しかし頭に思いついたネタを
その日のうちに発信したいので
どうかお許し下さい。
というか、仏教やビジネスとは
勉強の根幹というか
勉強の先に確実にあるものですので、
発想として持っておく必要は
あると思います。
さて、最近哲学をよく聞いています。
勉強は一切していません。
車の中で流して聞いているだけです。
でも色んな考え方を学べます。
余談ですが、
勉強って机にしがみついてするものだという
狭い考え方をされている人が多いですが
全然そんなことはないですからね。
イヤホン1つで歩きながらできたり、
何もなくても頭の中だけでできることも
実はあったりします。
要は発想として持っているかということと、
それを実践する気があるかどうかの話です。
で、哲学の話なのですが、
今日はちょうど仏教の辺りでした。
おそらく学校でも歴史の時間に
色んな宗派があったんだよー
と習うと思うんですが、
大事なのはここです。
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①どうして宗派がたくさんあるのか
②どうしてこんなに仏教が求められたのか
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実は仏教を創始した
ゴーダマ・シッダールタ氏は
自分の教えを文字に残すことを
禁じたそうです。
教えの全ては口承で伝えよと。
その結果今では日本仏教だけでも
数多くの宗派が生まれています。
たった一人の教えから、
今では色んな考え方が生まれて、
仏教がバラバラになっています。
そのこと自体は悪いことではありません。
時代に合わせてニーズは変わるし、
状況が変われば苦しみの種類も
変わるはずです。
おそらく時代が変われば
たった1つの教えでは
残っていかないことまで
仏陀(ゴーダマ・シッダールタ氏)は
気付いていたのではないでしょうか。
だから自由度を与えた。
宗派が乱立する余地を与えたのです。
日本に仏教が広まったのは
鎌倉時代が最初です。
その前の飛鳥時代にも
聖徳太子(厩戸皇子)が採用して
十七条憲法というのを作りましたが、
その時はまだ民衆には
宗教として浸透していたわけでは
ありませんでした。
あくまでも統治理論として
政治的に採用されたに過ぎません。
鎌倉時代は戦乱が相次ぎ、
天変地異や蒙古襲来など
社会不安を引き起こす理由が
多かった時代です。
そんな中で救いを求める人々に
仏教が受け入れられたのは
当然の流れだったでしょう。
これは余談ですが、
「宗教」という言葉が日本に生まれたのは
明治時代に入ってからです。
つまり、宗教という概念を日本人が持ったのは
明治時代以降ということになります。
ということは、
鎌倉時代に浸透した仏教というのは、
日本古来の八百万信仰と同じような
心の内面からくる自然な救済祈願だったと
考えられます。
これが「宗教」だったら、
ここまで受け入れられなかったかも知れませんね。
さて、仏教と一言で言っても、
日本に入ってきた仏教は
純粋な意味での仏教とは異質なものです。
中国を通ってきた時点で
儒教と混ざってしまっているので、
実は儒教的仏教だったわけです。
ただ、その中でもひときわ
純粋な仏教に近いとされているのが
法然の浄土宗です。
法然は当時にあっては
仏教界の革新者だったようで、
その理由は他力を採用していた点に
ありました。
他力とは、救う救わないを決めるのは
仏さまだからねー
という話です。
人間が自分で救われるために念仏を唱えるのは
自己の努力で良いんだけれど、
その人を救うかどうかは
仏様次第だから、
頑張って救われるように唱えてねー
という感じです。
これが他力本願の始まりです。
それをさらに究極まで研ぎすまして、
結局唱えるという行為も
仏様があなたにさせていることだよー
すごいよねー
と言ったのが親鸞でした。
信仰心すらも仏様の手のひらの上
というわけです。
ちなみに親鸞も革新者です。
彼は在家仏教を始めに実践した人でした。
当時は仏教徒は一生仏に仕える身ゆえ、
独身を貫くのが当たり前だったのです。
奥さんもいて子どももいる仏教徒は
この人が初めてだとされています。
こうして、色んな宗派が生まれたのですが、
これって結局は市場の取り合いなんですね。
仏教という軸がありながら、
それぞれが自分で考え
独自の宗教へと昇華させて
「自分の教えこそ本物!」と
広めていくわけです。
そのうち市場が少なくなってくると、
「そういえば、こうも言えそうだぞ!」
と解釈をかえて攻める。
各宗派の言っていることは
要するに仏教の解釈の違いですから、
何でもありっちゃありなのです。
なので、
「あれ?こっちの人が救われてないぞ!」
と思えば、
そういう人たちを救える理論を構築して
新しい宗派として打ち出す。
こう言うと失礼に聞こえますが、
救われる人が増えるので、
これも別に悪いことではありません。
仏教の教えを純粋に受け継ぐことも大事ですが、
そこに縛られず読み替えてでも
今の時代の救うべき人々に
受け入れられるカタチにする。
この発想も同じくらい大事なのです。
かく言う私はそれでも、
法然や親鸞のように
「純度100%」の仏教を伝えんと
思ってしまうタチです(汗)
こうして観ると、
法然や親鸞はベンチャー企業のようなもので、
多宗派が乱立するレッドオーシャンに現れた
革命児のような存在だったのでしょう。
まるで今の企業のあり方のようです。
このように、今も昔も
実はやっていることは変わらないのかも知れません。
与えたい者と受け取りたい者どうしのやり取り。
今日の話は勉強に直接関わりがないと
思われるかも知れませんが、
それもまた解釈の違いです。
この話を自分に役立つように
解釈を読み替えることができるかは
あなたにかかっています。
では。
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