今日本では学校教育の改革が思案され進められています。
ただ、もっと客観的に考えてみると、そもそも学校って必要なの?という話にもなってきます。
かのホリエモンこと堀江貴文さんも学校不要論を唱えているように、学校に子どもたちが集まる必然性が薄れているのです。
となれば、そもそも教育改革を施して学校という環境を残していこうという発想自体が時代遅れであって、そういった時代遅れの発想で教育を改革していこうという人たちに身を委ねても、やっぱり時代遅れの感覚しか身につかないのではないでしょうか。
例えば、今の学校は完全に目的を見失っています。
以前は富国強兵、殖産興業を背景に、国として明確なビジョンの下学校教育制度が施されていたので、その結果輩出される若者の資質もある程度均質化されていました。
しかし今では時代も変わり、以前必要とされていた資質では、現実的にマッチしなくなってきました。
日本は豊かになってからの「失われた20年」の間、学校教育を「鎖国状態」にしてしまったのです。
気づいたら完全に時代から取り残されていた。
焦った政府は、時期もあってか、待った無しの教育改革を断行しましたが、これからの改革でどんな大人が育つかは、その教育を受けた子どもたちが大人になってみないとわからないわけです。
しかし、そもそも今の感覚で改革をしても、その成果を効果測定する頃(今から10年以上も先)には時代遅れになっているでしょうから、測定自体が無意味になってしまいます。
では、果たして今の学校は何のために存在しているのでしょうか。
「学校の存在意義を明確にするためには〜」という発想のはじめ方では、この問いへの正確な答えは出てきません。
それは「学校の存在が必要であること」を前提に考えることになるからです。
本来であれば、必要か否かというもっとベースから考えなくてはなりません。
そして、学校が存在意義を失った時、教育改革がそもそも不必要なことであると結論付けられます。
私は学校が全くのゼロになることは望んでいませんし、それは全く現実的ではないと思っています。
ただ、無目的な義務教育ならば、そんなものに価値はないので、行きたい人だけ行くとか、学びたいものだけを学べる柔軟なシステムにするべきだと思うのです。
例えばいじめの問題も、学校がある以上なくなりません。
学校というシステムが今のままであれば、そのシステムが起因となり、いじめが誘発されるからです。
これは現在サイエンス・ライターとして活動されているマーク・ブキャナン氏の著書『人は原子、世界は物理法則で動く』から導いたものですが、要は人間は人間の性質ゆえにその行動をとると思われているが、中には、その集団が置かれた環境によって行動が誘発される場合も少なくない、という考察です。
黒人と白人の居住区分離は、なにも白人の黒人差別心が引き起こしたものではなく、ただただ人間が普通に持っている感覚が環境に影響を受けて、結果的にそうなってしまっただけであるという考察が、その著書には記されています。
つまり、その場所、その状況に置かれただけで、人は自然とある種の関係性を築くことがあるということです。
この考え方を参考にするならば、学校でいじめが起こるのは、ある意味では必然かも知れません。
そして、もしいじめが発生しても、いじめられている子がその場から容易に脱出することができれば、いじめが深刻化することも避けられるはず。
しかし、実際にはそうはなりません。
例えば学校のあり方がよりフリーになり、流動的なシステムになれば、そして子どもたちが学びたいものに集中できる環境になれば、そもそもいじめをしようなんてことにはなりにくい。
暇だから、夢中になれるものがないからいじめが起こるんです。
そして暇や堕落を誘発するのは今の学校システムゆえであるなら、学校教育は根底からその形を変えねばならないことになります。
「学校」という定義がまだまだ曖昧ですが、「学校」というものを残すとしても、そのシステムは変わるべき時に来ています。
無料で利用できる授業動画が溢れている時代に、ハコにこだわる学校のあり方は旧い。
学校は、時代が求める目的に応じてゼロベースで検討し直されるべきで、今の不毛な教育改革でお茶を濁されている場合ではないというのが私の思いです。
学校は今、そのシステムが限界を迎えています。
本当に意味のある学びの環境にする気があるのなら、まずはその発想を壊してみるべきです。
それを考えると今の教育改革は、実質、教育「改善」に過ぎません。
いや、改善されるかどうかも謎です。
これから勉強の目的を模索しようという、とんでもハップンな改革路線はむしろカオス。
そんなカオスに引き込まれないためにも、自分で勉強できる強さを身につけなければと思うわけです。
学校とは何のためにある?
学校とは何?
学校は必要?
これから何度も考えなくてはならない問いかも知れません。
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