2015年6月1日月曜日

パルメニデスの誤謬

これは2009年に出版された
DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー別冊11月号で
ハーバード・ビジネス・スクール教授
クレイトン・M・クリステンセン氏がされていたお話の題名です。


パルメニデスとは古代ギリシャで
「万物は不変である」と言った哲学者。


しかし現代においては
経営理論や戦略フレームワークは
時代とともに移り変わり、
決して不変ではあり得ません。


それを受けてクリステンセン教授は
「パルメニデスの誤謬」として
万物は決して不変ではないと論じたのです。


「誤謬(ごびゅう)」とは「真理」の対義語。
論理的もしくは形式的に
ある意味において合理性を失っていること、
というニュアンスです。


ただし、クリステンセン教授の言うような
単純な意味での不変を唱えていたとは
私にはどうも思えません。


実際、アリストテレスやプラトン学派は
パルメニデスの思想を大いに評価し、
イデア論の言説とまで言っています。


パルメニデスの言う”変化”とは、
在るものが無くなり、
無いものが在るようになることであって、
それは感覚的にはそうだろうけど、
理性的に考えれば
有が無になり、無から有が生まれるというのは
おかしくないか?と言うことです。


そう考えれば、
表面的には経営理論は形を変え、
戦略フレームワークも進化を遂げてきたでしょうが、
それは目の前の状況に応じて
各々の要素が組み変わっていっただけで、
要はパターンの組み合わせが
入れ替わったに過ぎないとも
考えられるかも知れません。


これまでになかったものが生み出されたのではなく、
これまであったものに新たな視点が加わって、
別の角度から捉えなおされ、
別の理論やフレームワークと融合されたりしながら、
”新しき”と呼ばれるようになったわけです。


これは勉強に関しても同じでしょう。
勉強方法なんて無数に存在しますが、
それらはバラバラなことを言っているのかと言うと
決してそうではありません。


ましてや、別々の人が
全く真反対のことを言っていたとしても、
そのこと自体は決して矛盾ではなく、
両者とも求める成果を出せたという点では
至極合理的な帰結なのです。


とすれば、
一体それら無数に存在する勉強理論の
根底にある共通認識は何なのか。
それこそがパルメニデスの言う
”不変な何か”なのでしょう。
私が言う”勉強の原理原則”であり
”勉強のルール”です。


ただし、私は勉強に哲学を持ちこむ気は
全くありません。
勉強は実学なので哲学で語るべき対象ではありません。
教育という分野で見れば
そこに哲学的なアプローチがあっても
良いのかも知れませんが、
こと勉強においてはそんな曖昧なものではなく
受験制度というシステムで動いている以上、
哲学が入りこむ余地はありません。


なので、”勉強の原理原則”とは
共通のルールであって
共通の見解といった曖昧なものでは
決してないということなのです。


また、教育改革が進められているように、
勉強の意味するところのものが
時代に沿って変化するは
十分考えられます。
技術の進歩や国際情勢の移り変わりの中で
価値観というものは
どんどん変化していくものだからです。


今回は少し固めの文章になりましたが、
パルメニデスの言う「万物」は
おそらく不変と言えるものでしょうが、
もっと表層的な現象や価値観と見れば、
確かに誤謬という解釈になるのかも知れません。


要するに、なにを見て語るかということですね。


勉強とは何なのか、
教育とは何なのか、
人生とは何なのか、
自分とは何なのか。


その答えを模索してみては
いかがでしょうか。

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