2015年6月30日火曜日

塵が積もっても、塵は塵

一見「おお〜」と思うフレーズも、
よく考えてみたら「全然ダメじゃん!」
っていうものがありますよね。
今日はそんな言葉を考えてみましょう。


例えば「塵も積もれば山となる」。


どんなに小さなものでも、
それがたくさん集まれば
目に見えるほどの変化になる、
というものです。


このフレーズの例が「塵」なので、
私はついついツッコミたくなるのですが、
塵はどんなに積もっても塵なんですよね。
塵のようなものを積もらせるよりも、
もっと大きな粒、
例えば砂とか石ころとかを
同じだけ積もらせた方が
大きな山にできるわけです。


つまり、勉強も長い時間やれば
そりゃ点数に反映されるようになるでしょうが、
問題はその質の方であって、
単位時間当たりに習得できる情報量が
なるべく多くなるように考えて
積もらせていこうぜって話なのです。


他にも気になるフレーズがあります。
それは「三人寄れば文殊の知恵」。


文殊とは知恵を司る仏様のことですが、
しかしどんな人でも3人寄れば良いかと言うと
そうではありませんよね。
集まる3人の質が問題です。


以前週刊少年ジャンプに掲載されていた
『ヒカルの碁』でこういうセリフがありました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
等しく才のある天才が
二人必要なんじゃよ。
神の一手に近づくにはのう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


つまり、同じ思考水準で議論するから、
その三人の相乗効果で凄いアイデアが生まれるんだ、
というのが文殊の知恵ですよね。
文殊に張り合おうという趣旨のフレーズです。
よっぽどの人を連れてこねばですね。


そんな深く考える必要はありませんか?
しかし昔の言葉ってありがたい割には
よく考えるとなんだかおかしい言葉って色々あります。
「ありがたいな〜」「確かに〜」と
何も考えずに鵜呑みにしていると
知らず知らずのうちに洗脳されてしまい、
発想がそれ以上に向かなくなります。
それが一番恐いなと思うのです。


有名な言葉だから正しいとは限りません。
あなたにとって役に立つのかどうかで
判断してみて下さい。
そして何かの理解のためだけではなく、
自分のブレイクスルー(限界突破)のために
上手く格言を活用していけると良いですね。

2015年6月29日月曜日

勉強とは何か

今日は本質中の本質であるこのテーマ、
勉強とは何かという話をしていきます。


この「勉強とは何か」を語る上では
「学習とは何か」「学問とは何か」を
比較対象として挙げると
飲み込みやすいかなと思います。


そもそも「勉強」という言葉は
江戸時代に商人の間で使われていたものです。
「ねぇ、ちょっと勉強してよー」
とお客さんに言われたり、
「はい、そりゃもう勉強させていただきますんで」
などとお客さんに言ったりしていました。


この場合の意味的には
「頑張って安くする」というニュアンスです。


勉強とは文字で紐解くと
「勤めて強いる」と言われますが、
おそらく意味として一番近いのは
「強いて勉めさせる」でしょう。
「強いる」とは「強制する」の意味ですし、
「勉める」とは「努める」
つまり「努力する」の意味なので、
「無理矢理努力させ(られ)て安くする」
という感じで使われていたわけです。


それが明治時代以降になると、
富国強兵の号令の下で学制を敷き、
若者の育成が叫ばれるようになりました。
福沢諭吉の『学問のススメ』も
その気運の流れを汲んで
出版されたものです。


ただしここで「学問」という言葉が
登場しています。
「勉強のススメ」ではありません。
あくまでも勧められているのは「学問」です。


では「学問」とは何なのか。


「学問」とは「学んで問う」と書きます。
細かいことを言えば、
「学び、問う」でしょう。
何が違うのかと言うと、
「学んで問う」と言うと
「学び」の後に「問い」が来る感じがします。


しかし実際には問いも学びなのです。
つまり「学び」と「問い」は同時平行で
進んでいくものなのです。


似た言葉に「学習」という言葉がありますね。
これは勿論「学び、習う」ですが、
この3つの言葉の関係はこうだと考えられます。


勉強<学習<学問


勉強しなさい!とは言いますが、
学習しなさい!とは言いませんし、
学問しなさい!とも言いません。
まぁ、『学問のススメ』は口語で言えば
「学問しなさいね」ということかも知れませんが、
通常の会話の中で使われることはほぼ皆無です。


ではどうしてこういうことが起きるのかというと、
勉強とは文字通り「強いられるもの」だからです。
やらされるのが前提なのです。
なので「〜しなさい」というフレーズが自然にできます。


しかし、「学習」と「学問」とは
やらされてやるものではないんですね。
「学び」というのは自然に起こるものであり、
自発的に行われるものだという認識です。
なので学習とは「学び、習う」なのです。


そして、「学習」と「学問」の違いは
その積極性にあります。


「学習」の方は自発的な行為である半面、
まだ受け身な部分が多い状態です。
「習う」というのは教えてもらうことなので、
「学び、習う」とはどちらも教えてもらっている状態。


それに比べて「学問」は「学び、問う」ですから、
完全に積極的に関与している姿勢が伺えます。
「問い」とは考えていないと
できないことだからです。


つまり福沢諭吉が勧めていることは
消極的なやらされる勉強ではなく、
自ら積極的に学ぶ行為なのです。
だから「一身独立すれば、一国独立す」
という言葉が生まれるわけです。


今では「勉強」という言葉が浸透してしまい
当たり前のように使い古されていますが、
実際にはネガティブな意味合いを
無意識のうちに感じながら使っていたわけです。
だから勉強という言葉を聞いただけで
なんだか気が重くなるのです。


これを脳機能学者の苫米地さんは
勉強という言葉を「知的情報収集作業」だと
言い換えてしまえば良いと言っています。


物事は全て解釈の問題ですので、
同じ事象に関しても
別の言葉をあてがってやれば
全く違った側面にスポットライトを
当てることができるのです。
そして受け取るイメージを変えられれば、
自ずと取り組み方も変えることが
できるというわけです。


勉強とは、少なくても学生の時代は
どこまで行っても暗記大会以上でも以下でもないので、
そういう認識の下で
まずは効率重視に取り組んでいただけたらと思います。
その上で余裕が出てきたら
学習へ高め、学問に昇華させていければ
最高です。


2015年6月27日土曜日

教育とは一体何なのか

こんなことを聞くと
人によってバラバラの見解が起こり
答えが一つに定まらない状態になります。


「教育」という言葉の定義が
人によってバラバラになること自体は
別に良いことなのです。
それが自然です。


今大河ドラマ『加賀百万石物語 利家とまつ』
を夜な夜な観ています。
利家とは前田利家のこと。
豊臣秀吉(猿)に対して
犬千代という幼名から犬と呼ばれた
織田信長からの信頼厚い武将です。


私の好きな唐沢寿明さんが主人公なので、
というだけではありませんが、
この頃の大河ドラマは面白いですね。


その利家の長男・利勝(後の前田利長)が
高山右近と出会ったことをきっかけに
バテレン(キリスト教)に夢中になるという
話の件がありました。


相手方の武将を殺してこその手柄、
殺人こそが武門の習いという時代に、
織田家中一の鬼武将利家の長男が
「なぜ人を殺めねばならないのか!」
と言い出した事態に、
利家のみならず周囲の者が皆動揺する
という話でした。


ちなみに、作中にはそこまでの描写は
ありませんでしたが、
実際利家自身もその後キリスト教には
寛大な姿勢を取っています。
高山右近とも親友関係となり、
右近はその後前田家の忠臣となり
利家亡き後も前田の家を支えることとなります。


ただ、この時の利家は相当に動揺したことでしょう。
大事な跡取りが腑抜けになったと。


最終的には武心を取り戻さんと
無理矢理引っ張り出し、
利家自らが鬼となって
「自分を退治して見せよ!」と
息子を何度も投げ飛ばすという
教育を行いました。


さて、この話を聞いて多くの意見が出るでしょう。
それぞれの教育観で答えを出されていいと
私は思っています。


問題なのは、意見の多様化ではありません。
学校教育の無目的状態です。


学校というのは日本の教育機関の大元締めです。
なのに「どんな子どもたちを育成するか」の
明確なビジョンがありません。
あるのかも知れませんが、
少なくとも通わせている親にも
通っている当の本人たちにも
全く伝わっていないのです。


だからこそ教育観がバラバラになるのですし、
何より現場教育者の“個人的素養”に
頼ることになってしまうのです。


教育という言葉を吟味する過程で、
「学校教育」と「家庭教育」を分けて考えている方に
私は会ったことがありません。
ただ漠然と「教育とは何ぞや」と言うばかりで、
バラバラの意見を一つに集約させようとしている方まで
いるくらいです。


そして最終的に哲学に走るんですね。


哲学的アプローチは重要な手法です。
しかし最後まで哲学に終始するのは
愚の骨頂です。
それで答えが出た気になっても
結局は何も解決していないからです。
最後は実学に落とし込まねばなりません。


私も哲学的な感じがすると言われたことがありますが、
そのときはハッキリ否定しました。


哲学“的”ではありますが、哲学ではないと。


例えば数学や物理学、化学などの世界では
この哲学的なアプローチが非常に力を発揮しました。


それこそ最近読んでいる超弦理論の概念も、
これまで粒子として捉えていたものを
「(超)ひも」と捉え直すことで
これまでバラバラだった4つの力が
全て1つの大きな理論体系で説明できるかも!
というところまでやってきています。


本来存在することのない数字(虚数)をあえて作り出し、
それまで解けなかった方程式を解けるように導いた
カルガーノの発想の飛躍は正しく天才。
それを元にガウスはさらに発展させて
実際に方程式を解くプロセスまで明確にしました。


今までとは違う見方をする。
今までになかったもの、存在するはずのないものを
あえて定義に組み込んで考える。
この天才たちの手法もまた
哲学的アプローチと言えます。


しかしそれは単なる発想で終わらず、
世の中を変えてみせた。
だから実学まで昇華されているのです。


現在哲学と言われているものには
2種類あるのでしょうね。
かなりざっくりですが。
発想で終わる哲学と、
実学にまで昇華された哲学的なるものと。
これを行う者がバラバラでも良いのです。


でも、難しいのは
別々の人間がこれをやろうとすると
接合部分で不調和を起こすわけです。
綺麗に繋がってくれない。


スマートフォンも、
中のOSと外側のハードを別々の会社が作ると、
どうしても動作にタイムラグが生じます。
ソフトとハードそれぞれのシステム相性で
どうしてもスムーズに動かない。


これを1つの会社で両方やって
ストレスを全く感じさせない動作環境を実現したのが
2人のスティーブが生み出したAppleなのです。


できるのなら、
発想する人間とそれを実学まで落とし込む人間が
同一の人間で行われるのが理想です。


勿論、現実問題として
学校で施すべき教育観を考える人間と
現場で子どもたちに教育行動をとる人間が
別々になってしまうので、
その点を配慮した教育マニュアルにする
必要があるのでしょうが、
兎にも角にも明確な教育ビジョンを
まずは文部科学省がしっかり持つべきなのです。


それがままならないうちは
各ご家庭が教育観をしっかり持てばいい。
そこに共通見解は必要ありません。
こうあらねばならないという
大前提も要りません。


超弦理論は確かに大統一理論として
バラバラだったピースをつなぎ止める
重要な発想となりました。
でも、これは科学です。
教育ではありません。


比喩とはこういうところが恐いですよね。
別の例を持ってきて分かりやすさを示そうとしても、
実はそれらのもともとの在り方に相違があれば
分かりやすさとは裏腹に
大いなる誤解をもって認識されてしまう。


教育とは何なのか。
本当はこんなこと考えなくても良いのか知れません。
学校という教育サービスを提供するような場所は
何を提供するのかをハッキリ
消費者に示す必要がありますが、
各家庭で何を子どもたちに育んでほしいのかに
「教育」という言葉がマッチしないのは
そのせいなのかも知れません。


とは言うものの、
どう子育てするかという点は
いつの時代も悩ましいものですね。


今回はしっかりした答えがない
フワっとしたブログですみません。
それでは。。。

2015年6月25日木曜日

ソルベーさん、凄すぎます

化学を勉強している人なら、
ソルベー法というのを
聞いたことがあると思います。


ソルベー法。
ガラスの原料となる無水炭酸ナトリウムの
製造法のことで、
製造にアンモニアを使用したことから
アンモニアソーダ法とも呼ばれています。


化学ではこの程度の知識しか教わりません。
あとは化学式を覚えて終わりです。
しかし、このソルベーさん、
実はものすごい人だったんです。


ソルベーさんはこの製造法で特許を取得したことで
大金持ちになりました。
そのお金の一部は慈善活動に寄付したそうですが、
もう一つ別に行ったことがあります。
それが「ソルベー会議」です。


ソルベー会議とは1911年から始まった
極めて小規模な科学者会議です。
3年に1回程度の割合で
ドイツのブリュッセルで開催されているのですが、
しかし、この会議に参加していたメンツがすごい。


ローレンツ、
プランク、
アインシュタイン、
ボーア、
キュリー夫人、
ポアンカレなど、
そうそうたるメンバーなのです。


ここで話し合われたことは
科学界において重要項目ばかりであり、
特にローレンツなどは
アインシュタインにも
「同世代の科学者の中で最も偉大な人物」
と言わせしめたほどの人物です。


そして彼が議長を務めていた
第1回〜第5回までのソルベー会議は
量子力学の時計を早めたと
言われているほどです。


たった20名足らずとは言え
世界の大天才たちを集めて
世界を大きく進歩させたソルベーさんの功績は
人類全体にとって意義深い。


私も以前友人と3名で集まり、
野望カンファレンスなるものを行っていました。
最近は互いに家庭を持ち、
仕事も忙しくなったことで
なかなか開催できていませんが、
この集まりがいずれ
世界を大きく前進させる何かを
生み出すかも知れません。


明治初期、
日露戦争において大きな戦績を残した秋山兄弟と、
俳句という世界に新風を巻き起こした
正岡子規は親友同士でした。


何かを変える可能性を秘めた大人物は、
やはりそういった者たちと引き合い、
互いを高め合っていくものなのかも知れません。


化学の授業で何とはなしに
ソルベー法はね〜
こういう化学式だよ〜
今度の試験で出すからね〜
で終わってしまうものですが、
本当はこういうことをこそ知りたいものです。
そうすれば単なる知識に
息吹が生じて生きた情報になります。


これは完全に理想論ですが、
勉強とはかくありたいものですね。

2015年6月24日水曜日

「鶏口となるも牛後となるなかれ」のウソ

漢文で必ずと言っていいほど登場するのが
この「鶏口となるも牛後となるなかれ」です。


これは中国の戦国時代において
強大になりすぎた秦を倒すために
周囲の国々を説得するために
蘇秦が唱えた言葉。
秦に服従するのではなく、
それぞれの国の王が
一国の独立した王として連合し、
共に秦を倒そう!
というものでした。


これが今では、
力のある集団の中で後からついていくよりも
レベルを下げてでもトップにいられた方がいい、
というニュアンスで使われることが
多くなってきたのですが、
こう言うとハッキリ分かりますよね。
負け犬根性丸出しだということです。


そもそもどこにいても
自分はトップになるんだという
気概があって然るべきところを、
自分がトップにいれそうな集団を
選んだ方が良いじゃん??
と考えてしまっているわけです。


このままでは
レベルを下げても鶏口にはなれません。
そこでも牛後です。
良くても牛腹くらいでしょう。


どんな水準の自分でいられるかは、
エフィカシーが関わっています。
目的達成における自分の評価の高さが
エフィカシーです。
自己肯定感とも呼ばれます。


「鶏口となるも牛後となるなかれ」は、
見事にこのエフィカシーを下げる言葉だったわけです。


このことは哲学や格言を見ていくと分かりますが、
昔の人の言葉の中には
“上手く諦める極意”的なものが
多く見受けれます。


これでは、どんどんエフィカシー下げるだけです。


「二兎追う者は一兎をも得ず」
これだってそうです。
この言葉を作った人は
二匹同時においかけて失敗したかも知れませんが、
二匹同時に捕まえるにはどうするかと
考えることに重要な飛躍があるわけです。


「三日坊主」だってそうです。
なぜ三日でやめたら悪いのでしょうか。
4日目にする気になったかも知れません。
仮に三日坊主だけで1週間の間を考えれば
○○×○○×○となり、
7日間中5日もやっていることになります。


全ては解釈次第なのです。


もしあなたが
「学校だけじゃ成績が伸びないから」
「周囲の友達がみんな行ってるから」
という理由で塾に行っているなら
最初から伸びるわけがないのです。


以前から言っているように、
塾は本来頭のいい連中が利用する
レベルの高い環境です。
補習塾といった
付いて行けない子達用の塾もありますが、
それこそエフィカシーの問題で、
そんな塾に行っていて伸びるわけない。
だって自分も“付いて行けない子”という
認識になっているからです。


自分はできて当たり前、
自分はもっと成績よくなくちゃおかしい、
そう思えるのがエフィかシーが高いと言います。


これは現実が伴っていない間は
高く保ち続けるのは結構大変ですが、
それができて初めて
目の前の現実が追いついてくるものなのです。
現実を変えるには
現実を変えるだけの何かを自分がしないといけません。
その「何か」がエフィカシーを上げることであり、
マインドを変えることなのです。


昔の人のありがたい言葉を
鵜呑みにしすぎないようにしましょう。
むしろ自分で格言創っちゃうのも
良いかも知れませんね。



2015年6月23日火曜日

天才たちのバトン

最近アインシュタインの特殊相対性理論
および一般相対性理論を勉強しています。


おそらく読者のみなさんも
アインシュタインの名前はご存知かと思います。


ではポアンカレはご存知でしょうか?


アンリ・ポアンカレは位相幾何学の分野で有名な
数学者の一人で、
懸賞問題にまでなった超難問「ポアンカレ予想」
の発案者でもあります。


彼も実は相対性理論を発表しているのです。
それもアインシュタインとは全く別に、
ほんの1〜2週間遅れというタイミングでした。
そのせいでか分かりませんが、
アインシュタインは有名になり、
ポアンカレは数学好きやその専門の人にしか
知られない人になっています。


ガリレオ・ガリレイは地動説で有名ですが、
この人は観察によって証明したのであって、
もともとはコペルニクスという人が
提唱した概念でした。


電球を発明したとされるエジソンですが、
彼は直流をメインに考えていた人です。
では今一般家庭でもおなじみの
交流を発案したのは誰だったのか。
それはニコラ・テスラです。


エジソンの下で働いていたテスラでしたが、
エジソンと袂を分かつことになったおかげで
歴史の表舞台から消えてしまった人材です。
しかし彼はエジソンに匹敵するほどの
大天才でもありました。


先に挙げたアインシュタインも、
自分一人の力で相対性理論を確立できたわけではありません。
エネルギー量子仮説を提唱したプランクや、
相対性原理を編み出したガリレイ、
ブラウン運動を研究したブラウンなど、
彼の前にも多くの天才たちがいたのです。


有名無名様々な天才たちが
今の私たちの便利で豊な生活を
実現してくれたのです。


今習っている数学も、
確かに将来使うことはほとんどないけれど、
あんなに複雑な問題を
こんなにあっさりとした公式で
解いてしまえるなんて
なんだかすごいと思いませんか?


三平方なんて覚えるのは楽ですが、
あんな綺麗な公式を発見したピタゴラスは
どれだけの天才だったのでしょうか。


私たちが日頃触れている主要5教科の中に
実は天才たちの英知が詰まっており、
人生を掛けた壮大なストーリーが
込められているのです。


単に覚える対象としてではなく、
それを編み出した彼らの人生に思いを寄せると
生きた情報に思えてくるかも知れません。


あ〜そう考えると面白いな!
と思ってくれたら、
きっと覚えることそのものが
今よりもっと楽になるし、
なにより楽しいものになるはずです。

2015年6月20日土曜日

「自分」の乗り越え方



今私は自分を乗り越えるための
勉強をしています。
自分を乗り越えるためには
自分というものの本質を
知る必要があります。


自分とはなんぞやって感じですが、
要するに
感情をコントロールしたくなったのです。


人生の効率化をさらに引き上げるには
いちいち不安になったり悩んだり
怒ったりイライラしたりする
情動を押さえ込む必要があります。


そういう負の感情のせいで
人生を停滞させたくないなと思ったのです。


それと同時に、
こういった無気力とか絶望感とか
劣等感とか、
そういうもののために
本来の力を十分に発揮できずにいる
子どもたちの様子を目の当たりにしていて、
これは勉強以前の問題じゃんと
思ったわけです。


感情をコントロールして
負の情動に支配されない自分を作れれば、
その過程で得た知識によって
子どもたちの無気力症候群への
対処法も学べるのではないかというのが
私の狙いだったわけです。


そもそも人間は
情動も思考も精神も認知も記憶も全てを
脳というコンピュータで行っています。
互いが複雑に絡み合い、
影響を及ぼし合いながら
それぞれの何かが生じるのです。


つまり、思考を鍛えることによって
精神を強くしたり
余計な情動を意図的に押さえ込んだり
できるようになるのではないか
というのが私の仮説でした。


前置きが長くなりましたが、
この加藤諦三さんの本は
かなり自己把握に活かせるものです。
他にも色々シリーズがあるので、
是非読んでみて下さい。


この本のおかげで、
だいぶ自分の“負”の根源が見えてきました。
自分の中の“正体不明”が
少しずつですが姿カタチ見えてきた感じです。


正体さえ分かれば対処は可能。
あとは意図的に思考を働かせて
腑に落としてしまえば終了です。
「ああ、そういうことだったのね」
と分かるだけでも
どれだけ救われることか。


主要5教科の勉強とは違いますが、
学びというのが本当に大事なものだと、
こういう勉強していると思います。


孫子も言うように、
敵を知り己を知れば、百戦危うからず。
しかし実際には、
敵のことよりも自分のことを知らない人が
はるかに多い気がします。


どちらかと言うと
自分自身に振り回されてしまう。
私もそうでした。
そしてそれが嫌になったのです。


自分の嫌な部分がなくなることで
自己肯定感が上がり
エフィカシーを高めることが可能になります。


エフィカシーが上がれば、
必然的に状況対処能力が向上するので
ブレイクスルーが起こしやすくなるのです。


もし心の隅の方に
どこか無気力な自分がいるようでしたら、
こちらの本、オススメです。

2015年6月18日木曜日

この失敗は母になるのか

今日私は大きな失敗をしました。
この2週間以上の努力が
一気に吹き飛びました。
全てがパーです。
おかげで今日は何も手に付きません。


うそです。
こうしてFBに投稿していますし、
仕事もあるので気は抜けません。


ただ、本当にさきほどまで
ショックがでかすぎて塞ぎ込んでいました。


失敗は、その程度が大きいほど
ものすごく辛い経験になります。
今回の失敗は私にとって
トラウマに残りそうなほど
本当に心をえぐり、
精神をへし折りました。


でも、それでも戦わなねばならないのです。
立ち止まれません。
戦わねば勝てない。
勝てなければ死ぬだけです。
by ミカサ『進撃の巨人』です。


人は自分の心に保険をかけます。
何か大きな失敗をしても
致命傷に至らないように、
傷つかないように
どこかでブレーキをかけながら
アクセルを踏んでいるのです。


しかし、保険は精神的なリスクヘッジだとしても、
失敗したときのことを考えている間は
100%の力は出し切れません。


保険をかけることの心理は、
本気で、全力で、全身全霊で取り組んだとき、
もしそれで失敗したら
もう立ち直れないほどのショックを
受けてしまうかもしれない恐れ故です。
再起不能だけは避けたい。
それは誰もが思って当然です。


ただ、それでは本気で戦えません。
それが精神的保険をかけることの
デメリットです。


なので今回の私は
ミカサのセリフを毎日つぶやきながら、
仮に失敗してもその結果を
五臓六腑で受け止めきる!
という思いで取り組みました。


が、結果失敗。
本当に全てが嫌になるほどのショックでした。
心臓がズキズキと痛み、
脳の血管がプチプチ切れている、
そんな感覚です。
まだそんな感じが続いています。
もう引きこもりたい。。。


でも諦めたくないのです。
諦めるわけにはいきません。
どんなに苦しくても、
どんなに堪え難い苦痛を受け続けても、
どんなに現実に受け入れてもらえなくても、
戦うことをやめたらアウトなのです。


「失敗は成功の母」という言葉があります。
トーマス・エジソンの言葉として有名ですが、
彼は他にも多くの名言を残しています。


ただ、今回私が言いたいのは、
エジソンの名言が云々ではありません。
それだけエジソンが失敗と向き合い
最後まで諦めなかったプロセス(人生)が
それらの名言を生み出したという
背景の存在です。


彼は電球を生み出すまでに
10000回の失敗をしたと言います。
彼にとっては「失敗」ではなく
単なる「経験」だというのですが、
内心本当にそうだったかは
分かりません。
エフィカシーを高める術を持っていたけど
内心不安で不安で仕方なかったことも
あるのではないでしょうか。


なんせ本当に電球に適した物質が
存在するのかどうかすら
保証されていないのですから。
100回の失敗でも萎えそうです。


最終的には
人間は情報処理システムなので、
解釈の問題に帰着します。
それを失敗ではなく前進と定義できれば
ストレスを溜めていかずに
済むかも知れません。


でも如何せん、
私の場合はまだ感情が追いつきません。
失敗するたびにバクバクしてしまいます。
また失敗したらどうしようと
どうしても不安を思い
ビビってしまうのです。


きっと受験生も同じように
不安な思いを抱えている人も
いることと思います。
だからこそ今日、
私の醜態をさらしました。


私と違い、受験は1年に一度。
泣いても笑っても
チャンスはその1度きりです。
でも、そのチャンスを手にするには
リスクに対して保険をかけている場合ではない。
悔いを残して言い訳で逃げるような結果のために
中途半端な努力をするなんて
馬鹿げています。


本気で、全力で、全身全霊で
取り組んで戦って下さい。
失敗はめちゃくちゃ恐いですし
不安です。
それでも、不合格の可能性を
今は忘れて下さい。
結果は出てから考えればいい。
目の前の1日1日を
MAX活用するしか
私たちにできることはありません。
努力は今この瞬間しかできないのです。


「失敗は成功の母」とは
本気で取り組み失敗した者にしか
適用されません。
保険をかけて戦っても、
その失敗は成功を生んではくれないでしょう。
失敗は、本気でなければ活きません。


失敗を母にするには、
覚悟を決めねばなりません。
強烈なショックを受け入れる覚悟を。
ビビってても構いません。
覚悟さえあれば。


勝ちましょう。
戦って勝ちましょう。
まだ生きている。
まだ私たちには時間があるのですから。

2015年6月17日水曜日

発想を飛躍させるには

今度映画化されます『進撃の巨人』。
そこには壁外に出て巨人の調査をする
調査兵団という組織が存在します。
そこの団長がエルヴィン・スミスです。


女型の巨人を捉えるエピソードの際、
彼はこんな言葉を使いました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

奴を捕らえるには
発想を飛躍させる必要がある

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


今手元にある発想力では
常にその発想の上を行かれて
彼らには勝てないということです。
あえて「そんなはずはない」という
想定外の可能性を
想定内に引き込んでの発想が
求められていました。


これは私たちにも当てはまります。
なぜ日本が勉強を義務化するのか。
その意味付けを自分なりにできなければ
不毛な時間潰しに終わってしまうのです。


私はその危機を
発想を飛躍させることでクリアしました。


正直私は自分勝手なワガママ人間なので、
自分が納得できさえすれば
どんな理屈でも構いませんでした。
とにかく勉強を受け入れて攻略せねば
先に行けないわけですから、
その真偽はどうでも良いわけです。


そこで私はどう発想を変えたのかと言うと、
必ず主要5教科の勉強は
将来活用できる何かを含んでいる
と考えるようにしたのです。
前提を変えた、とも言えます。


いつも言っている通り、
知識そのものには価値はありません。
三角関数なんて日常生活では使わないし、
物理の単振動も生物の細胞分裂も
科学の高分子化合物の名称も
世界史も、
そして英語ですら、
実生活上はほとんど出番なしです。


おそらく読者の皆さんも
これらができずに生活に困った!
なんてことは皆無なはずです。


英語も社会も理科も何でも、
本来ならば学びたいという興味がわいたときに
学べば良かったような内容です。
それを今無理矢理学ばされているのには
必ず理由があって然るべきだと
発想を変えたところから勉強攻略は始まりました。


例えば、英語の場合は
単語や文法を勉強しますが、
その理由は「書いてある内容を知る」ためです。
しかし、一方で
単語や文法で形成された言語の仕組みを知ることは
プログラムを勉強しているのと同じです。


プログラミングは最近脚光を浴び、
若いうちから教えよう!
みたいなトレンドが出てきました。
そしてプログラミングの仕組みは
コンピュータ言語なので英語と同じなのです。


各パーツの意味と、
それらがどういう理屈で繋がっているのかを
英語を通して学んでおくことは
実はかなり脳回路形成上有効なのです。


また、数学は論理の力を鍛えます。
それと同時にランダム思考を鍛えます。


ランダム思考で分かりやすいのは
医師や弁護士の方々の思考です。
無数のパターンの中から
目の前の事象に合わせて
解決策を練り上げるプロセスは
公式や定理などをパターン化して記憶し、
テストの問題の出題に合わせて
組み合わせて解くというのと同じです。


国語は読解力を養う教科ですが、
大事なのは客観性を保って
集中して聞いて初めて相手の言わんとしていることが分かる、
という至極当たり前のことです。


有識者や専門家が集まって
あるテーマに関して侃々諤々と討論をする
『朝まで生テレビ』を観ていても分かりますが、
誰も相手の意見を聞いていません。
相手の話を聞いているのは
自分の主張を突っ込むためです。
相手のことを理解するのではなく、
自分の正当性を認めさせたいわけです。


しかし、これではコミュニケーションとは言えませんね。
相手の言わんとしていることを理解する
という前提がないことには
それは単に一方的にボールを投げているだけです。
相手からのボールを取らずに
ひたすら自分のボールを投げるんです。
それも両方の人が。
生テレビでは全ての発言者がそれです。
不毛ですよね。


話がそれましたが、
社会は単純暗記の必要なことに対する
戦略を考える練習だと思えますし、
理科は色んな教科の勉強で得られる要素を
融合させたような内容になっています。
覚えたり、繋げたり、
客観的になったり計算したり
理論的に説明したりと
かなりのスキルを習得できる教科です。


とにかく、勉強を単なる知識暗記に終わらせず、
確実に自分の将来に直結させるには、
今のままではダメなんです。
発想を飛躍させる必要があります。


なぜ将来の役に立たない勉強をさせられているのか、
何か裏に意図があるんじゃないのか、
そうやって考えていくと、
自分を納得させられる理屈が見えてくるでしょう。

2015年6月16日火曜日

創造的自己懐疑を取り入れる

ちょっと難しく聞こえますが、
これは「自己懐疑のススメ」と思って下さい。


哲学において自己懐疑で有名なのは
デカルトの『方法序説』でしょう。
どんなに周囲のものを疑っても
それらを疑う自分自身だけは
どうしても疑いきれないという話です。


もし、自己懐疑が創造的でなかったら、
もっと分かりやすく言うと、
もし自己懐疑を思いつきでやったら、
どんどん自己否定の方向に落ちて行きます。
これは危険です。


自己懐疑とは自己否定でありません。
成長するために
「どこに伸びしろがあるか」
ということを考え続けることです。


本当に今の自分が限界か?
もっとレベルアップできるんじゃないのか?
本当にこの方法がベストか?
もっと効率的な方法があるんじゃないのか?


ずーっと考え続けるのです。
ただし、代案が生まれるまでは
現状の方法を継続させておくことが重要です。


立ち止まって考えていたら
時間がいくらあっても足りません。
一方で考えることをせずに
ひたすら今の方法にしがみついて
走り続けることもリスクです。


走りながら自己の現状を把握し、
これが本当に限界なのか??
と自己に問いかけながら、
さらなる成長の余地を探ります。


これが創造的自己懐疑です。


自己破壊は自己懐疑の結果
どうしても必要な場合に行うものです。


今の自分をいったん壊して
ゼロベースで考える段階は
必ず訪れます。


私も以前自分のファッションセンスを
どうしても改革したくて、
周囲に心配されるくらいに
服装がすごいことになったことが
ありました。
それでもめげずに、
色々と研究と実践を続けているうちに、
「オシャレさん」と呼ばれるまでになりました。


今では「お仕事はアパレルですか?」
と聞かれるのが一番嬉しいです。


ただし、自己懐疑や自己破壊は
まかり間違うと自己否定に陥り、
目的とは違う方に向かってしまうことがあります。


ある意味では確かに自己否定なのですが、
決してネガティブな意味でとらえないで下さい。
あくまでも今以上になるための
採るべき手段の一つです。


そして、自己懐疑や自己破壊は
自己肯定感がある程度高くなっていないと
どうしても自己否定に流されます。
その点も注意して下さい。


少し難しく感じたかも知れませんが、
要は今の自分が本当にMAXか?
ということを
常に自分に問いかけてほしいのです。


あなたはまだまだ力の半分も出してない。
そろそろ本気を出してもいいはずです。

2015年6月15日月曜日

大事なのは「外」の世界

塾をやめれば成績アップ!
と謳っていながら、
なかなか外看板を変えられない私です。
まだ「新しい学習塾ブレイクスルー・アカデミー」
となっていました。
すみません(汗)


どんなに教室の中が立派でも
外にさらされている看板が
魅力のないものなら残念ですよね。


大事なのはやはり「どう見えるか」
という「外側」の部分なのです。


少し視点を変えてみましょう。


例えば、日本史を勉強するとします。
世界史でもいいです。
日本で何があった、世界で何があった、
ということを私たちは皆
教科書で勉強し知ることになります。


しかしです。
教科書の記述がどこまで正しいと
言えるのでしょうか。


以前は聖徳太子と書かれていた人物は
今や厩戸皇子と書かれています。
聖徳太子はそもそも存在しなかった
架空の人物でした。


他にも肖像画の数点に
教科書的に変更が施されています。


歴史は更新されるものです。
世界最古の人類は
以前はアウストラロ=ピテクスでしたが、
今では300万年ほど遡り
テヘラントロプス=チャデンシスとされています。


教科書では大抵
「こういうことが“ありました”」と
事実体で書かれていますが、
それが時を経るにつれて
間違いでした!
ということになるわけです。


先日の従軍慰安婦問題もそうです。
朝日新聞の記事から始まったこの問題は
実は朝日のねつ造でした!
というまさかの結末を迎えてしまいました。


信長を伐ったのは明智光秀ではなく
もしかしたら豊臣秀吉かも
知れません。


ユダヤ人の大虐殺を行ったとされるヒトラーは
実はペスト拡大を阻止するために
アウシュビッツ収容所にユダヤ人を集め
殺さざるを得なかったのかも知れません。


飛鳥時代にいた蘇我氏は
実はローマからの渡来人で
キリスト教を広めようとして
仏教派の聖徳太子たちに
消されたのかも知れません。


これは教科書ではない市販本に書かれた
もう一つの仮説です。
しかし、可能性が0とは言えないものばかり。


教科書で習ったことは
正しいと思ってしまうし、
そう書かないと丸はもらえません。
学校や塾とは「正解」を教えるところではありません。
現時点での知識を覚えさせるところです。


もっと言えば、教科書は綿密な計画の下作られますので、
作られた時点それらの情報自体が
もう2年近く旧いものとなっています。
つまり最新情報ですらありません。


その意識がどこまで持てるかです。


重要なのは、
今教えられていることが
「正しい」とは限らないという点です。


かつてはみんな地球を中心に
宇宙が回っていたと思っていました。
それが常識だったのです。
「いや、地球回ってますよ」と言った
ガリレオ=ガリレイは裁判にかけられました。
今から考えれば「え!?」って話です。


しかし、教科書だけで、テキストだけで、
学校や塾だけで勉強している人は
果たしてどっち側の人間でしょうか。


私たちは一刻も早く、
教科書の「外」の知識を
吸収していく必要があります。
将来使うかどうか分からないものよりも
確実に目の前の問題を解決するために
必要なことを学ぶべきなのです。


そのためにも、
無目的で我武者らな勉強漬けにならず、
この先の武器となるように
今の勉強に取り組んでほしいと願います。

2015年6月13日土曜日

【番外編】10次元の世界とは



この本が出版されたのは2004年です。
もし当時の私がこの本に出会っていたら、
もしかしたら科学の道に進んでいたかも知れません。
人生を変えるインパクトのある1冊でした。


これまで科学はマクロとミクロの
2つの枠組みが別々に進歩を遂げてきました。
それこそ大天才たちの度重なる
発想の飛躍をもって、
いくつのも限界を超えて今に至ります。


そして、その2つの大枠を
ついに結びつける統一理論が生まれ、
それがこの『超ひも理論』なわけです。


この発想の生みの親は湯川秀樹氏。
それまで粒子をベースに考えていた科学の世界で、
誰よりも早く「広がり」の要素に気付いた人物です。


太さを持たず質量だけを持つ超ひもの
たった一つの物理量(自由度)「振動状態」で
この世の全てを“ひも解こう”というわけです。


ちなみにこの超ひもは
10次元の世界で記述されるものだそうです。
ちょっとイメージできませんね。


例えば、髪の毛を見て下さい。
こちらはあまりに細いので
一見すると1本の線のように見えます。
線は1次元です。


しかし実際には、
顕微鏡などで見ると分かるように
ちゃんと太さを持ち、高さもあるわけです。
つまり3次元の物質です。


このように、
私たちには認知できないけれど、
何かしらの観測技術をもって見ると
1次元のものが実は3次元だったということがある、
ということなのです。


すると、私たちの生きるこの4次元の世界
(縦、横、高さ+時間)で考えると、
それぞれの縦、横、高さという1次元の世界が
実は3次元であり、
そこに時間という次元を加えた
10次元の世界が存在しているという
ことなのだそうです。


要するに、
私たちの世界は4次元ではなく
10次元が元になって構成されている
ということになるわけです。


考えただけでも面白い。


最近のひも理論の詳細は
まだ勉強不足で理解できていませんが、
きっとこのほんの内容からは
はるかに先に進んでいることでしょう。


そして、もしこの『超ひも理論』が解明され
ミクロとマクロが統一されたら、
人類史上最高の科学革命が
起こるとされているのです。


ロマンですね〜


今月は別のテーマを勉強予定なので、
来月あたりに科学分野を追求してみようかなと
考えています。


きっともっと地味で地道な世界でしょうが、
科学者に憧れてしまえる
そんな魅力的な本です。
是非皆さんも読まれてみて下さい。

仏教もビジネス!?

週末の朝になんというタイトル(汗)
しかし頭に思いついたネタを
その日のうちに発信したいので
どうかお許し下さい。


というか、仏教やビジネスとは
勉強の根幹というか
勉強の先に確実にあるものですので、
発想として持っておく必要は
あると思います。


さて、最近哲学をよく聞いています。
勉強は一切していません。
車の中で流して聞いているだけです。
でも色んな考え方を学べます。


余談ですが、
勉強って机にしがみついてするものだという
狭い考え方をされている人が多いですが
全然そんなことはないですからね。
イヤホン1つで歩きながらできたり、
何もなくても頭の中だけでできることも
実はあったりします。
要は発想として持っているかということと、
それを実践する気があるかどうかの話です。


で、哲学の話なのですが、
今日はちょうど仏教の辺りでした。
おそらく学校でも歴史の時間に
色んな宗派があったんだよー
と習うと思うんですが、
大事なのはここです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①どうして宗派がたくさんあるのか
②どうしてこんなに仏教が求められたのか

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


実は仏教を創始した
ゴーダマ・シッダールタ氏は
自分の教えを文字に残すことを
禁じたそうです。
教えの全ては口承で伝えよと。


その結果今では日本仏教だけでも
数多くの宗派が生まれています。


たった一人の教えから、
今では色んな考え方が生まれて、
仏教がバラバラになっています。


そのこと自体は悪いことではありません。
時代に合わせてニーズは変わるし、
状況が変われば苦しみの種類も
変わるはずです。


おそらく時代が変われば
たった1つの教えでは
残っていかないことまで
仏陀(ゴーダマ・シッダールタ氏)は
気付いていたのではないでしょうか。
だから自由度を与えた。
宗派が乱立する余地を与えたのです。


日本に仏教が広まったのは
鎌倉時代が最初です。
その前の飛鳥時代にも
聖徳太子(厩戸皇子)が採用して
十七条憲法というのを作りましたが、
その時はまだ民衆には
宗教として浸透していたわけでは
ありませんでした。
あくまでも統治理論として
政治的に採用されたに過ぎません。


鎌倉時代は戦乱が相次ぎ、
天変地異や蒙古襲来など
社会不安を引き起こす理由が
多かった時代です。


そんな中で救いを求める人々に
仏教が受け入れられたのは
当然の流れだったでしょう。


これは余談ですが、
「宗教」という言葉が日本に生まれたのは
明治時代に入ってからです。
つまり、宗教という概念を日本人が持ったのは
明治時代以降ということになります。
ということは、
鎌倉時代に浸透した仏教というのは、
日本古来の八百万信仰と同じような
心の内面からくる自然な救済祈願だったと
考えられます。
これが「宗教」だったら、
ここまで受け入れられなかったかも知れませんね。


さて、仏教と一言で言っても、
日本に入ってきた仏教は
純粋な意味での仏教とは異質なものです。


中国を通ってきた時点で
儒教と混ざってしまっているので、
実は儒教的仏教だったわけです。


ただ、その中でもひときわ
純粋な仏教に近いとされているのが
法然の浄土宗です。


法然は当時にあっては
仏教界の革新者だったようで、
その理由は他力を採用していた点に
ありました。


他力とは、救う救わないを決めるのは
仏さまだからねー
という話です。
人間が自分で救われるために念仏を唱えるのは
自己の努力で良いんだけれど、
その人を救うかどうかは
仏様次第だから、
頑張って救われるように唱えてねー
という感じです。


これが他力本願の始まりです。


それをさらに究極まで研ぎすまして、
結局唱えるという行為も
仏様があなたにさせていることだよー
すごいよねー
と言ったのが親鸞でした。
信仰心すらも仏様の手のひらの上
というわけです。


ちなみに親鸞も革新者です。
彼は在家仏教を始めに実践した人でした。
当時は仏教徒は一生仏に仕える身ゆえ、
独身を貫くのが当たり前だったのです。
奥さんもいて子どももいる仏教徒は
この人が初めてだとされています。


こうして、色んな宗派が生まれたのですが、
これって結局は市場の取り合いなんですね。


仏教という軸がありながら、
それぞれが自分で考え
独自の宗教へと昇華させて
「自分の教えこそ本物!」と
広めていくわけです。


そのうち市場が少なくなってくると、
「そういえば、こうも言えそうだぞ!」
と解釈をかえて攻める。


各宗派の言っていることは
要するに仏教の解釈の違いですから、
何でもありっちゃありなのです。
なので、
「あれ?こっちの人が救われてないぞ!」
と思えば、
そういう人たちを救える理論を構築して
新しい宗派として打ち出す。


こう言うと失礼に聞こえますが、
救われる人が増えるので、
これも別に悪いことではありません。
仏教の教えを純粋に受け継ぐことも大事ですが、
そこに縛られず読み替えてでも
今の時代の救うべき人々に
受け入れられるカタチにする。
この発想も同じくらい大事なのです。


かく言う私はそれでも、
法然や親鸞のように
「純度100%」の仏教を伝えんと
思ってしまうタチです(汗)


こうして観ると、
法然や親鸞はベンチャー企業のようなもので、
多宗派が乱立するレッドオーシャンに現れた
革命児のような存在だったのでしょう。
まるで今の企業のあり方のようです。


このように、今も昔も
実はやっていることは変わらないのかも知れません。
与えたい者と受け取りたい者どうしのやり取り。


今日の話は勉強に直接関わりがないと
思われるかも知れませんが、
それもまた解釈の違いです。
この話を自分に役立つように
解釈を読み替えることができるかは
あなたにかかっています。


では。

2015年6月12日金曜日

息づかいが聞こえますか?

今日は歴史の話をします。


最近エグスプロージョンという2人組が
歴史上の出来事をダンスと歌で
覚えよう的なネタをしているのを
動画で発見しました。


私が観たのは「本能寺の変」ネタです。
ただ、実際記憶に残るのは
「本能寺の変♪本能寺の変♪」
というフレーズのところだけでしたが(笑)


普通にこういう試みは悪くないと思います。
体の動きとリズムで覚えれば
体験記憶となって忘れにくくなります。
脳機能には則っている。


ただ、さすがに1個1個全部を
こんな風に踊って覚えるのは
正直現実味がありません。
なにせ時間がかかりすぎるからです。


例えば私は、
本能寺の変に関しては
かなり詳細に語れる方です。
それは私が大河ドラマ『秀吉』が好きで
何度も観ているからです。


秀吉が百姓の身でありながら
信長に直接登用を志願するところや、
切腹覚悟で重大案件を次々とこなしていく様。
勿論、最終的には信長の後を継ぎ、
天下人にまでのぼり詰める過程。


方や当初は飛び抜けた高待遇で迎えられたものの
次第に信長から毛嫌いされていく明智光秀が、
いよいよ母親まで殺された頃から
謀反の思いを抱いていくいきさつ。
50人足らずで本能寺に入った信長を、
13000人で取り囲み鬼退治を実現した
その覚悟と高揚感。


もちろんドラマですから
脚色は多々あれど、
あれだけ面白く時代を描かれると
臨場感を感じずにはいられません。


他にも『坂の上の雲』もドラマ化されました。
あのドラマで明治の日本を知り、
当時の人々の熱さや必死さを感じて
手に汗を握りました。


記憶には「臨場感」が重要なファクターです。
エグスプロージョンのダンスも良いのですが、
それは本質を欠いています。
本来はその歴史を勉強することを通して
先人たちの思いや決断や生き方を学ばねばなりません。


こうすべき、ああすべきと言い出したら
ちょっと説教ぽくなりますが、
しかし勉強することで何を得るかが
ものすごく重要なのです。


教科書や問題集で出来事や年号を覚えても、
その登場人物たちの壮絶な人生までは
意識はいかないことでしょう。
しかし、本当はそういったところまで
味わう事が勉強する目的だし、
それができた方が
はるかに記憶に定着しやすいのです。


これは歴史のみならず、
化学や物理、数学でもそうです。


定理や法則を見いだした彼らの
研究に込めた思いの深さや本気度。
公式は覚えたらおしまいですが、
その公式を発見するまでに
どれだけの人々が人生を賭けて
諦めること無く戦い続けたか。


こういうところまで楽しめるように
なったら良いなと思います。

2015年6月11日木曜日

人は思い込みを棄てられない

題名の通りです。
人は自分の思い込みを
思い込みと気付いてもなお
棄てられないものです。


そして、その棄てられない
思い込みによって
大いに縛られ遠回りを強いられます。


それでも棄てられないのが
思い込みの恐いところでしょう。


たとえば六曜というのがあります。
大安、仏滅、赤口、友引、先負、先勝。
大安は縁起のイイ日で、
仏滅は縁起の悪い日と思っている方も
多いのではないでしょうか。


また行事やお祝い事などは
六曜を活用して日取りを決めている方も
多いのが事実でしょう。


しかし、実際には占いと一緒で
六曜自体には何の根拠もありません。
解釈の問題に過ぎないことを
習慣化されているが故に
気にしてしまうのです。


仏滅は文字が悪いために
不吉な日とされていますが、
もとは物滅という文字であり、
物が滅し新しいものに生まれ変わる意から
何かを始めるには
大安よりも適しているとも言えますし、
何より仏がいなく(滅してい)ても
大丈夫なくらいイイ日、
とする説もあるのです。


そもそも六曜自体は
仏教とは関係ないものですから
「仏滅」という文字を当てるのも
誤解のもとですね。


バレンタインにチョコをあげるのも、
もとは明治製菓が仕掛けた
商業戦略でしたし、
1日3食という生活習慣も
エジソンが自社で開発した電子レンジを
普及させるために提唱したものでした。


つまり、今の日本の習慣には
その背景に企業の利益追求が
ある場合も多々あるのです。


宗教も思い込みですし、
結構今の自分の生活リズムを
形成するのに活用している指標は
根拠のない情報操作や
単なる思い込みだったりするわけです。


勉強とはこういうものだ、
こうやってやらないと覚えられない、
自分は物覚えが悪い、
60点くらいが自分らしい点数だ、
などなど。


こういった思い込みを
一切除外して自分の純粋な考えを
しっかりと意識してみて下さい。


ゼロベースでモノを考えたときに
初めて自分の置かれた状況や
すべきことが見えてくるものです。

2015年6月10日水曜日

熊本から学びのストリームを

なぜ私がずっと
塾なんてやめてしまえ!
と主張するかというと、
結局は自分で勉強できる人には
勝てないからです。


それは能力的な面でもそうですが、
何より社会がそういう人を求めているんです。
誰かに背中を押されないと
頑張れない人ととか、
考えるのが面倒くさいからと
思考をやめて逃げてしまう人は
社会では役に立ちません。


ただ一方で私は、
主要5教科のような勉強ばかりの話を
する気は毛頭ありません。
私は「学び」にフォーカスしていきたい。


勉強という言葉を使うと
ものすごく語弊が生まれてしまいます。
勉強とは大人にとっては
一生続けていくべきものですが、
子どもたちの課されている勉強は
ゴールが決まっている知的マラソンです。
一つの言葉でそれぞれが
別々のものを想定してしまうように、
ネガティブな印象を持つ上に
あまりにも定義が曖昧な言葉です。


その点「学び」という言葉は
余計なイメージを含みません。
知的好奇心に則った、
趣味や関心に従った純粋な思いも全てが
この「学び」には含まれています。


そして、こういった感覚で
子どもたちにも勉強を捉えてほしいのです。


受験制度という土俵の上で意味する
「勉強」という仕組みを紐解くことと、
純粋な「学び」の心を大事にする
本来の意味での「勉強」を
柔軟に使い分けてほしいのです。


そして、勿論子どもたちだけでなく、
一般の方々に向けても
よく学べる環境を提供したいというのが
私の思いです。


また部屋の模様替えを進めて、
明日新しいモードに切り替わります。
さらに学びを促進する環境に
なるのです。


少しずつですが、
この場所が「もっと学びたい」という思いを
内側からわき上がらせる環境になればと
願ってやみません。


いずれ必ずやってくる未来のために
今できることがあなたにもあるはずです。
今何もせずに手をこまねいていても
良いとは思っていないはずです。
何かきっかけを待っているのかも知れませんね。
そういうあなたのきっかけになれたらとも
思っています。


学びたいと思ったその時に
その思いにふさわしい場所となる。


心機一転、
今日からまた奮起してまいりましょう。

2015年6月6日土曜日

塾に行くべきか辞めるべきか、それが問題だ・・・

20世紀はじめに
プラグマティズムという哲学思想を世に広めた
ウィリアム・ジェームズという人がいます。


プラグマティズムを最初に提唱したのは
チャールズ・サンダース・パースです。


そもそもこの思想は
物事の認識に関する順序に関して
重要な気付きを与えてくれる
新しい哲学思想体系です。


例えば「硬いモノ」があるとします。
私たちはこう考える事が多いでしょう。


硬いから曲げようとしても曲がらない。
硬いから引っ掻いても傷がつかない。


しかし、パースはこう言います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

曲げようとしても曲がらないから硬い。
引っ掻いても傷がつかないから硬い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


つまり実践の結果として得られる事象をもって
「硬い」という認識を得るというわけです。
因果関係が逆だったのですね。
言われてみればそうだ!
と私も一人で感動してしまいました。
さすが論理学者(数学者でもあり科学者でもある)
パースらしい見解です。


ここからジェームズは
有用性と真理の関連性を見いだします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

有用であれば真理であり、
真理であるならば有用なのである、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

と考えたのです。


例えば「神は存在するか?」という命題があります。
この命題はすでに
数学的にも物理学的にも
言語学的にも、
そしてなんと哲学的にも
不存在が証明されてしまった命題です。


しかしそんな命題も、
仮に神が存在することで
心の平安が得られるという有用性を得られるなら
この命題は真理と見なせる、
と言うのです。


確かにそうですね。
神がいるのかいないのか、
そこが問題なのではなくて、
神を信じることで救われる人がいるのなら
それは真理と呼んでも良い事なのです。


このことを踏まえると、
私が提唱する「塾を辞めて自分で考えよ」
という問題提起にしても、
塾をもし有用だと思えば行くべきですし、
そうでないと思える場合には
辞めれば良いのです。


それは別に私の意見が正しい正しくないという軸とは
全く別の視点から導いても良いのです。
私の言っていることには反対だが、
自分の判断で辞める事にした、
で良いのです。


私は全ての方にとって有用だと思って
情報を発信していますが、
それが受信したあなたにとって
有用と感じられるかどうかとは
全く別の話です。
別で良いのです。


なので、冷静な視点で塾を捉えて、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

塾は果たして自分にとって有用なのか、
一体どのように有用なのか、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

と考えてみて下さい。
きっとイイ答えが導きだせることでしょう。

2015年6月5日金曜日

若いうちは仏教は勉強しない方が良い理由

以前勤めていた塾で
仏教を勉強していた中3生が
こんなことを私に言いました。


なんだか生きている事が
空しくなってきました。。。


え〜〜〜〜〜〜!?


その理由を聞くと
仏教の「空(くう)」の概念を知って
頑張る事の意味を見失った
と言うのです。


確かに空はそうなります(汗)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

全てはあるとも言えるし
無いとも言える。
世の中の全ては
幻みたいなものです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

不正確な表現かも知れませんが、
つまりはこういうことです。


脳機能学者で私が信奉する
苫米地英人氏の書籍を読むと、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

目の前に広がる物理的空間の情報も、
頭の中だけで繰り広げられる
抽象的なイメージも、
脳内処理される時点で
区別できないものとなる。
どっちも「情報」に過ぎない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ということが分かります。


以前近未来を舞台にした3部作『マトリックス』
という映画がありました。
あの世界は、
自分の生きている目の前の現実が、
実は全て見せられていた夢だった、
というストーリーです。
仮想現実の世界を現実だと思って生きていたけど、
実際にはその逆だったわけです。


私たちは夢を見ますが、
あれもかなりリアルですよね。
触感もあるし声もするし。
このように脳には夢の世界も
目の前の物理的な世界も、
実は区別することができないのだそうです。


極端な例を言えば、
あなたがもしニューヨークに行きたいとします。
ニューヨークの町並みをイメージして、
自分がその中を闊歩している
そんなイメージを具体的に想像してみて下さい。


すると、その具体的なイメージと、
他の何でも良いのですが過去の記憶情報との
明確な違いは感じますか?


過去のことはもはや「情報」です。
思い出すことしかできません。
思い出された記憶情報のリアリティーと
自分で作成したイメージ情報のリアリティーは
実は区別できないものだということです。


もし今後ニューヨークに実際行く事があっても、
現地にいるその瞬間は感動しますが、
そこから帰ってきた後には
それは単なる(記憶)情報でしかなく、
行く前にイメージしていた情報と
区別できなくなってしまうわけです。


ということはわざわざニューヨークに
実際に行く必要はなかった??
というよくわからないことになります。


これを2500年前に悟りを開いた
ゴータマ・シッダールタは気付いていました。


老荘思想で有名な荘子も
同じような思想を唱えています。
それが「胡蝶の夢」です。


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夢の中で自分は蝶になって飛んでいた。
しかし実際には
自分が蝶になったのか、
こっちの世界の方が実は夢で
蝶が自分になったのか、
それはよくわからない、

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と言うのです。


理論的に脳機能が解明されるずっと以前から、
脳の特性はすでに既知のものに
なっていたというわけです。


そうすると、
現実に執着する必然性を
見失ってしまいがちになります。
それが先に挙げた生徒の悩みでした。


こうして考えると
仏教を勉強する時期というのが
ありそうな気がします。
私も以前仏教の教えを勉強しようと
色々動いていましたが、
途中でやめてしまいました。
理由は自分の人生の質を
上げてくれるものと感じなかったからです。


物欲にまみれ
様々なことに執着したいという思いが
人生のモチベーションである私の生き方と
真逆の思想でした。


なのでガツガツ生きたい!
という方は特に
今は勉強しない方が良いと思います。
受験生もなおさらです。


とは言っても、
宗教自体は持っておくべき教養ですので、
時期を見て調べてみる事をオススメします。

2015年6月4日木曜日

学歴格差よりも深刻な問題とは

勉強に関する面白いネタがありましたので、
こちらでもご紹介いたします。

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衝撃!貧乏な子どもがいくら勉強しても
遊んでいる金持ちよりも成績が悪いという
衝撃的なデータが!(by LITERA)
http://lite-ra.com/2015/05/post-1143.html

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なお、こちらの記事への見解は
以下のFacebookで公開しておりますので、
是非ご確認下さい。
こっちも毒舌です。

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https://www.facebook.com/masaharu.ando.7

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さて、ここでお話ししたいのは、
学歴格差よりももっと深刻な
問題についてです。


それは

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学力格差

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です。


メディアで取り上げられている問題は
学歴格差が多いのですが、
その根本的な原因は学力格差です。


ただ、なぜ学歴格差の方が報じられるのかと言うと、
消費を促したいという意味合いと、
「学歴」というフレーズの方が
情動を刺激するからです。


学力が高い低いという見方よりも
学歴が高い低いという見方の方が
直感的に理解しやすいという理由も
あることでしょう。


しかし本当に問題にしないといけないのは
学力格差の方なのです。


例えば今の日本はどうなっているかというと、
「その先には険しい山道しかありませんよ!」
と注意を呼び掛けても、
「別に構いません」
「そんな先のことは考えていません」
といった返事ばかりが返ってくる状態です。


隊列を組んで整列し、
多くの兵と一緒に決まった速度で行進して、
1000m級の山に無目的に向かっていきます。


人とは自己満足に生きたいものです。
自律の気概だけは立派で、
最終的には本望で死にたいのです。


ですから目の前が平坦な道のうちは
大丈夫大丈夫~と笑っていますが、
いざ険しそうな山道が見えてきたら
どうしようどうしようと
急に慌てふためくことになります。


それでも、その隊列から離れて
自立する術は身に付いていないので、
そのまま皆一緒に
険しい山道に突入していくわけです。


それでも行きつけるのは
高々1000m程度でしょう。


しかしこの中にはズルイ輩もいて、
「あれ?どうやらこのまま行っても
面白くなさそうだぞ?
向こうの山の方が良さそうだ」
とこっそり隊列から離れていきます。


そして独自のルートで
2000m級、5000m級、
そして8000m級に行きつける者も
出てくるわけです。


おそらく多くの方にとって
「学力」という言葉は曖昧な理解しか
されていないことでしょう。
もしかしたら成績の格差のことだとか
偏差値の格差だと思われているかも知れませんね。


ただ、だからこそ学力格差が認識されずに
「学歴」という表面的な議論しか
できなくなっているのです。


大事なのは「学力」です。
それを是非御記憶下さい。

2015年6月3日水曜日

チャンスに関する3段階

最近すごく意識しているのは

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自分は果たして
チャンスにふさわしい人間だろうか。
自分は果たして
チャンスにふさわしい努力をしているだろうか。

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ということです。


私はキリスト教の信者ではありませんが、
最近すごく神様の存在を感じます。


というのも、本当に自分に
チャンスを与えてくださっているのだな
と感じるからです。


もちろんそれを「神様からのギフト」と呼ぶのか
「運命」と呼ぶのか「偶然」と呼ぶのかは
人それぞれでしょうが、
私は神様からのギフトだと思っています。


そうすると、
自然とその神様の存在に対して
下さるチャンスにふさわしい自分になろうと
思えるわけです。


ちなみに、
チャンスには3つの段階があると考えています。

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①チャンスに気付けるかどうか
②チャンスを掴めるかどうか
③チャンスを活かせるかどうか

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です。


チャンスとはチャンスっぽくないものもあります。
チャンスっぽくてチャンスじゃないものもあります。
要はまず気付けなくては話にならないのです。


必ず巡ってくるチャンスに気付くことが
最初のステップとして、
次にそのチャンスをガシッと掴めなくてはなりません。
目の前に来たのに見逃してしまうことも
十分あり得るわけです。


いやいや、チャンスが来たら
誰だってすぐ飛びつくでしょう!
と思われるかも知れませんが、
実はそうでもありません。
チャンスが”リスク”に見えることもあるからです。
いえ、リスクそのものかも知れません。


確実に無傷では掴めないチャンスの場合、
中には傷つくのが恐くて
手を出せないことだってあるのです。


また、チャンスだと思うんだけれど
本当にこれはチャンスなんだろうか。。。?
という場合もあるでしょう。


とにかくチャンスとは
全部が全部ポジティブなイメージとは
一致するわけではないのです。


そして、仮にチャンスをつかめたとして、
そのチャンスをしっかり活かせるかどうかが
最も重要な問題です。


掴んだだけでオッケーなチャンスなど
ほとんど存在しません。
それを自分なりに加工して
欲しい成果に練り直さないといけないわけです。


このように、
チャンスは気付けて掴めて活かせて初めて
チャンス足り得るのです。


あなたにも確実に
毎日チャンスが山のように降り注いでいます。
しかしもしあなたが
とてもそうは思えないと感じているなら、
まだチャンスに気付こうという意識に
欠けているのかも知れません。


そして、もしそれでもチャンスが見えないと言うなら、
チャンスを求めて行動範囲を広げるしかありません。
学校と塾と家の往復だけの行動範囲では
今以上にチャンスを広げることは
できないでしょう。


塾に行く時間がもしフリーに動ける時間になれば、
好きなように気分転換ができます。


かく言う私も、
時々散歩と称して色んな場所に
出かけていました。


脳は新しいことに大いに刺激され、
刺激されることで
活性化するためのホルモンが分泌されます。
この活性化状態になることで
記憶力もより良くなるわけです。


逆に同じことの繰り返しの毎日では
徐々に脳がマンネリの生活の中で
機能低下をしていくので
そもそもやる気が湧きにくい状態になっていきます。


あなたが成績を上げたいとか
点数を伸ばしたいという目標が
漠然としてでもあるなら、
まずは生活リズムに
無理矢理変化を起こして
脳を活性化するところから
始めると良いかも知れませんね。


2015年6月1日月曜日

パルメニデスの誤謬

これは2009年に出版された
DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー別冊11月号で
ハーバード・ビジネス・スクール教授
クレイトン・M・クリステンセン氏がされていたお話の題名です。


パルメニデスとは古代ギリシャで
「万物は不変である」と言った哲学者。


しかし現代においては
経営理論や戦略フレームワークは
時代とともに移り変わり、
決して不変ではあり得ません。


それを受けてクリステンセン教授は
「パルメニデスの誤謬」として
万物は決して不変ではないと論じたのです。


「誤謬(ごびゅう)」とは「真理」の対義語。
論理的もしくは形式的に
ある意味において合理性を失っていること、
というニュアンスです。


ただし、クリステンセン教授の言うような
単純な意味での不変を唱えていたとは
私にはどうも思えません。


実際、アリストテレスやプラトン学派は
パルメニデスの思想を大いに評価し、
イデア論の言説とまで言っています。


パルメニデスの言う”変化”とは、
在るものが無くなり、
無いものが在るようになることであって、
それは感覚的にはそうだろうけど、
理性的に考えれば
有が無になり、無から有が生まれるというのは
おかしくないか?と言うことです。


そう考えれば、
表面的には経営理論は形を変え、
戦略フレームワークも進化を遂げてきたでしょうが、
それは目の前の状況に応じて
各々の要素が組み変わっていっただけで、
要はパターンの組み合わせが
入れ替わったに過ぎないとも
考えられるかも知れません。


これまでになかったものが生み出されたのではなく、
これまであったものに新たな視点が加わって、
別の角度から捉えなおされ、
別の理論やフレームワークと融合されたりしながら、
”新しき”と呼ばれるようになったわけです。


これは勉強に関しても同じでしょう。
勉強方法なんて無数に存在しますが、
それらはバラバラなことを言っているのかと言うと
決してそうではありません。


ましてや、別々の人が
全く真反対のことを言っていたとしても、
そのこと自体は決して矛盾ではなく、
両者とも求める成果を出せたという点では
至極合理的な帰結なのです。


とすれば、
一体それら無数に存在する勉強理論の
根底にある共通認識は何なのか。
それこそがパルメニデスの言う
”不変な何か”なのでしょう。
私が言う”勉強の原理原則”であり
”勉強のルール”です。


ただし、私は勉強に哲学を持ちこむ気は
全くありません。
勉強は実学なので哲学で語るべき対象ではありません。
教育という分野で見れば
そこに哲学的なアプローチがあっても
良いのかも知れませんが、
こと勉強においてはそんな曖昧なものではなく
受験制度というシステムで動いている以上、
哲学が入りこむ余地はありません。


なので、”勉強の原理原則”とは
共通のルールであって
共通の見解といった曖昧なものでは
決してないということなのです。


また、教育改革が進められているように、
勉強の意味するところのものが
時代に沿って変化するは
十分考えられます。
技術の進歩や国際情勢の移り変わりの中で
価値観というものは
どんどん変化していくものだからです。


今回は少し固めの文章になりましたが、
パルメニデスの言う「万物」は
おそらく不変と言えるものでしょうが、
もっと表層的な現象や価値観と見れば、
確かに誤謬という解釈になるのかも知れません。


要するに、なにを見て語るかということですね。


勉強とは何なのか、
教育とは何なのか、
人生とは何なのか、
自分とは何なのか。


その答えを模索してみては
いかがでしょうか。