2016年5月9日月曜日

教育業界の抱える大いなるすれ違い


これからの教育改革の柱であるアクティブ・ラーニング。
しかし、そのことで盛り上がってるのって、実は意識高い系の一部の人たちだけなんじゃないかって思ったりします。
これは私の勝手な予測です。

そもそも、この大胆な改革が安倍政権で行われて、急に「待ったなし」として始まった時点で、これは安倍さんのポーズだと思わなくてはなりません。
何か頑張ってる感を出すための動き。
派手に動けば勝手に周囲が議論化してくれるから、教育分野に投石したわけですね。

確かに今日本の教育は改革を迫られています。
しかし、現実的に考えてこれだけ現場にストレスフルな改革は、もっと慎重に進めねばならないものです。
私ならこんな負担の大きい改革はしません。

例えば、盛り上がっている方々のように、先生が皆意識が高くて頑張ろう!という気概のある方々ばっかりなら、これほどスムーズに進む改革はないでしょう。
しかし、実際にはほんの一部が盛り上がって、そこにスポットが当たり、いかにも全体が盛り上がっているかのように見える、というのが現状な気もします。

中には日頃の業務に忙殺されたり、生徒たちとうまく信頼関係が結べなかったり、もっとプライベートを充実させたいと思うような、教育意欲の低い先生が多いと思います。
そういう人たちが悪いと言いたいのではありません。
むしろ逆で、そういう先生が多くて当然だと思うのです。
改革が必要だ!とは思っていても、自分がそこまでハマって勉強して成長したいかというと、実はそうでもないとか。
そういう人が多い気がするんです。

そうなると、どんなに一部が盛り上がって”知識を詰め込んだ”ところで、それを現場で有効に活用する段階まで果たして進めるのか。
今以上に授業準備が必要になるわけじゃないですか。
よっぽどですよ、それを嬉々として何年も何年も取り組める先生は。

例えばこれを生徒側から見ても、迷惑この上ない改革案です。

アクティブ・ラーニングをどれくらいの頻度で通常日程に入れ込んでくるかは知りませんが、少なくてもここまで軸にする話が出ているということは、それ相応の時間は当てがわれるはずです。
でなくては逆に成果が出ません。
効果測定もできません。

が、そんなことをされたら知識を覚える時間が奪われてしまいます。
いつも訴えていることですし、この点は教育改革実践者である藤原さんもおっしゃっていますが、考えるという行為は知識があって初めてできることなんです。
知識もないうちから考えることなんてできません。
しかし知識暗記偏重だった教育を否定して始まった改革である以上、考える力を育むプランの方に比重が移っていくはずです。
すると、知識がない中で考えさせられるため、実際には考える力は育まれないというパラドックスが生じます。

本来なら、もしアクティブ・ラーニングをどうしても入れたいというならば、知識の習得にかける時間を今までの半分とか3分の2とかに圧縮して、残った時間をがっつりアクティブ・ラーニングに投入する方が理にかなっています。
しかしそれでも、直前期は受験対策に集中したいもの。
話し合い、学び合いなんてしてる精神的ゆとりは子どもたちにはないでしょう。

それに、担当する先生の方は生徒よりもはるかに楽です。
なぜかというと、先生は基本自分の担当科目だけに集中して勉強できるからです。
だから、自分の好きな科目、得意な科目、興味のある科目だけを勉強すればいい先生サイドからすれば、予習が多少面倒になる程度で済むはず。

しかし生徒は好きな科目も嫌いな科目も清濁合わせ飲まなければならない状況にあります。
一つ二つの科目で済む子もいますが、多くは他教科に渡って対策をし、全体の合計点数で入試に立ち向かうのが前提です。
そこで知識習得の時間を削られるというこの負担が、一体どれだけの不安を子どもたちに課すことになるのでしょうか。

大学入試も変わるから高校の授業も変わらなくては、という正義感は立派ですが、振り回されるのは子どもたちです。
実際今の時点で大きなタイムラグが発生しています。
それに高大連結のすり合わせは済んでいるのか?という部分も気になります。
お互いが思惑のズレたまま動いていくのでは、教育改革の体を成しません。

それに、本来の学びに戻ろう!教育の本質とは!?とか一部の大人たちがイキんでますが、そもそも子どもたちは勉強したくないんです。
勉強が好きな子、したい子は一部であって、教育されようと思って学校に来てる子もほとんどいません。

だから先生たちが考えなくても良い、という短絡的な話でも勿論ない。
先生たちがイキんでいろいろ考えてやったとしても、そこを子どもたちが望んでるわけではないということなんです。

このすれ違いは多くの場面で見受けられます。

今回の熊本地震でも、ボランティアの人に悪態をつく被災者の方の話がありましたが、やってやってるんだから黙ってろって発想は私はおかしいと思うんです。
やってもらってる、相手も良かれと思ってやっている、でも申し訳ないけどそこは望んでない、こっちにもっと手を貸して欲しいんだってことはよくあります。

家庭でだってそうです。
お風呂を洗ってくれるのは嬉しいんだけど、お母さんはお前に勉強頑張って欲しいんだよ、とか。
心配してくれるのは嬉しいけど、そうやってがんじがらめにされるのは正直迷惑なんだよな、とか。

お互いの思いがすれ違うことってしょっちゅうなんです。

で、今回の教育改革においても、なんで先生がこんなにイキんでるのか分かりませんが、そうやって先生たちが頑張ろうとすればするほど、子どもたちが頑張る場面がどんどん減っていくんですね。
先生たちが先んじて色々考え動くから、とりあえず言われることに従うしかないのだけれど、結果子どもたちはイキんだ大人たちの熱意に振り回される。
違うんです。
本当にやるべきは子どもたちにもっと頑張らせることなんです。

そもそも学校教育の変革において、ゴールはどこにあるんでしょうか。
そこも気になるところです。
子どもたちをどうにかしなくちゃ!っていう危機感が先行して、先のイメージが具体的に描けていないんじゃないでしょうか。
だからあれもこれも身につけさせなきゃ〜ってなる。
だから自分たちが頑張らなきゃ〜って思ってしまう。

私は学校教育はあくまでも国家プロジェクトだと思っています。
学校は、国がどんな子どもたちを育てたいかを具現化するための場所です。
昔から公教育は富国強兵、殖産興業という旗印の下、国家に寄与する人材を育成する目的で学校教育を運営してきました。
しかし今はそのビジョンが不明瞭で、逆に「子どもを一人の個として〜」なんて言われています。

いや、子どもたちは最初から個として尊重すべき存在であって、わざわざこれからの教育は〜なんて言い方をしなくてもいいはずなんです。
それに、教育の主役は保護者であって、学校教育と家庭が一緒になって育てる、そこに社会という要素が入ればなお良いですが、そうやってお互いに補完し合いながら育てていくものなんです。
それを勝手に学校が責任を負い始めて、今度は個の尊重とか言い出した。
それでは今まで尊重してこなかったみたいです。

そして、そうであるなら、まずはその部分を考えないといけないのに、いきなりアクティブ・ラーニングという目くらましが登場しました。
個性をもっと尊重して育てるんだ、らしいです。
中には多様性という言い方をしている人もいます。
教えるのではなく、サポート役に回るのだそうです。

こうして誰もが率先して、子どもたちを先導することをやめていったら、未来はどうなるのでしょうか。
国の施す公教育が、子どもたちに教えなくなったら、一体どうなるのでしょうか。

私は「詰め込み教育」への感情的な反発が根底にあることで、教育改革の目的の置き方が大きく外れてしまったと考えています。
だから授業そのものをガラッと変えるという暴挙に出た。

でも本当は違うんです。
今のままでも自由な学びができていた。
個性を発現できていた。
「詰め込み教育」と揶揄されながらも、そんなレッテルには騙されずに、勉強の本質を理解し取り組んできた優秀な人材は多くいたんです。

じゃあ何が本当は悪かったか。
その「詰め込み教育」の活用方法を教える教師がいなかったことです。
使い方が分からないんだから、うまく使えるわけがないんです。
でも、それでも独自に気付いた人たちは成績優秀な結果を残して抜きん出れた。

詰め込み教育の使い方が分かる教師が少なかったことが原因だったのかも知れません。
前回述べたように、教育学部は決して高いハードルではありません。
根性でも乗り越えていける学部です。
もちろん大学のレベルにも因りますが。

でも単純に詰め込んで合格してしまうと、詰め込み教育の活用方法を改めて模索する機会がないんですね。
知らないことは教えられない。
だから詰め込み教育は「詰め込み教育」として機能しないまま放置されてしまった。

裏を返せば、そこさえ先生方が理解して説明し、受験制度の乗り越え方までレクチャーすれば事は済んでいたはずなんです。
そうすれば、もっと明確な目的意識と安心感をもってプラスαを追求できた。
いつまでも「詰め込み教育」を理解しないから、先生たちもどうしていいか分からないままだったんです。
だから真新しい「アクティブ・ラーニング!」というアイデアに希望を抱いて飛びついてしまった。

というのが、これから起こる大混乱時代の序章です。

アクティブ・ラーニング自体は素晴らしい教育手法かと思います。
それ自体は全く否定はしません。
そういうことではないんです。
これまでの発想のままで違う武器に持ち替えても、使いきれるわけがないという話です。
詰め込み教育という前時代的な教育手法でさえ理解できなかったのに、次世代型の教育手法なら理解できると言える根拠が私には見えないんです。
電子黒板入れても使いこなせなかった、ああいう事態に多くの現場が陥ると思うんですね。

盛り上がっている意識高い系の先生たちは良いと思います。
さぞ盛り上がって楽しいでしょう。
でもそれが同じように再現できる先生たちばかりではない。
その現実をこれからどう理想に近づけていけるのか、そこが課題だと思います。
もちろん、そんなことはすでに話し合い尽くされているとは思いますが。

0 コメント:

コメントを投稿