減る
というデメリットがすぐ浮かぶ。試験はどう考えても知識(情報)の暗記がどこかのタイミングで必要になるが、思考力育成がメインとなると、学校以外の時間を使って知識の習得を補わなければならなくなる。そうすると学校以外で勉強する習慣がない子は相当苦労することになるということだ。

  さらに言えば日頃の試験に学力到達度テストが導入されれば、その分授業時間が圧迫される。既存の学校の定期テストの回数が減るのかどうかは不明瞭だが、あまりテストばかりになっても、復習が追いつかなくなったり、精神疲労が頻繁に起きて勉強のペースが上げられなくなる可能性もある。かつ大学入学希望者学力評価テストの記述式試験が前倒し(9月〜12月の間のどこか)で行われるとすれば、その時までには授業内容が全て終わっていないといけないから、必然的に授業の速度を今までよりも速くしなければならない。記述式への対策もせねばなるまい。ということは、高校3年分の勉強を夏休みが終わるまでには仕上げて、記述対策に入れということだ。授業回数が減り、参加型授業が増えるのに、授業内容は夏休み終了時辺りまでに終わらせねばならず、そこに記述対策まで入れろとなるとこれはかなりハードである。

  その上だ。問われるのは単なる知識だけではなく多面的総合評価だという。面接対策、小論文対策もせねばならないし、日頃の生活の中での協働性や主体性なども問われるから、そういった部分も意識して過ごせと言う。あれもこれものオンパレードだ。これがこれから子どもたちがさらされる教育環境なのである。

  これは正にマイクロ・マネージメント(あれこれ細かい指示を出してがんじがらめにする管理手法)だ。実は安部政権の政治手法は、その税制改革や金融緩和手法など含めてそれら全てがマイクロマネージメントだと揶揄されている。どうやら国民をコントロール下に置いておきたいらしく、新しい法案を作る度にその内容が煩雑で国民をがんじがらめにしようとする内容にできているのだ。国民のことを考えてますよ〜と表面的には言うけれど、しっかり国民に様々な条件や制約を課してくる。経済的な問題は今回は割愛するが、今回の教育改革の内容を見ればそのことが実感できるだろう。子どもたちのことを真剣に考えていたら、こんな改革内容になるわけがない。

  勿論、本当のところは始まってみなければ分からないが、ただでさえ大学全入時代に入って、学力が高くない学生も大学に入れてしまったり、有名私立でも一芸入試や学校推薦などで入試を経ずに入れてしまって、現状でも規格外の学生が大学生として入学している。ひと昔前は分数ができない早稲田生が話題になったが、今では微分・積分が分からず物理が理解できない理工系が増えているなど、心配な状況もある。これが今後推薦枠を増やしていくとなれば、今以上に学力の伴わない大学生が増えることだろう。

  学力が低いことが悪いことなのか?と思われるかも知れないが、良い悪いの問題ではないことをここで断っておきたい。勉強が全てではないというスタンスは変わらない。ただ、勉強という選択肢を選ぶなら、その先にある現実をしっかり考えておいた方が良いと言いたいのだ。

  これから人口減少と少子高齢化を迎える日本は、労働力人口の著しい減少(1年40万〜60万人減)と、社会福祉費の増大、国際競争力の低下による外資離れの危機や、高い税金から逃れるための富裕層の海外流出など、あらゆるマイナス要因を将来に抱えている。そんな中で企業が生き残るには海外にも市場を広げていく必要がある。逆に海外から外国人を呼び込んで、労働力に加わってもらったり、買い物をしてもらう必要が出てくる。そうなると海外勢との競争は避けられない。そして今海外は総じて理工系人材の育成に舵を切り始めているが、そこに日本は真逆の教育改革を実行しようとしている。人工知能だのロボットだのサイバー社会だのと言われているのに、学力よりも人物重視の入試に切り替えましょうという改革なのだ。物事の良し悪しの問題ではないことはお分かりいただけるだろうか。人物重視の入試そのものが良い悪いという話ではないのである。



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どうしてあなたの成績は伸びないのか

なんでもそうだと思うのですが、結果が出ないのは「結果につながる努力ができていないから」に他なりません。

仏教の言葉に「因果」というのがあります。
原因と結果ですね。
そして、結果が生じるということは、その結果を生む原因がないとおかしい。
逆に言えば、結果が生じないということは、その結果を生む原因がどこにもないからなのです。

そう考えると、あなたの成績が伸びないのは、成績が伸びるための原因がないから、ということになります。
成績を伸ばすためには、成績が伸びる何かをしていけばいいのです。

成績が伸びる何か、とは一体なんでしょうか。
それには「成績に関するメカニズム」を知る必要があります。

成績とは点数であり評価のことです。
点数が高ければ高いほど成績が良い、ということになります。
成績を伸ばすには点数が伸びれば良いわけです。

では点数を伸ばすにはどうすればいいのか。
点数は「正解した時」にもらえるポイントです。
点数が高くなるためには正解の数を増やさねばなりません。

では正解するためにはどうすればいいのか。
それには
・正しい回答をする
という発想と
・減点を食らわないような回答をする
という発想があります。
この2つは似ているようでちょっと違います。

例えば、「正しい回答」とは「解答」との整合性が高いことを指します。
問題作成者が意図した解答に近いものを「正しい回答」と言うのです。

一方「減点を食らわない回答」というのは、間違ってはいないから✖️にできない回答のことです。
これはよく英語でする発想ですが、たとえ大学受験であっても、英作文の問題で失点を防ぎたかったら平易な単語、構文を選べ!という戦略があります。
中学生でも書けるような単語や構文を使って無難な回答をするわけです。
採点者は「いや〜もっと高校生らしい回答をして欲しいんだけどね〜でも間違ってないしな〜」という感じで丸をするしかありません。
これで素晴らしい回答をした生徒と同じ評価になります。

このように、正解を多くして点数を上げることが成績を上げることにつながります。
また、成績とは多くの場合「総合得点」での評価でしょうから、5教科トータルでどう点数を多く取れるかを考えなくてはなりません。
こればかりは自分で考えねばなりませんね。
好き嫌いや得意不得意でバランスして、残された時間で成果を最大化させる方法は、自分で検討するしかないのです。

ただ、そのお手伝いはこちらでさせていただくことは可能です。
実際にお会いしてコミュニケートしながら詰めていきましょう。
どう攻めてどれくらいの成果を狙うのかを是非聞かせて下さい。

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2016年4月9日土曜日

効率的な勉強ってどうやるの?

当自習室は塾ではありません。
塾と大きく違うところは「効率」を売っているところです。
塾は効率が悪いの!?と思われる方もいらっしゃるでしょう。
そこで今回は塾とアップスタディの違いをご説明します。

まず、塾について思い出して下さい。
 塾にできて当自習室にできない点はもちろんあります。
それは「情報収集」です。
入試に関する貴重な情報網は、おそらく大手学習塾さんに勝てません。
今のところは。
また、公開模試等のイベントも今はまだしていません。
そういった点は確かに大手塾さんの方を頼られてください。

では当自習室にしかできないこととは何か。
それは勉強の効率を上げることです。 効率を上げるには
・不必要なことに時間を掛けない
 ・必要なことだけに絞って取り組む
 ことをすれば良い。
問題はこの「何が必要で何が不必要か」の判断をどうするか、という点なのではないでしょうか。

では塾はその判断を手伝ってくれるか?という視点で見てみて下さい。
おそらくそんなことは聞かれたことはないと思います。
テキストを買って授業を受けて宿題をし、模試を受けてやり直しをして、、、といった作業をひたすら繰り返す取り組み方をされているのではないでしょうか。
これでは効率が良いとは言えませんね。
がむしゃらです。
がむしゃらというのも勉強に関しては悪いことではありません。
が、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるみたいな根性論で勉強するのは、何だか時間が上手く使えているとは言えません。
やることが絞られてからがむしゃらになって下さい。
何をして良いか分からない段階では、まだがむしゃらになるには早いです。

例えて言うなら、塾は物量戦です。
とにかくたくさん問題を解かせて力を鍛える方法です。
塾には塾のテキストがあって、授業があって、宿題がある。

でもこれって学校でもありますよね?
同じことを違う形で繰り返しているんですが、それってどうなんでしょうか。
わかりやすい授業を受けることで効率的な勉強ができませんか!?
と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、同じところの授業を2回聞くという時点で、あまり効率的とは言い難い。
できれば学校の授業だけで済ませてしまいたい、と考えて欲しいのです。
学校の授業がわかりにくいんです!
という方は、Youtubeにもその分野の授業がたくさん流れていますので、そちらを採用された方がお金も掛からず好きな時に見ることができますよね。

授業が一番非効率だと思うのは、その日のその時間に勉強する教科を制約される点です。
その瞬間に数学の授業をすると塾で決めていても、あなたはもしかしたら英語の勉強をしたいかも知れません。
少なくてもその瞬間にピンポイントに数学の気分になれるでしょうか?
数学の気分の時は数学を、英語の気分の時は英語を勉強するのが最も効率的です。
とすれば、極力塾に制約される時間は省きたいと思うはずです。

またテキストもそうです。
このテキストは誰が選んだのでしょうか?
それは塾ですよね?
塾が持っているテキストからあなたに合ったものを選んでくれているという「体(てい)」です。
しかし、そのテキストは誰にでも使いやすいように作られたテキストです。
テキスト制作会社が制作したものを塾が買って、それを転売しているのです。
しかし、実際は自分に合うテキストを使った方が絶対良いわけです。
それこそ本屋さんに行けば市販の問題集や参考書がたくさんあるのですから、そこから自分に合うものを選んだ方が使いやすいはずなのです。

それ以前に、学校の教科書の復習やサブのテキストはもうやり終えましたか?
学校の復習が終わらないうちに塾のテキストを増やしても、不消化を引き起こしてしまうだけになってしまいます。
新しい課題を増やすのは、目の前の優先課題(学校の復習)が終わってからです。
学校の復習がままならない人は、まずは勉強する習慣をつけるのが先かも知れません。
勉強する習慣を身につけるために塾に行くんです!
という方は、せめて課題を増やさずに利用できる塾を使って下さい。
でないと習慣がつく前に勉強の量に面食らってしまい、余計にモチベーションを落としかねません。

こうして考えていくと、塾に行く事が果たして自分にとって効率的かどうか、ということが段々疑問に思えてくるのではないでしょうか。
勉強を頑張っている気になるとか、友達が行っているのに自分が行ってなくて不安とか、そういった気持ちで塾を選ぶのはやめましょう。
人に流されたり雰囲気に流されたりすることに慣れていると、なんのために勉強しているのか分からなくなってしまいます。

お金も結構かかる話です。
ちなみに、あなたが塾に行く事で発生するお金は、塾の場合何に使われているのでしょうか?
あなたの成績アップのために使われていますか?
テキストや授業を購入する対価として払っているそのお金が、本当に自分の成績アップのために活用されているのかどうかも、是非考えてみて下さい。
もしそうでないとしたら、塾に消えているお金を、自分の服か食事、もっと言えば椅子や寝具(特に敷き布団や枕)に使った方が、はるかに成績アップのためになるはずです。

効率的に勉強するという発想、是非忘れずに頭に置いておいて下さい。
大事な時間です。 何に投資するかをしっかり考えていきましょう。
ちなみに話を元に戻せば、「何が必要で何が不必要か」の判断については当自習室でしっかりお伝えしていきます。
直接ご本人とお話をしたり、志望校がどこかとか、いつまでにどんな成績が欲しいのかといったことを基準に考えていくものなので、是非お気軽にお声掛け下さい。

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2016年4月7日木曜日

やる気はどうやって引き出せばいいのか


 昨日から東進の「今でしょ!?」で有名な林先生がやる気について語ったことが話題になっています。やる気のない生徒にやる気を出させるという流れで林先生がどう対応するかという話だったようです。それがこちら。

http://spotlight-media.jp/article/266452393237798260

 ただ、このニュースに関して肯定的な意見が多いのは結構ですが、この記事には大きな落とし穴があることは決して無視できません。それは「話の論点がすり替わっている」点です。一連の流れを追って説明しましょう。



 まず、林先生に投げかけられた質問はこうです。

「生徒にやる気を出させるにはどうすればいいのか」

それに対する林先生の答えはこうでした。

「やる気がないならやめてしまえと言いますね」

それで生徒はやる気が出るのか?という出演者の質問に、こう答えています。

「ある大学の先生の言葉が心に残っている」



 もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、「それで生徒のやる気が出るんですか?」という質問にYESでもNOでもなく「あるエピソード」で答えている。ということは、これはあくまでも先生の経験論にすぎないのです。

 林先生の注目度、東進の超有名講師という立場、出演者などの肯定的な反応、番組の演出、このニュースを取り上げるサイトでの肯定的な賛同意見での補強。ここまであると、ほとんどの人がもしかしたら「林先生良いこと言っているな〜」と感じているかも知れませんが、冷静に考えてみると、林先生は質問に答えていないと分かるわけです。

 「やる気がないならやめてしまえ」でやる気が出るケースは実は相当稀です。かなり稀なケースを特別な人が言うから「スゲー」となりますが、応用できなければ意味がありません。大事なことは「自分のやる気を引き出すには?」「あの子のやる気を引き出すには?」という問題への答えです。

 林先生すごいな〜と言う人達に水を差すような言い方をしてしまって申し訳ありませんが、私は曖昧な精神論とか、一見すごそうに聞こえる意味のない話とかに誰も翻弄されてほしくはないのです。そこで「やる気」について少しだけお話しさせてください。

 「やる気」というのは脳が起こす現象の一つです。感情とか精神とか集中とか思考、意識、記憶、そういったものは全て脳が起点となって生じています。ということは、脳から「やる気」を紐解いていけば、何かしらのヒントがあるはず、と考えていきましょう。

 さて、少し専門的な言い方をすれば、やる気には2種類あります。
・内的動機付け
・外的動機付け
です。

 ちなみに多くの人が「やる気=モチベーション」だと考えてしまっていますが、実はそれは間違いです。モチベーションとは「外的動機付け」のことで、やる気にはモチベーションとは根本的に異なるもう一つのやる気が存在することをここで気づいていただきたいと思います。

 それは「内的動機付け」です。多くが知ることとなる成功者のほとんどは、モチベーションではなくこちらの「内的動機付け」の方に由来します。ダニエル・ピンク氏執筆、大前研一氏訳の『モチベーション3.0』で「ドライブ」と呼ばれているものがそれです。

 この2つがどう違うかと言うと、やる気が湧いてくる要因が外側にあるか内側にあるかということです。

 勉強が苦しいと思っている人の多くが苦しいと思う理由は、そのやる気が「きっかけ」がないと引き出されない点にあります。成功者たちが成功者たる所以は、やる気が勝手に吹き出してくるからです。頑張っているように見えないのになぜか成績が良い子たちというのは、頑張ることにきっかけを必要としません。だから勉強が苦しくない。

 勉強は苦しいうちは伸びません。苦しいというのはストレスです。ストレスは脳の一番の天敵。ストレスがかかると脳は萎縮し、記憶の定着が著しく低下します。だから苦しい勉強を続けても成績がなかなか伸びないのです。

 では「ドライブ」はどうしたら引き出すことができるのか。どうしたら勉強を苦しむことなく続けていくことができるようになるのか。そういったことから教えているのがアップスタディなのです。

 当自習室は無駄なことはさせたくない。林先生が言うように「やる気がないならやめてしまえ」と私も言うことがありますが、それは効率を考えるからです。やる気がない状態で勉強しても記憶の定着率が低いから、かけた時間だけの成果は得られないのが目に見えているからです。だったらやる気がない時はやらない、その代わりやる気が湧いてきたら一気に集中して頑張れば良い。そう伝えます。

 そもそも勉強にやる気が湧かないのは生徒が悪いわけではありません。全部大人が悪いのです。なのにやる気が出ない生徒を大人が叱るのはフェアじゃない。そんな資格もないし、そんな立場でもない。だけど放任するのも違うんです。やりたい子だけやれば良いよ〜やりたくない子はやらなきゃ良いよ〜なんてするのは単なる大人の責任放棄。それは違う。だから迷いながらも大人は子どもに勉強しなさいと進めるわけです。

 やる気が湧いてくるのを待ちますか?やる気には引き出し方がちゃんとあります。行き当たりばったりの人生はもうやめましょう。ルールがあるならルールに従うべきなんです。効率が悪いよりも効率は良い方が絶対良い。だったらやる気の出し方を知る方が良いと思いませんか?

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2016年3月5日土曜日

教育はどうあるべきか、なんて考える必要はない

最近色々考えさせられました。
自分とは違う考え方をする人と議論したりすると、自分の曲げられない部分がどこかとか、その人の考え方の何が気に入らないのか、もしくは逆にどこに大いに共感するのかを通して、自分の価値観が明確になっていくものですね。


さて、上に挙げたテーマ「教育はどうあるべきか」ですが、個人的には、こんなこと考える必要ないなって感じです、はっきり言って。
考えること自体は良いんですけど、所詮何もできません。
それは国が考えることですし、文部科学省が考えることであって、一般的な立場にある人は考えてどうにかできるレベルの話ではない。


将来自分がこんな教育に変えていきたい!と望み、そう考え今を努力するのは素晴らしいことです。
でももし、教育はこうあるべきなのにそうなってないのはおかしい!と今の教育を否定し始めて、その思いが強すぎるようになったら、たぶん勉強する気失せます。
現実的に考えて、あなたの人生上それは得ではないですよね。


あなたの人生において、今目の前の受験制度、教育制度で成果を出さねばならない以上、教育がどうあるべきかなんて抽象理論で時間を浪費する必要は全くないんです。
かなりざっくり言えば、目の前の制度にどう対処すれば自分にとって一番得か、そんな感じで考えた方がまだ現実的ではないでしょうか。


とりあえず「教育はどうあるべきか」なんて議論は、教育研究家、評論家、哲学者の方々に任せて、私たちはもっと現実的な目線で目の前の制度を攻略することを考えましょう。


そもそも、あるべき教育の形になることなんてあると思いますか?
誰かにとって理想的な教育になるだけで、全ての人にとって理想と言える教育なんてあるわけがない。
運良くあなたにとって理想の教育環境になるかも知れない。
でも、その確率はどのくらいでしょうか。


例えば、教育は変わるべきだとする議論が最近トレンドですが、本当にそうなんでしょうかって話です。
私はそうは思いません。


詰め込み教育を否定する論調が目立つのですが、詰め込み教育のどこに問題点を見出しているかが重要です。
知識偏重だから?暗記大会だから?
でもそんな教育の中からも優秀な子どもたちが育って社会に飛び立っているわけですよね。
教育制度そのものに本当に問題があるのでしょうか。


私はそうではないと思います。
むしろ詰め込み教育は全ての学びの基礎です。
知識があって初めて思考ができるのであって、知識の詰め込みをする前に思考能力を磨くことなどできません。
知識のない思考は「感情理論」ですから、下手すると主観的なモノの見方しかできなくなります。
そういう癖づけをされたら、客観視点を身につけ直すのは大変です。
でも、どうやら教育改革ではそれをしてしまいそうな予感がしています。


よく悪く言われるのが「教師が一方的にしゃべって生徒が聞く」という受け身の授業スタイル。
これは確かに機能しなくなるとかなり非効率に思えてきますが、これは聞く側の姿勢にばらつきがあるからです。
 「聞きたい人は聞けばいい、聞かなくてもいい人は自学を進めればいい」と割り切ると、そこまで悪いスタイルではないことが分かってきます。


そもそも1対多数の授業スタイルは、多くの生徒に同じ情報を一度に共有できるのですから、聞く側がしっかり聞けば理想的なシステムです。
問題は聞く側の姿勢にばらつきがあるから、聞いて欲しい先生サイドから見たときに管理が大変になる。
理解度もバラバラになる。


要するに先生が「みんなが俺の授業聞かないとダメなんだ(イヤなんだ)」とやることがダメなんであって、別に、聞く必要のある子は聞いて、それ以外は自分の勉強ができるという自由度が許容されれば、今の教育制度を変えることなく状況が改善できてしまう。
あとは個別にフォローすればいい。


だから、今の教育はよくない!教育そのものが変わらなくてはいけない!と問題意識を持つのは良いとしても、ちゃんと根幹にある本当の問題点に気づいていないと、変えても意味がないということになります。
優秀な子は優秀で、ダメな子はダメって構図は変わらない。
そしてそれは、正当な結果というより、結局受験制度と同じで要領が良いか悪いかです。
本当に制度設計の練り直しが必要なの??今の制度を変えずに改善する方法はないの?そう問うてみることが重要です。


特に教育制度は国の一大事業であり、一度壊してダメだったから元に戻そうとは容易にできません。
「ゆとり教育」でちょっとやらかしましたが、あれは制度そのものを変えずに行えたから詰め込み教育への揺り戻しがスムーズにできたのであって、でもあれでも被害にあった子どもたちは「ゆとり世代」という不名誉なレッテルを貼られてしまったくらいです。
あのちょっとした変更でも大きな影響を社会に与えるのに、制度そのものをガラッと変える試みが果たしてできるのか。
それこそ抜本的に変えるには相当な年月がかかりますし、その新教育制度を熟知した、運営能力十分な人材が現場に浸透していなければ機能しません。
以前あったように、電子黒板入れてみたら使える先生が少なかったんで、じゃあサポートできるスタッフを増員しましょう!なんて、アホでしょ(笑)
またこういうお金の使い方をしないようにしてほしいですね。


また、そもそも教育をどう変えるべきかなんて答えは、何年話し合ったって答えの出るものではありません。
理想の教育とは!?なんて議論しても、結局はそこに答えはないのです。
それに、ある人にとって理想的なものは、別の人にはそうではないわけですから、理想的な教育制度が構築されるのを待っていても、永遠にそんなものはできてきません。
「私が理想とする教育」が実現するのを待ちますか?
あと何年後に実現するでしょうか。
だから考えても無駄なのです。


ましてや、教育を変えようと思うなら、教育の原理なんて考えてもダメです。
教育だけを見続けても、変わるべき教育ビジョンなんて見えるわけがない。
見るべきは社会です。
内側ではなく外側に目を向けないと、あるべき教育の姿なんて見えてきません。
目の前の社会がどうなっていってるのか。
それが教育を構築する基準になる。
そして、私たち個人として教育の中でどんな成長ができれば良いか、ということの判断基準は「教育原理」ではなく「社会が求める人材」です。
だから原理原理と抽象論を考えるのは、そういうのが好きな人に投げとけばいい。
私たちがすべきは、目の前に立ちはだかる課題に対して、どう対処すればスムーズに乗り越えていけるのか、そもそもこれは乗り越えるべき課題なのかを考えることです。
結果乗り越えるべきと思えば、乗り越え方を考えて、乗り越えるべきものではないと思えば他の選択肢を模索する。


大事なことは、「教育はどうあるべきか」ではなく「自分はどんな教育を受けるべきか」を考えることでしょう。
そして、その受けるべき教育を選びとっていけばいい。
目の前に理想の教育環境が転がり込んでくるのを待つのではなく、自分にとって必要な教育環境を自ら探して飛び込む。
そこにある判断基準は「自分が将来何を望むか」でしょう。
教育の原理なんて考えたって答えは出ない。


もっと言えば、「教育」ではなく「自分はどうあるべきか」を考えれば良いのですね。

2016年3月4日金曜日

勉強でどうやって自由になるか

今回 「自由」というものをものすごく考えさせられました。
 「自由」とは何なのかと。


ある先生は自由には他者からの承認が要るのだと言われますが、私は別に他者の介在なく自由を感じることはできると考えています。
周囲がどうこうじゃない、自分が感じるものが「自由」である、と。


自由論と格好つけましたが、勉強を通してどうやって自由を実現するのかということを改めて考えてみたので、それを少しお話ししますということです。


自由ってどういうものかというと、束縛されていない感じですよね。
何かに制約されることなく自分の意思や意志で動ける時に感じるもの。
そこに他者は存在していません。
存在していても良いのですが、必ずしも要りません。
自分が感じるか感じないかです。


勉強というのは時代に応じて求められるものが変わっていきます。
それは学校で、ということではなく、社会にとってです。
学校は常に時代遅れの世界です。
社会のニーズが感知されてからそこに焦点を合わせようとします。
が、結果後追いが追いつきません。
制度や現場そのものはコロコロ変えられるものではないからです。
でも、社会はコロコロ変わっていきます。


他者の承認ありきの自由だとすれば、それは全く自由ではありません。
他者に制約を受けるからです。
何ものにも縛られない、制約されない感覚が自由です。
だから自由とは自分の在り方如何に関わる問題です。


とすれば、この2点から導き出される自由の獲得条件は
①自分の価値観を明確にする
②学校ではなく社会の情報を集める
ということになります。


勉強は、それ自体が目的ではありません。
手段です。
自由になるための手段なのですから、それだけを見ていたらダメです。
見るべきものは「自分」と「社会」です。
そして「自分」と、「社会」の中にある自分の望み(目的)をどう繋げるかです。


学校というのは社会に出ていく前の準備機関です。
社会に出た時に困らないように「何か」を準備する場所です。
でもその「学ぶべき何か」を学校に丸投げしていると、学校の在り方に制約を受けます。
制度や現場がコロコロ変われば自分もコロコロ振り回される。


でも、見ているものが「自分」と「社会」であって学校や勉強でないなら、コロコロが気にならなくなります。
どんなに目の前の学校や制度がコロコロ変わっても、その手段をどう使えば自分の価値観と社会を上手くつなぎ合わせることができるかが分かれば良いからです。


こんな話があります。


ある旅人が旅の途中で作業現場に通りかかります。
どうやらレンガを積んでいるらしい。
その旅人は作業している人に尋ねました。
「あなたは何をしているのですか?」
すると、最初の人はこう答えました。
「見れば分かるだろう。レンガを積んでいるんだよ」
次の人はこう答えました。
「ここに教会が建つんだよ」
そして最後の人はこう答えました。
「私はキリスト教の布教をしています」


この話で分かるのは、同じ作業の先にどこまで自分の「望み」が見えているかです。
単調で退屈な作業も、その先に自分の目的が明確にあるのなら、ただの作業ではなくなる。
目の前の知識が取るに足らない、人生に役に立たないものに見えるのか、自分が欲しいものを得るために乗り越えるべき課題に見えるのかは、「自分」と「社会」が見えているかどうかに因ります。
そして、乗り越えるべき課題に見えるのなら、乗り越え方を考えればいい。
その先に自分の望み(目的)が見えないのなら、乗り越えるべきものなのかどうかを一度じっくり考えるといい。
勉強が全てではないというのはそういう意味です。


「自由」とは何なのか。
それは何ものに縛られない感覚です。
縛られないためにはどうするか。
それには「自分」と「社会」をよく知ることです。
その間にあるものは全て「手段」です。
手段に振り回されてはいけません。
「自由」とは、自分がどう在るかです。


そして、さらに付け加えるならば、自由になるためには「社会がどうあるべきか」なんて考える必要はない。
そんなことを考えても、あなたがあるべきだと思う理想的な社会になんて絶対にならないから。
なるにしても、いつなる?
なるまで待つのですか?
それは自由ではないですよね?
「時が来る」「社会が理想的な形になる」ことを待つことしかできないなんて、全然自由ではない。


待ってる場合じゃない。
今目の前にある不自由な社会、理想的とはとても言えない社会の中でどう「自分」と「目的」を繋げられるかです。
だから社会がどうあるのかの情報が要る。
今はこんな社会で、これから社会はこうなっていく。
だから自分の望み(目的)はこう流されていく。
そうやって、将来の中に自分の望み(目的)を常に追いかけていくから、目の前の現実に流されないでいられるのです。
今は別にいい。
将来のための手段だから。


船の舵取りみたいなものですね。
荒れ狂う波を駆け抜けていくにも、遠くの灯台の灯り目がけているから目の前の天気とか風向きとかへの対処法が分かる。
目は遠くを向けたまま、手や頭は全力で今に対処しているというか。
でも目指す先はずっと認識し続けているから、「この波を越える」ことが苦にならない。
それを乗り越える以外の選択肢がないからです。
こういう時の感覚って自由でしょう。
そして自分の望み(目的)を達成するのに他者の承認なんて要らない。
自分がどう在るか、それだけです。


「自由」。
う〜ん、深いテーマですね。