2015年6月5日金曜日

若いうちは仏教は勉強しない方が良い理由

以前勤めていた塾で
仏教を勉強していた中3生が
こんなことを私に言いました。


なんだか生きている事が
空しくなってきました。。。


え〜〜〜〜〜〜!?


その理由を聞くと
仏教の「空(くう)」の概念を知って
頑張る事の意味を見失った
と言うのです。


確かに空はそうなります(汗)


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全てはあるとも言えるし
無いとも言える。
世の中の全ては
幻みたいなものです。

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不正確な表現かも知れませんが、
つまりはこういうことです。


脳機能学者で私が信奉する
苫米地英人氏の書籍を読むと、

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目の前に広がる物理的空間の情報も、
頭の中だけで繰り広げられる
抽象的なイメージも、
脳内処理される時点で
区別できないものとなる。
どっちも「情報」に過ぎない。

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ということが分かります。


以前近未来を舞台にした3部作『マトリックス』
という映画がありました。
あの世界は、
自分の生きている目の前の現実が、
実は全て見せられていた夢だった、
というストーリーです。
仮想現実の世界を現実だと思って生きていたけど、
実際にはその逆だったわけです。


私たちは夢を見ますが、
あれもかなりリアルですよね。
触感もあるし声もするし。
このように脳には夢の世界も
目の前の物理的な世界も、
実は区別することができないのだそうです。


極端な例を言えば、
あなたがもしニューヨークに行きたいとします。
ニューヨークの町並みをイメージして、
自分がその中を闊歩している
そんなイメージを具体的に想像してみて下さい。


すると、その具体的なイメージと、
他の何でも良いのですが過去の記憶情報との
明確な違いは感じますか?


過去のことはもはや「情報」です。
思い出すことしかできません。
思い出された記憶情報のリアリティーと
自分で作成したイメージ情報のリアリティーは
実は区別できないものだということです。


もし今後ニューヨークに実際行く事があっても、
現地にいるその瞬間は感動しますが、
そこから帰ってきた後には
それは単なる(記憶)情報でしかなく、
行く前にイメージしていた情報と
区別できなくなってしまうわけです。


ということはわざわざニューヨークに
実際に行く必要はなかった??
というよくわからないことになります。


これを2500年前に悟りを開いた
ゴータマ・シッダールタは気付いていました。


老荘思想で有名な荘子も
同じような思想を唱えています。
それが「胡蝶の夢」です。


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夢の中で自分は蝶になって飛んでいた。
しかし実際には
自分が蝶になったのか、
こっちの世界の方が実は夢で
蝶が自分になったのか、
それはよくわからない、

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と言うのです。


理論的に脳機能が解明されるずっと以前から、
脳の特性はすでに既知のものに
なっていたというわけです。


そうすると、
現実に執着する必然性を
見失ってしまいがちになります。
それが先に挙げた生徒の悩みでした。


こうして考えると
仏教を勉強する時期というのが
ありそうな気がします。
私も以前仏教の教えを勉強しようと
色々動いていましたが、
途中でやめてしまいました。
理由は自分の人生の質を
上げてくれるものと感じなかったからです。


物欲にまみれ
様々なことに執着したいという思いが
人生のモチベーションである私の生き方と
真逆の思想でした。


なのでガツガツ生きたい!
という方は特に
今は勉強しない方が良いと思います。
受験生もなおさらです。


とは言っても、
宗教自体は持っておくべき教養ですので、
時期を見て調べてみる事をオススメします。

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