2015年7月27日月曜日

方法がデモしか本当にないのかを考えてほしい

この暑い中でもデモや抗議活動に参加して
声を荒げているのをニュースで観ます。
私が冷めているのかも知れませんが、
よくやるな〜と。


中には若者が立ち上がり、
アイドルグループの誰かが壇上マイクでコメントするなど、
盛り上げっていると聞きますが、
内容を聴けば都合の良い情報をだけを繋ぎ合わせた感情論で、
なんとも間の抜けた主張でした。
もうちょっと勉強してからせんと、
ちょっと恥ずかしいぞと思いました。


先日ワイドなーショーには長渕剛さんがいらっしゃって
持論を展開していましたが、
やっぱり空虚な理想論。
「皆さん勉強なさって詳しいのかも知れませんが、
 論点が違うと思うんですよね」
と始めた話は、信じていれば夢は叶う的な話でした。
でも周囲も何も言えない。


ん〜


今や若者の怒りがママに飛び火しママデモが起こっていると言います。
乳母車を押したり、小さい子の手を引きながら
デモで安倍政権への悪態をついて回るというもの。
「一人で参加する勇気はなかったけど、
 みんなと一緒で勇気が出ました」
と発言しながら、安倍さんへの集中砲火を浴びせる始末。


方や18歳から投票権を得る若者層も二分化されています。
安保法案自体を全く知らないという子もいるのです。
家で話題にすら挙らないという。


私は安保法案のニュースがきっかけで、
戦争や平和に思いを巡らす人が増えるのは良いと思うんですよね。
でも「民主主義」を盾に、
一人矢面に立って戦う安倍首相に
徒党を組んで文句を言いながら練り歩くデモという行為が、
私には民主主義から最もほど遠いイベントだと思ってしまいます。


そもそもデモをする目的って何ですか?
自分の鬱憤晴らし以上の何かなんでしょうか。
十分な説明を聴きたいのか、
もう決まってしまった案件に対して撤回してほしいのか。


まず説明をしてほしいのなら、
正式な手続きを踏んで代表者をよこすなり、
会見を要請して会見会場にカメラを設置し
聴講用の全国の会場に生中継を流して周知を図るなり、
何かしらの持っていき方があるでしょう。
少なくても、あんなに声を荒げて
反対反対!
と感情論をぶつけるのは、
人にモノを聴く態度とは言えません。


では決まった案件に撤回を求めるのか。
その場合は代案を立てるのが筋です。
勿論今回の案件は「賛成か反対か」というものなので、
もし賛成に決まった今回の案件を白紙撤回し、
反対にひっくり返すなら、
反対することによって生じるあらゆる問題に対して
どう対処するのかの代案を提示する必要があります。
そしてその対処にあたるに足る人材を出すか、
相応のリスクを共有することが前提です。


そういったことなしに、
責任だけは国会議員に押し付けて、
その決定が不服だからと反対運動するのなら、
それはアンフェアと言うものです。
デモは権利なので別に続けてもいいのでしょうが、
それでデモ参加者が求めている結果が得られるとは到底思えません。


例えば、理屈で考えれば
安倍首相が国民一人ひとりに説明して回るのはまず不可能です。
私たちも今回の出来事で戦争が起きるのではないのか、
本当に戦争を回避できるのか心配や不安があるのです。


物理的に時間的な余裕がない中で、
国の行く末を左右する案件に決着をつけなければならないという中で、
私たち国民がすべきは「情報集め」です。
一体この安全保障関連法案がどんなもので何をもたらすのか。
情報集めには正直限界があります。
何が本当に重要なことなのか。
そこまでは分からないかも知れません。


しかし、少なくても
テレビや新聞だけを見て判断をしようとするのは間違っています。
明らかに情報ソースの選択ミスで、
その歪曲された情報ではなく、
本を読むなり関係者に話を聴くなり、
加工前の情報を集めるべきです。


文部科学省の下村大臣も、
オリンピック問題で辞任のカウントダウンが始まったと言われていますが、
教育改革の中で「考える力」を主軸に添えるなら、
その見本を示してほしい。
情報集めもしないで「考える」ことなどできません。
それは単なる思い込みです。
考えるには情報が要るのです。
そしてコンサル業界でよく言われるように「garbage in, garbage out」です。
真理に近い答えは、
それなりにインプットする情報を取捨選択せねばなりません。
どこから情報を得るのかが大事なのです。


ですから、偉そうなこと言えば、
デモをする暇があったら、
安全保障に関する本を1冊でも読んだ方が、
よっぽど国のためになると思うんです。
国とは国民です。
私たち一人ひとりが国なのですから、
私たちが学ぶことがそのまま日本の増強になるのです。
だから情報を集めて考える力を身につけることが、
デモでストレス解消するよりよっぽど建設的なんです。


平和や民主主義を望むなら、
まずは自分のその牙をしまうことです。
怒りが戦争の引き金なのです。
怒りをぶつけ合う事が戦争なんです。
戦争をなくしたいと言うのに、
その「戦争をなくしたい!」という怒りを相手にぶつけていたら、
それが戦争になってることに気付かないっていう、
よく分からないことになります。


私は戦争はしたくありません。
だから怒りは怒りのまま相手にぶつけたりはしません。
その分理論武装をします。
勉強するんです。
それも戦いです。


色々長々書きましたが、
この国を守るということが、
平和であり続けるということが、
民主主義の中で生きるということが、
一体どんなことなのかを、
是非考えていきましょう。
その先に答えがあると私は思っています。

2015年7月16日木曜日

テレビと教科書の構造的共通点

今回衆院特別委員会にて議事が可決され、
衆議院本会議に持ち込まれることになりました。
衆議院の優越が原則である以上、
ここで本会議に持ち込まれれば、
ほぼ法案として可決されてしまいます。
かなり焦ったのか野党はプラカードを持参し応戦。
その頑張りも空しく採決は強行され、本会議行きが決まりました。


・・・のようにテレビでは報道されています。


「強行採決」「戦争法案」
すごいネーミングセンスです。
そして何より、反対しているはずの野党議員は
「賛成の者は起立」時にちゃっかりカウントされており、
反対パフォーマンスが露呈してしまいました。


奥の深い、かつ難しい問題を
たったの数分でお茶の間に届けないといけない
番組制作サイドの陰ながらの努力も、
結局印象作りに徹してしまい、
本当に伝えるべき物事の本質を大人の(政治的な?)
オブラートで包み隠してしまっています。


これは教科書の制作過程と同じではないでしょうか。


最近世界史を勉強していて分かるのは、
世界史の教科書があんなに薄くなるわけがない!という実感です。
ヒトラーとナチス、フランス革命、アインシュタインの人生などを調べていくと、
重要なことがどんどん出てくるのに、
世界史の教科書にはほとんど表面的な出来事の羅列と
簡単な因果関係しか書かれていません。


正直難しいと思います。
あれだけの長い長い歴史の内容を
たった3,400ページでまとめろっていうのは。
でも結局、
そうやってできた“世界史”とは一体何なのでしょうか。


私たちはきっと、
知りたいことほどテレビや新聞、教科書からは
学べない立ち位置にいるのではないでしょうか。
あらゆる方々の複雑な事情の中で、
私たちが最も欲する内容こそが
表面化する前にとっくに削ぎ落とされている。
そんなが気がしています。
だからこそ学びが必要なのでしょう。


安倍首相も認めているように、
国民への説明責任を十分果たしているとは言えないけれど、
日本は直接民主制ではありませんし、
国同士の駆け引きなどにも追いつけない部分が多分にあります。
そんな中で、逆に全てをオープンにされても重すぎるでしょう。
国民をないがしろにしていると責め立てられても、
日本が今回の法案を通すべき時期に来ているのだと、
本当に考えているのかも知れません。
私には分かりませんが、
そうであることを願います。


日本は小さく、弱っていく国です。
とても一人では立ち行かない不安を抱える国です。
その一国の首相として奮闘する一国民安倍さんを、
私は今はまだ信じたい思いです。


決断とは、実に重たいものですね。

2015年7月7日火曜日

パートランド・ラッセルとウィリアム・ジェームズ

最近の葛藤はもっぱらこの二人の考え方に根ざしています。


パートランド・ラッセルは
証明できないものには意味がないというスタンスです、
ざっくり言えば。
彼は科学者なので、
実験で証明できなければ議論の余地はない、
というのが根底にはあります。


科学の世界では実験で証明されることが
何よりも重要なことです。
仮にそれがどんなに突飛で
信じられないような仮説であっても、
それが現実に証明されてしまえば、
事実になってしまうわけです。


たとえばその良い例が光の速度の一定性でしょう。


光の速度は約秒速30キロメートル。
1秒で地球の周りを7周半する速さです。


物理的に考えれば、
仮に超人ハルクが秒速10キロメートルで
走れると仮定すれば
相対的に考えて光の速度はハルクからは
秒速20キロメートルに見えるはずなんです。


しかし、現実には
ハルクがどんなに速く走っても、
仮に光速で走ったとしても、
相対的に光は常に秒速30キロメートルで
見えてしまうというのです。


これは信じがたいことですが、
実験で証明されてしまっているので
事実と考えるしかありません。


話を戻すと、
ラッセル的に言えば、
実験で真偽を検証できないような命題は
議論する必要がないほどくだらないのですが、
でもプラグマティズム(実存主義)を
引き合いに出して考えてみると、
必ずしもそうではないんですね。


ウィリアム・ジェームズのプラグマティズムは
実存は本質に先立つというものです。
要はある人にとって有用ならば、
それがどんなに本質を欠いていたとしても、
その人には真なのだということ。


逆に言えば、どんなに本質を突いていても
その人にとって有用でなければ
それは真とは言えないということです。


この視点に立つと、
私たちの採るべき最善の策として
ラッセル・ジェームズ理論が
挙げられるでしょう。
これは私の創作です。


要するに、どっちも思考パターンとして持っておき、
状況に応じて使い分けるというものです。
当たり前と言えば当たり前ですが、
これって意外と難しいんです。
なぜなら人は主観的だから。
感情の生き物だからです。


ラッセル・ジェームズ理論を正常に機能させるには
思考を司る前頭前野を活発化し、
感情回路を封じ込める必要があります。


しかし情報を受信した時点で
私たちは試されるわけです。
その情報をちゃんと客観的に
受け取れているのかどうか。


判断材料としての情報が
主観まみれであれば、
そもそも判断以前の問題になってしまいます。


と、こうしてごちゃごちゃ考えてきましたが、
要は様々な思考パターンを
哲学や科学から得ることの意義は、
自分が最善の解を導くためであり、
その精度を上げるには
感情や主観をなるべく排した状態で
客観的な情報把握が必要だ
ということなのです。


現実的には難しいですが、
そうしようと思っているだけでも違います。


先ほどの光の速度の一定性からも、
私たちの直感は必ずしも正しくありません。
時には信じがたい事実に打ち当たることもある。
それがこの世界なのですが、
全てを自分の中で迷宮化するのは
それはそれで愚の骨頂。
その部分を是非意識されてお過ごし下さい。


では。

2015年7月4日土曜日

“再び”あの頃の自分へ

新婚旅行で訪れたオーストラリアはシドニーの様子。
こちらは当時泊まったホテルの部屋から見えた
最高の景色です。


左に見えるのはハーバーブリッジ。
右手に見えるのはオペラハウス。
ちょうど豪華客船が着港しており、
思わずパシャってしまいました。


今回は新婚旅行のノロケ話でも、
オーストラリアで泊まったシャングリラホテルの
自慢話でもありません。
目標に対する意識の持ち方、
目標の認識の仕方についての話です。


例えば私は実際に過去に
クリスマスの時期を南半球で過ごしました。
なので記憶情報として鮮明に
その頃のことを思い出すことができます。


しかし以前にもお話ししましたが、
脳内にあっては記憶も妄想も
情報であることには変わりません。
臨場感を持たせてやれば
単なる妄想も立派な“記憶”です。


夢か現実かが分からなくなった
という体験は皆さん誰もが
されたことがあると思うのですが、
脳内の情報処理のプロセスが同じなので、
そう感じてしまうのです。


ということは、
すでに過去に経験したことの記憶と、
これから実現した未来の“記憶”は、
情報精度が同じくらいであれば
どっちも脳は同じと認識するということです。


ここで重要なフレーズは「臨場感」です。


自分の未来の展望イメージに
目の前の現実と同じくらいの臨場感を
抱くことさえできれば、
あなたのイメージは「現実」だと認識します。


私にとっての
「またオーストラリアに行きたい!」という思いと、
「あと7年以内に経済的自由人になる!」という思いは、
同じ行為だと言えるのです。


目標という言葉を使えば、
今までの認識習慣もあって、
どうも「そこへたどり着く」という
意識の持ち方になるのではないでしょうか。


そうすると脳は無意識のうちに
「まだまだ先にある目的地」と認識します。


しかし一方で、
ちょっと発想を変えて「そこへ“戻る”」と言えば
どうでしょうか。


私たちの意識も、
「今から頑張ってそこへ行く」のではなく、
「以前できたことをもう一回やればいい」と考え、
目標という言葉の持つ意味合いが
大きく変わってしまうのではないでしょうか。
思いのほか気が楽になります。


そうです、
同じ目標を達成するのなら、
なるべく気楽に達成したものです。
そして、“再び”そこへ”戻る”だけだと思うことで、
私たちは目標の上に立ち、
目標の前を走ることができるのです。


では、今日もあの頃の自分に
戻る努力を続けて参りましょう。

2015年7月1日水曜日

数学には真理が鏤(ちりば)められている

今日は映画『グッド・ウィル・ハンティング』を鑑賞し、
数学の天才の影響を受けたので、
ムラムラと数学を勉強したくなりました。
おもむろに本棚から数Cを出してきて
媒介変数表示と極方程式の分野をざっと復習。


ちなみに今はもう数Cはなくて、
数Ⅲに1本化されているようです。


これは余計な話ですが、
こういうのも気が向いたときに勉強すれば
1時間程度で20ページ分くらいすぐに
復習できてしまうものなのですが、
塾や予備校に行っている人にとっては
予習、授業、復習と
三重に時間をかけてしまうんだろうな〜
なんて思ったりしました。


はい、愚痴はやめましょう。


今回の媒介変数表示と極方程式を選んだのには
特に理由はありません。
ただ、何となく小難しい系で頭をほぐしたかった感じです。
そのうち確率や微分積分当たりを復習して、
東大数学をガツガツ解いてみようかなと思っています。


そんな数学ですが、
今日はこのフレーズに着目してみましょう。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
極座標を与えられると点は1つに定まるが、
1つの点を定めても
極座標は1つに決まるわけではない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


ちなみに極座標とは、
なじみのある直交座標とはちょっと違う発想です。


直交座標ではある点Pの座標を(X,Y)と表記します。
X座標とY座標で表現するのです。


しかし一方で極座標は、原点を極と呼び、
その極からある点Pまでの距離をrとします。
そして、その極とPを結んだ直線が
X軸と何度で交わっているかという角度をθと置き、
Pの座標を(r、θ)と表すのです。


要するに一番大きな違いは、
極座標には位置に関して「回転」の概念が加えられた
ということになります。


回転の概念は三角関数とリンクすることになるのですが、
もう一つ重要なのは、
回転には限界があるということです。
それが360度であり、弧度法で言うところの2πです。


表記上では720度とか1050度と書くこともできますが、
720度は0度と同じであり、1050度は330度と同じ角度を指します。
弧度法でも同じです。
つまり、θは0〜360度の中でグルグル
同じ値をとり続けることになるのです。


とすると、今回座標を(r、θ)と置くことによって、
θの値が何通りも書けることになってしまいました。
これが「点は一つでも極座標は1つに定まらない」
の意味なのです。


だからなんや??って思うかも知れませんが、
この発想が実はすごく大事で、
例えば熊本高校の2年5室の前田という男子、
という情報が与えられれば
その人が誰なのかは明確になります。
もしかしたら、もっと情報が与えられて、
いつも遅刻するだらしない前田かも知れませんし、
毎回テストで点数の振るわないバスケ部の前田
かも知れません。


このように誰かを規定する文言で
確かに誰のことかが分かったとしても、
その前田は自分のことを
「いつも遅刻ばかりのだらしない自分」とか、
「毎回点数が振るわない自分」と
規定する必要はないということです。


「いつも遅刻するけど
 学校では誰よりも集中している自分」とか、
「今は点数振るわないけど、
 部活終わったらガンガン周囲を追い上げる自分」
といったように規定しても良いわけです。


結構周りからの評価を真に受けて
自分のことをネガティブに規定している子が
多く見受けられます。
意識していないかも知れませんが、
周囲の自分への評価がどんなものかは
実は日頃から自然と気になっていて、
無意識のうちに自己評価にも採用してしまっていることも
十分考えられる状態なのです。


そうでなくても、人は周囲からの情報で
簡単に動機付けさせられてしまう生き物です。
メディアの影響でマイホームが欲しくなったり、
CMを観て今話題のゲームを欲しくなったり、
ネットからの情報で
お金持ちの生活にあこがれを持ってしまったりと、
意外と感化されやすいものなのです。


大事なのは、自分が自分をどう評価するかです。
周囲の評価ではありません。
勿論友達の評価でも先生の評価でも
親の評価でもないのです。
そんなものは何の当てにもなりません。
自分を最も正確に規定できるのは自分なのです。


今あなたの自己評価はどういったものですか?
それは本当に“正確なもの”ですか?
書き換えることはいつでもできることです。
是非意識してみて下さい。
そして数学の勉強もしっかりやりましょう(笑)

学位なんかなくても


グッド・ウィル・ハンティング鑑賞しました。


マット・デイモン演じる主人公ウィルは
数学の大天才。
それこそ独学で物理を研究し、
物理学の世界を一変させてしまった
アインシュタインを彷彿とさせるほどです。
彼もまた、当時26歳で日の目を見るまで
企業に勤める会計係でしかありませんでした。


孤児であり学もないウィルでしたが、
天才的な頭脳を持っていました。
何でもすぐに覚えてしまえるのです。
だからMITの教授が2年も掛けた証明を
観てすぐに回答し、
社会学先攻のハーバード生を
知識で圧倒してしまえるほどの天才でした。


でもその一方で、
子どもの頃に受けた精神的な傷が原因で
今の世界から飛び出すことを嫌い、
他人に自分をさらけ出すことを
極端に恐れていました。
そしてそういう自分の内面の状況に
気付けないでいたために
歩み寄る人々を悉く傷つけてしまいます。


そんな彼の内面の複雑さに
いち早く気付き理解を示したのは
今は亡きロビン・ウィリアムズ演じる
ショーンでした。


この映画は今回読んでいた本の1冊
『「イヤな気持ち」を消す技術』で紹介されていたので、
早速今日借りてきて観てみたのですが、
期待を大きく上回る印象を受けました。
この歳になったから分かるというか、
考えさせられる場面が多く
グサグサ刺さりました。


この話の中で印象に残った場面は
彼がハーバード生を論で圧倒するところです。
下町出身の彼らをあざけるように
専門書の知識をそらんじてみせる相手に対し、
ウィルは知識で応戦。


ウィル:
キミはそうやって本の内容を
まるで自分の考えであるかのようにまくしたてるが、
そんなことならわざわざ年間15万ドル払って
学校に行かなくても、
図書館に行けばタダでできるさ。


ハーバード生:
でも学位がもらえる。
俺は一流企業に行って、お前は掃除屋か?


このセリフの後のウィルが本質を突きます。


ウィル:
学位なんてなくても自分の頭で考えてる。
キミは50年くらい勉強したらやっと気付くだろう。
「人の言ってることを盗むな」とね。


この映画が私に残した学びは
もっともっとたくさんありますが、
とてもここでは言い尽くせません。
しかし学のない天才の放つ素直な言葉は、
私の迷いを幾分か払拭してくれました。


勿論これは、よくできた物語。
そういってしまえばそうなのですが、
彼らが演じた一人ひとりの人生と
価値観と思いと感情とそれら全てが
今の私に必要なものばかりであふれていました。


良い映画1本には無限の学びが含まれています。
この映画、是非観てない方は観られてみて下さい。