2015年6月27日土曜日

教育とは一体何なのか

こんなことを聞くと
人によってバラバラの見解が起こり
答えが一つに定まらない状態になります。


「教育」という言葉の定義が
人によってバラバラになること自体は
別に良いことなのです。
それが自然です。


今大河ドラマ『加賀百万石物語 利家とまつ』
を夜な夜な観ています。
利家とは前田利家のこと。
豊臣秀吉(猿)に対して
犬千代という幼名から犬と呼ばれた
織田信長からの信頼厚い武将です。


私の好きな唐沢寿明さんが主人公なので、
というだけではありませんが、
この頃の大河ドラマは面白いですね。


その利家の長男・利勝(後の前田利長)が
高山右近と出会ったことをきっかけに
バテレン(キリスト教)に夢中になるという
話の件がありました。


相手方の武将を殺してこその手柄、
殺人こそが武門の習いという時代に、
織田家中一の鬼武将利家の長男が
「なぜ人を殺めねばならないのか!」
と言い出した事態に、
利家のみならず周囲の者が皆動揺する
という話でした。


ちなみに、作中にはそこまでの描写は
ありませんでしたが、
実際利家自身もその後キリスト教には
寛大な姿勢を取っています。
高山右近とも親友関係となり、
右近はその後前田家の忠臣となり
利家亡き後も前田の家を支えることとなります。


ただ、この時の利家は相当に動揺したことでしょう。
大事な跡取りが腑抜けになったと。


最終的には武心を取り戻さんと
無理矢理引っ張り出し、
利家自らが鬼となって
「自分を退治して見せよ!」と
息子を何度も投げ飛ばすという
教育を行いました。


さて、この話を聞いて多くの意見が出るでしょう。
それぞれの教育観で答えを出されていいと
私は思っています。


問題なのは、意見の多様化ではありません。
学校教育の無目的状態です。


学校というのは日本の教育機関の大元締めです。
なのに「どんな子どもたちを育成するか」の
明確なビジョンがありません。
あるのかも知れませんが、
少なくとも通わせている親にも
通っている当の本人たちにも
全く伝わっていないのです。


だからこそ教育観がバラバラになるのですし、
何より現場教育者の“個人的素養”に
頼ることになってしまうのです。


教育という言葉を吟味する過程で、
「学校教育」と「家庭教育」を分けて考えている方に
私は会ったことがありません。
ただ漠然と「教育とは何ぞや」と言うばかりで、
バラバラの意見を一つに集約させようとしている方まで
いるくらいです。


そして最終的に哲学に走るんですね。


哲学的アプローチは重要な手法です。
しかし最後まで哲学に終始するのは
愚の骨頂です。
それで答えが出た気になっても
結局は何も解決していないからです。
最後は実学に落とし込まねばなりません。


私も哲学的な感じがすると言われたことがありますが、
そのときはハッキリ否定しました。


哲学“的”ではありますが、哲学ではないと。


例えば数学や物理学、化学などの世界では
この哲学的なアプローチが非常に力を発揮しました。


それこそ最近読んでいる超弦理論の概念も、
これまで粒子として捉えていたものを
「(超)ひも」と捉え直すことで
これまでバラバラだった4つの力が
全て1つの大きな理論体系で説明できるかも!
というところまでやってきています。


本来存在することのない数字(虚数)をあえて作り出し、
それまで解けなかった方程式を解けるように導いた
カルガーノの発想の飛躍は正しく天才。
それを元にガウスはさらに発展させて
実際に方程式を解くプロセスまで明確にしました。


今までとは違う見方をする。
今までになかったもの、存在するはずのないものを
あえて定義に組み込んで考える。
この天才たちの手法もまた
哲学的アプローチと言えます。


しかしそれは単なる発想で終わらず、
世の中を変えてみせた。
だから実学まで昇華されているのです。


現在哲学と言われているものには
2種類あるのでしょうね。
かなりざっくりですが。
発想で終わる哲学と、
実学にまで昇華された哲学的なるものと。
これを行う者がバラバラでも良いのです。


でも、難しいのは
別々の人間がこれをやろうとすると
接合部分で不調和を起こすわけです。
綺麗に繋がってくれない。


スマートフォンも、
中のOSと外側のハードを別々の会社が作ると、
どうしても動作にタイムラグが生じます。
ソフトとハードそれぞれのシステム相性で
どうしてもスムーズに動かない。


これを1つの会社で両方やって
ストレスを全く感じさせない動作環境を実現したのが
2人のスティーブが生み出したAppleなのです。


できるのなら、
発想する人間とそれを実学まで落とし込む人間が
同一の人間で行われるのが理想です。


勿論、現実問題として
学校で施すべき教育観を考える人間と
現場で子どもたちに教育行動をとる人間が
別々になってしまうので、
その点を配慮した教育マニュアルにする
必要があるのでしょうが、
兎にも角にも明確な教育ビジョンを
まずは文部科学省がしっかり持つべきなのです。


それがままならないうちは
各ご家庭が教育観をしっかり持てばいい。
そこに共通見解は必要ありません。
こうあらねばならないという
大前提も要りません。


超弦理論は確かに大統一理論として
バラバラだったピースをつなぎ止める
重要な発想となりました。
でも、これは科学です。
教育ではありません。


比喩とはこういうところが恐いですよね。
別の例を持ってきて分かりやすさを示そうとしても、
実はそれらのもともとの在り方に相違があれば
分かりやすさとは裏腹に
大いなる誤解をもって認識されてしまう。


教育とは何なのか。
本当はこんなこと考えなくても良いのか知れません。
学校という教育サービスを提供するような場所は
何を提供するのかをハッキリ
消費者に示す必要がありますが、
各家庭で何を子どもたちに育んでほしいのかに
「教育」という言葉がマッチしないのは
そのせいなのかも知れません。


とは言うものの、
どう子育てするかという点は
いつの時代も悩ましいものですね。


今回はしっかりした答えがない
フワっとしたブログですみません。
それでは。。。

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