2016年3月5日土曜日

教育はどうあるべきか、なんて考える必要はない

最近色々考えさせられました。
自分とは違う考え方をする人と議論したりすると、自分の曲げられない部分がどこかとか、その人の考え方の何が気に入らないのか、もしくは逆にどこに大いに共感するのかを通して、自分の価値観が明確になっていくものですね。


さて、上に挙げたテーマ「教育はどうあるべきか」ですが、個人的には、こんなこと考える必要ないなって感じです、はっきり言って。
考えること自体は良いんですけど、所詮何もできません。
それは国が考えることですし、文部科学省が考えることであって、一般的な立場にある人は考えてどうにかできるレベルの話ではない。


将来自分がこんな教育に変えていきたい!と望み、そう考え今を努力するのは素晴らしいことです。
でももし、教育はこうあるべきなのにそうなってないのはおかしい!と今の教育を否定し始めて、その思いが強すぎるようになったら、たぶん勉強する気失せます。
現実的に考えて、あなたの人生上それは得ではないですよね。


あなたの人生において、今目の前の受験制度、教育制度で成果を出さねばならない以上、教育がどうあるべきかなんて抽象理論で時間を浪費する必要は全くないんです。
かなりざっくり言えば、目の前の制度にどう対処すれば自分にとって一番得か、そんな感じで考えた方がまだ現実的ではないでしょうか。


とりあえず「教育はどうあるべきか」なんて議論は、教育研究家、評論家、哲学者の方々に任せて、私たちはもっと現実的な目線で目の前の制度を攻略することを考えましょう。


そもそも、あるべき教育の形になることなんてあると思いますか?
誰かにとって理想的な教育になるだけで、全ての人にとって理想と言える教育なんてあるわけがない。
運良くあなたにとって理想の教育環境になるかも知れない。
でも、その確率はどのくらいでしょうか。


例えば、教育は変わるべきだとする議論が最近トレンドですが、本当にそうなんでしょうかって話です。
私はそうは思いません。


詰め込み教育を否定する論調が目立つのですが、詰め込み教育のどこに問題点を見出しているかが重要です。
知識偏重だから?暗記大会だから?
でもそんな教育の中からも優秀な子どもたちが育って社会に飛び立っているわけですよね。
教育制度そのものに本当に問題があるのでしょうか。


私はそうではないと思います。
むしろ詰め込み教育は全ての学びの基礎です。
知識があって初めて思考ができるのであって、知識の詰め込みをする前に思考能力を磨くことなどできません。
知識のない思考は「感情理論」ですから、下手すると主観的なモノの見方しかできなくなります。
そういう癖づけをされたら、客観視点を身につけ直すのは大変です。
でも、どうやら教育改革ではそれをしてしまいそうな予感がしています。


よく悪く言われるのが「教師が一方的にしゃべって生徒が聞く」という受け身の授業スタイル。
これは確かに機能しなくなるとかなり非効率に思えてきますが、これは聞く側の姿勢にばらつきがあるからです。
 「聞きたい人は聞けばいい、聞かなくてもいい人は自学を進めればいい」と割り切ると、そこまで悪いスタイルではないことが分かってきます。


そもそも1対多数の授業スタイルは、多くの生徒に同じ情報を一度に共有できるのですから、聞く側がしっかり聞けば理想的なシステムです。
問題は聞く側の姿勢にばらつきがあるから、聞いて欲しい先生サイドから見たときに管理が大変になる。
理解度もバラバラになる。


要するに先生が「みんなが俺の授業聞かないとダメなんだ(イヤなんだ)」とやることがダメなんであって、別に、聞く必要のある子は聞いて、それ以外は自分の勉強ができるという自由度が許容されれば、今の教育制度を変えることなく状況が改善できてしまう。
あとは個別にフォローすればいい。


だから、今の教育はよくない!教育そのものが変わらなくてはいけない!と問題意識を持つのは良いとしても、ちゃんと根幹にある本当の問題点に気づいていないと、変えても意味がないということになります。
優秀な子は優秀で、ダメな子はダメって構図は変わらない。
そしてそれは、正当な結果というより、結局受験制度と同じで要領が良いか悪いかです。
本当に制度設計の練り直しが必要なの??今の制度を変えずに改善する方法はないの?そう問うてみることが重要です。


特に教育制度は国の一大事業であり、一度壊してダメだったから元に戻そうとは容易にできません。
「ゆとり教育」でちょっとやらかしましたが、あれは制度そのものを変えずに行えたから詰め込み教育への揺り戻しがスムーズにできたのであって、でもあれでも被害にあった子どもたちは「ゆとり世代」という不名誉なレッテルを貼られてしまったくらいです。
あのちょっとした変更でも大きな影響を社会に与えるのに、制度そのものをガラッと変える試みが果たしてできるのか。
それこそ抜本的に変えるには相当な年月がかかりますし、その新教育制度を熟知した、運営能力十分な人材が現場に浸透していなければ機能しません。
以前あったように、電子黒板入れてみたら使える先生が少なかったんで、じゃあサポートできるスタッフを増員しましょう!なんて、アホでしょ(笑)
またこういうお金の使い方をしないようにしてほしいですね。


また、そもそも教育をどう変えるべきかなんて答えは、何年話し合ったって答えの出るものではありません。
理想の教育とは!?なんて議論しても、結局はそこに答えはないのです。
それに、ある人にとって理想的なものは、別の人にはそうではないわけですから、理想的な教育制度が構築されるのを待っていても、永遠にそんなものはできてきません。
「私が理想とする教育」が実現するのを待ちますか?
あと何年後に実現するでしょうか。
だから考えても無駄なのです。


ましてや、教育を変えようと思うなら、教育の原理なんて考えてもダメです。
教育だけを見続けても、変わるべき教育ビジョンなんて見えるわけがない。
見るべきは社会です。
内側ではなく外側に目を向けないと、あるべき教育の姿なんて見えてきません。
目の前の社会がどうなっていってるのか。
それが教育を構築する基準になる。
そして、私たち個人として教育の中でどんな成長ができれば良いか、ということの判断基準は「教育原理」ではなく「社会が求める人材」です。
だから原理原理と抽象論を考えるのは、そういうのが好きな人に投げとけばいい。
私たちがすべきは、目の前に立ちはだかる課題に対して、どう対処すればスムーズに乗り越えていけるのか、そもそもこれは乗り越えるべき課題なのかを考えることです。
結果乗り越えるべきと思えば、乗り越え方を考えて、乗り越えるべきものではないと思えば他の選択肢を模索する。


大事なことは、「教育はどうあるべきか」ではなく「自分はどんな教育を受けるべきか」を考えることでしょう。
そして、その受けるべき教育を選びとっていけばいい。
目の前に理想の教育環境が転がり込んでくるのを待つのではなく、自分にとって必要な教育環境を自ら探して飛び込む。
そこにある判断基準は「自分が将来何を望むか」でしょう。
教育の原理なんて考えたって答えは出ない。


もっと言えば、「教育」ではなく「自分はどうあるべきか」を考えれば良いのですね。

2016年3月4日金曜日

勉強でどうやって自由になるか

今回 「自由」というものをものすごく考えさせられました。
 「自由」とは何なのかと。


ある先生は自由には他者からの承認が要るのだと言われますが、私は別に他者の介在なく自由を感じることはできると考えています。
周囲がどうこうじゃない、自分が感じるものが「自由」である、と。


自由論と格好つけましたが、勉強を通してどうやって自由を実現するのかということを改めて考えてみたので、それを少しお話ししますということです。


自由ってどういうものかというと、束縛されていない感じですよね。
何かに制約されることなく自分の意思や意志で動ける時に感じるもの。
そこに他者は存在していません。
存在していても良いのですが、必ずしも要りません。
自分が感じるか感じないかです。


勉強というのは時代に応じて求められるものが変わっていきます。
それは学校で、ということではなく、社会にとってです。
学校は常に時代遅れの世界です。
社会のニーズが感知されてからそこに焦点を合わせようとします。
が、結果後追いが追いつきません。
制度や現場そのものはコロコロ変えられるものではないからです。
でも、社会はコロコロ変わっていきます。


他者の承認ありきの自由だとすれば、それは全く自由ではありません。
他者に制約を受けるからです。
何ものにも縛られない、制約されない感覚が自由です。
だから自由とは自分の在り方如何に関わる問題です。


とすれば、この2点から導き出される自由の獲得条件は
①自分の価値観を明確にする
②学校ではなく社会の情報を集める
ということになります。


勉強は、それ自体が目的ではありません。
手段です。
自由になるための手段なのですから、それだけを見ていたらダメです。
見るべきものは「自分」と「社会」です。
そして「自分」と、「社会」の中にある自分の望み(目的)をどう繋げるかです。


学校というのは社会に出ていく前の準備機関です。
社会に出た時に困らないように「何か」を準備する場所です。
でもその「学ぶべき何か」を学校に丸投げしていると、学校の在り方に制約を受けます。
制度や現場がコロコロ変われば自分もコロコロ振り回される。


でも、見ているものが「自分」と「社会」であって学校や勉強でないなら、コロコロが気にならなくなります。
どんなに目の前の学校や制度がコロコロ変わっても、その手段をどう使えば自分の価値観と社会を上手くつなぎ合わせることができるかが分かれば良いからです。


こんな話があります。


ある旅人が旅の途中で作業現場に通りかかります。
どうやらレンガを積んでいるらしい。
その旅人は作業している人に尋ねました。
「あなたは何をしているのですか?」
すると、最初の人はこう答えました。
「見れば分かるだろう。レンガを積んでいるんだよ」
次の人はこう答えました。
「ここに教会が建つんだよ」
そして最後の人はこう答えました。
「私はキリスト教の布教をしています」


この話で分かるのは、同じ作業の先にどこまで自分の「望み」が見えているかです。
単調で退屈な作業も、その先に自分の目的が明確にあるのなら、ただの作業ではなくなる。
目の前の知識が取るに足らない、人生に役に立たないものに見えるのか、自分が欲しいものを得るために乗り越えるべき課題に見えるのかは、「自分」と「社会」が見えているかどうかに因ります。
そして、乗り越えるべき課題に見えるのなら、乗り越え方を考えればいい。
その先に自分の望み(目的)が見えないのなら、乗り越えるべきものなのかどうかを一度じっくり考えるといい。
勉強が全てではないというのはそういう意味です。


「自由」とは何なのか。
それは何ものに縛られない感覚です。
縛られないためにはどうするか。
それには「自分」と「社会」をよく知ることです。
その間にあるものは全て「手段」です。
手段に振り回されてはいけません。
「自由」とは、自分がどう在るかです。


そして、さらに付け加えるならば、自由になるためには「社会がどうあるべきか」なんて考える必要はない。
そんなことを考えても、あなたがあるべきだと思う理想的な社会になんて絶対にならないから。
なるにしても、いつなる?
なるまで待つのですか?
それは自由ではないですよね?
「時が来る」「社会が理想的な形になる」ことを待つことしかできないなんて、全然自由ではない。


待ってる場合じゃない。
今目の前にある不自由な社会、理想的とはとても言えない社会の中でどう「自分」と「目的」を繋げられるかです。
だから社会がどうあるのかの情報が要る。
今はこんな社会で、これから社会はこうなっていく。
だから自分の望み(目的)はこう流されていく。
そうやって、将来の中に自分の望み(目的)を常に追いかけていくから、目の前の現実に流されないでいられるのです。
今は別にいい。
将来のための手段だから。


船の舵取りみたいなものですね。
荒れ狂う波を駆け抜けていくにも、遠くの灯台の灯り目がけているから目の前の天気とか風向きとかへの対処法が分かる。
目は遠くを向けたまま、手や頭は全力で今に対処しているというか。
でも目指す先はずっと認識し続けているから、「この波を越える」ことが苦にならない。
それを乗り越える以外の選択肢がないからです。
こういう時の感覚って自由でしょう。
そして自分の望み(目的)を達成するのに他者の承認なんて要らない。
自分がどう在るか、それだけです。


「自由」。
う〜ん、深いテーマですね。