パートランド・ラッセルは
証明できないものには意味がないというスタンスです、
ざっくり言えば。
彼は科学者なので、
実験で証明できなければ議論の余地はない、
というのが根底にはあります。
科学の世界では実験で証明されることが
何よりも重要なことです。
仮にそれがどんなに突飛で
信じられないような仮説であっても、
それが現実に証明されてしまえば、
事実になってしまうわけです。
たとえばその良い例が光の速度の一定性でしょう。
光の速度は約秒速30キロメートル。
1秒で地球の周りを7周半する速さです。
物理的に考えれば、
仮に超人ハルクが秒速10キロメートルで
走れると仮定すれば
相対的に考えて光の速度はハルクからは
秒速20キロメートルに見えるはずなんです。
しかし、現実には
ハルクがどんなに速く走っても、
仮に光速で走ったとしても、
相対的に光は常に秒速30キロメートルで
見えてしまうというのです。
これは信じがたいことですが、
実験で証明されてしまっているので
事実と考えるしかありません。
話を戻すと、
ラッセル的に言えば、
実験で真偽を検証できないような命題は
議論する必要がないほどくだらないのですが、
でもプラグマティズム(実存主義)を
引き合いに出して考えてみると、
必ずしもそうではないんですね。
ウィリアム・ジェームズのプラグマティズムは
実存は本質に先立つというものです。
要はある人にとって有用ならば、
それがどんなに本質を欠いていたとしても、
その人には真なのだということ。
逆に言えば、どんなに本質を突いていても
その人にとって有用でなければ
それは真とは言えないということです。
この視点に立つと、
私たちの採るべき最善の策として
ラッセル・ジェームズ理論が
挙げられるでしょう。
これは私の創作です。
要するに、どっちも思考パターンとして持っておき、
状況に応じて使い分けるというものです。
当たり前と言えば当たり前ですが、
これって意外と難しいんです。
なぜなら人は主観的だから。
感情の生き物だからです。
ラッセル・ジェームズ理論を正常に機能させるには
思考を司る前頭前野を活発化し、
感情回路を封じ込める必要があります。
しかし情報を受信した時点で
私たちは試されるわけです。
その情報をちゃんと客観的に
受け取れているのかどうか。
判断材料としての情報が
主観まみれであれば、
そもそも判断以前の問題になってしまいます。
と、こうしてごちゃごちゃ考えてきましたが、
要は様々な思考パターンを
哲学や科学から得ることの意義は、
自分が最善の解を導くためであり、
その精度を上げるには
感情や主観をなるべく排した状態で
客観的な情報把握が必要だ
ということなのです。
現実的には難しいですが、
そうしようと思っているだけでも違います。
先ほどの光の速度の一定性からも、
私たちの直感は必ずしも正しくありません。
時には信じがたい事実に打ち当たることもある。
それがこの世界なのですが、
全てを自分の中で迷宮化するのは
それはそれで愚の骨頂。
その部分を是非意識されてお過ごし下さい。
では。
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