2015年6月29日月曜日

勉強とは何か

今日は本質中の本質であるこのテーマ、
勉強とは何かという話をしていきます。


この「勉強とは何か」を語る上では
「学習とは何か」「学問とは何か」を
比較対象として挙げると
飲み込みやすいかなと思います。


そもそも「勉強」という言葉は
江戸時代に商人の間で使われていたものです。
「ねぇ、ちょっと勉強してよー」
とお客さんに言われたり、
「はい、そりゃもう勉強させていただきますんで」
などとお客さんに言ったりしていました。


この場合の意味的には
「頑張って安くする」というニュアンスです。


勉強とは文字で紐解くと
「勤めて強いる」と言われますが、
おそらく意味として一番近いのは
「強いて勉めさせる」でしょう。
「強いる」とは「強制する」の意味ですし、
「勉める」とは「努める」
つまり「努力する」の意味なので、
「無理矢理努力させ(られ)て安くする」
という感じで使われていたわけです。


それが明治時代以降になると、
富国強兵の号令の下で学制を敷き、
若者の育成が叫ばれるようになりました。
福沢諭吉の『学問のススメ』も
その気運の流れを汲んで
出版されたものです。


ただしここで「学問」という言葉が
登場しています。
「勉強のススメ」ではありません。
あくまでも勧められているのは「学問」です。


では「学問」とは何なのか。


「学問」とは「学んで問う」と書きます。
細かいことを言えば、
「学び、問う」でしょう。
何が違うのかと言うと、
「学んで問う」と言うと
「学び」の後に「問い」が来る感じがします。


しかし実際には問いも学びなのです。
つまり「学び」と「問い」は同時平行で
進んでいくものなのです。


似た言葉に「学習」という言葉がありますね。
これは勿論「学び、習う」ですが、
この3つの言葉の関係はこうだと考えられます。


勉強<学習<学問


勉強しなさい!とは言いますが、
学習しなさい!とは言いませんし、
学問しなさい!とも言いません。
まぁ、『学問のススメ』は口語で言えば
「学問しなさいね」ということかも知れませんが、
通常の会話の中で使われることはほぼ皆無です。


ではどうしてこういうことが起きるのかというと、
勉強とは文字通り「強いられるもの」だからです。
やらされるのが前提なのです。
なので「〜しなさい」というフレーズが自然にできます。


しかし、「学習」と「学問」とは
やらされてやるものではないんですね。
「学び」というのは自然に起こるものであり、
自発的に行われるものだという認識です。
なので学習とは「学び、習う」なのです。


そして、「学習」と「学問」の違いは
その積極性にあります。


「学習」の方は自発的な行為である半面、
まだ受け身な部分が多い状態です。
「習う」というのは教えてもらうことなので、
「学び、習う」とはどちらも教えてもらっている状態。


それに比べて「学問」は「学び、問う」ですから、
完全に積極的に関与している姿勢が伺えます。
「問い」とは考えていないと
できないことだからです。


つまり福沢諭吉が勧めていることは
消極的なやらされる勉強ではなく、
自ら積極的に学ぶ行為なのです。
だから「一身独立すれば、一国独立す」
という言葉が生まれるわけです。


今では「勉強」という言葉が浸透してしまい
当たり前のように使い古されていますが、
実際にはネガティブな意味合いを
無意識のうちに感じながら使っていたわけです。
だから勉強という言葉を聞いただけで
なんだか気が重くなるのです。


これを脳機能学者の苫米地さんは
勉強という言葉を「知的情報収集作業」だと
言い換えてしまえば良いと言っています。


物事は全て解釈の問題ですので、
同じ事象に関しても
別の言葉をあてがってやれば
全く違った側面にスポットライトを
当てることができるのです。
そして受け取るイメージを変えられれば、
自ずと取り組み方も変えることが
できるというわけです。


勉強とは、少なくても学生の時代は
どこまで行っても暗記大会以上でも以下でもないので、
そういう認識の下で
まずは効率重視に取り組んでいただけたらと思います。
その上で余裕が出てきたら
学習へ高め、学問に昇華させていければ
最高です。


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