2016年5月6日金曜日

藤原和博さんのバランス思考



遅ればせながら藤原さんの動画を拝見しました。
ここで紹介されていたのが、藤原さんの著書『たった1度の人生を変える勉強をしよう』です。
早速図書館で借りて拝読しました。

まず、いつも言っていることですが、私の立場としては「アクティブ・ラーニングは期待しているような結果を出せるものではない」というものです。
が、今回の藤原さんのおっしゃっている話と、本の内容を合わせて検証すると、考え方自体は私と近いものがありました。
「考えるには知識の習得が前提としてある」
「グループワークは今の勉強を前提とした先にある」
といった点は全く同意見です。

要するに、アクティブ・ラーニングが本当の意味で機能するのは、今の詰め込み教育を前提として(つまり知識の習得があって)初めて成り立つものなのだから、今の詰め込み教育で結果を出せていない子にはアクティブ・ラーニングは厳しいものとなる、ということです。
ここまでは藤原さん自身はおっしゃっていません。
ただ論理的に考えればこういうことになります。

藤原さんのどこに共感を抱いたかというと、そのバランス感覚です。

アクティブ・ラーニングを推奨する教育者の方は大抵、教育観に偏り過ぎていてバランスの悪い発想しかできていない場合が多いんです。
事実、政府主導で進められる教育改革の軸にあるのだから間違いないとか、文部科学省が推奨しているから間違いないといった、「権威ある人のお墨付きがある」ことを理由にアクティブ・ラーニングを盲信している方もいるくらいです。
いや、盲信するしかない立場だから、かも知れません。
つまり、「この発想が素晴らしく感じるから進めよう!」という感覚論でしか話せない方が多いんですね。

その理由は教育学部を受験して大学に入っているからだと思います。

語弊を恐れず言わせてもらうと、教育者はほぼほぼ勉強のことをあまり理解しないまま教師になっています。
どうして「勉強を理解していない」と言えるかと言うと、教育学部自体がそんなに高い学力を必要としない学部である場合がほとんどだからです。
もちろん大学によりますし、東大京大になると70オーバーですが、ほとんどの大学の教育学部は偏差値60も要りません。

その点藤原さんは東京大学出身であり、教育学部でもなく、リクルートに入社し営業職でトップを取られたという経歴があります。
純粋な教育畑ではないから客観的に教育を考えることができるんですね。

学歴差別とかそういう話ではありませんが、誤解をされたくないので一つ付け加えて説明します。

詰め込み教育と言われている今の学校教育では、言わずもがな受験は「暗記大会」です。
しかし、大学ヒエラルキーの上位校や医歯薬、難関校と呼ばれるレベルになると、単なる暗記では対処できない入試問題を乗り越えねばなりません。
東京大学ももちろんその筆頭であり、単純暗記を超えて本質まで理解することが求められる数少ない大学でもあります。
そのため、全く違う視点を持って彼らは勉強を攻略することが求められるわけです。

その点教育学部はやはり頑張って暗記すれば合格してしまえるレベルです。
つまり「詰め込み」で合格できる範囲にある学部なんです。
失礼な言い方になっていたらすみません。
でも事実、勉強の本質を理解せねば合格できないようなレベルでは決してないわけです。

これは日本語によくある問題ですが、一度レッテルを貼ってしまうと、そういう見方しかできにくくなります。
今の学校教育もそうで、だれが言い出したか知りませんが、「詰め込み教育」と言われるとその言葉通りの認識をしてしまうものですし、実際そういう人というのは勉強の本質を理解できていないんですね。
今の教育制度にあっても、単なる詰め込みに終わらせない勉強ができている生徒が一定数存在していて、彼らは全く異なる感覚で受験に対応しています。
だから難関校、難関学部に合格していくとも言えます。
なので教育学部の人たちとは全く勉強に対する認識が異なるわけです。

文字通り詰め込む勉強のやり方(発想)しか知らない人は勉強の本質を理解していないから、教育観を軸に発想を回すしかない制約を受けています。
だから、教育改革の軸にあるはずの「勉強の取り組み方」については語れる素地がないと言わざるを得ません。
が、藤原先生は勉強のことを理解している(東京大学に合格している=受験制度を攻略できた)ことと、純粋な教育者ではないというアドバンテージで、教育を客観的に、かつバランスをもって観察することができるんです。

これまで出会った教育者の方にアクティブ・ラーニングについて伺っても、どうもしっくりこなかったのですが、藤原さんの話を聞いて初めてその趣旨が理解できました。
子供達の人生を担う教育という分野において、なんとなくで話を進めてしまうことほど無責任なことはありませんし、政府や文部科学省が教育改革に動き出したことを評価しすぎることもまた危険です。
その中にあって藤原さんが教育改革実践者として中枢におられるのなら、まだ希望があるかも知れません。

ただ残念ながら、まだ私の結論は変わりません。
アクティブ・ラーニングはきっと今のままでは十分に機能しないでしょう。
最初に言いました通り、グループワークや学び合いは「十分な習得が前提」だからです。

例えば、塾や独学ですでに答えが分かってしまっている生徒、家庭環境的に考える力がすでに身についている生徒にとっては、そうでない生徒と同じグループで学ばされることはかなり負担だと思います。
グループワークや学び合いが最も機能するのは、本来同レベルの知識量や問題意識がある場合だからです。
足並みを揃えないといけないと思うと待ちが多くなりますし、打っても響かない学び合いでは時間が無駄になっている感じもあるでしょう。
そうなると学校の授業時間が大きな足かせに感じ、学校に一線を引いて塾に意識集中したり、余計に勉強せねばと焦ってくると思われます。

また、反転学習を採用するにしても、家庭学習時間を有効活用できていた生徒にとっては良いでしょうが、現時点で宿題がままならない生徒が今以上に積極的に取り組んでくれるのかは疑問です。
結局は学校に来て学び合いの時点で「授業を観てこなかった」という状態では、他の生徒の足を引っ張ることになるわけです。

今までの個別の勉強スタイルであれば自分のペースで勉強できたのに、他の生徒とのグループ学習を採用したせいで優秀な生徒の足が引っ張れるという事態にもなり兼ねません。
そうなると全体学力が総じて低下傾向を見せることになります。
それが一番危険なことです。

となれば、今の学校教育の在り方をより有効に活かせるように促し教育して、アクティブ・ラーニングが大学に入ってから活きるようにしていった方がはるかに現実的です。
高校3年生までは知識の習得に集中させるのです。

おそらく私の知らないところで、たくさんの先生たちが真剣に議論を重ね、アクティブ・ラーニング導入に向けてご尽力されていると思うのですが、教育観に偏った感覚的発想しかできない方ばかりが3人集まっても、決して文殊の知恵にはなりません。
教育を客観的に眺めて、むしろある意味で批判的な考え方を持つ方を議論の輪に入れないと、今以上の有効性は得られないと思います。
アンチテーゼがないとジンテーゼは生まれにくいでしょう。

と、ごちゃごちゃ言っても今のトレンドは変わらないことも承知しています。
ですが誰かが言い続けないと、このまま進んでしまいますし、今のまま進んでも絶対ゆとり教育を超える混乱しか望めません。
想像できる結末は圧倒的な学力格差です。

そこに対して私は独自の対抗策を今後打ち始めるつもりです。
それは”自勉”です。
「自分で勉強できること」を全力で推し進めていかねばと思っています。
その理由についてはまた改めて訴えていきますので、是非ご覧ください。

今日はここまでにします。
ありがとうございました。

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