2016年3月4日金曜日

勉強でどうやって自由になるか

今回 「自由」というものをものすごく考えさせられました。
 「自由」とは何なのかと。


ある先生は自由には他者からの承認が要るのだと言われますが、私は別に他者の介在なく自由を感じることはできると考えています。
周囲がどうこうじゃない、自分が感じるものが「自由」である、と。


自由論と格好つけましたが、勉強を通してどうやって自由を実現するのかということを改めて考えてみたので、それを少しお話ししますということです。


自由ってどういうものかというと、束縛されていない感じですよね。
何かに制約されることなく自分の意思や意志で動ける時に感じるもの。
そこに他者は存在していません。
存在していても良いのですが、必ずしも要りません。
自分が感じるか感じないかです。


勉強というのは時代に応じて求められるものが変わっていきます。
それは学校で、ということではなく、社会にとってです。
学校は常に時代遅れの世界です。
社会のニーズが感知されてからそこに焦点を合わせようとします。
が、結果後追いが追いつきません。
制度や現場そのものはコロコロ変えられるものではないからです。
でも、社会はコロコロ変わっていきます。


他者の承認ありきの自由だとすれば、それは全く自由ではありません。
他者に制約を受けるからです。
何ものにも縛られない、制約されない感覚が自由です。
だから自由とは自分の在り方如何に関わる問題です。


とすれば、この2点から導き出される自由の獲得条件は
①自分の価値観を明確にする
②学校ではなく社会の情報を集める
ということになります。


勉強は、それ自体が目的ではありません。
手段です。
自由になるための手段なのですから、それだけを見ていたらダメです。
見るべきものは「自分」と「社会」です。
そして「自分」と、「社会」の中にある自分の望み(目的)をどう繋げるかです。


学校というのは社会に出ていく前の準備機関です。
社会に出た時に困らないように「何か」を準備する場所です。
でもその「学ぶべき何か」を学校に丸投げしていると、学校の在り方に制約を受けます。
制度や現場がコロコロ変われば自分もコロコロ振り回される。


でも、見ているものが「自分」と「社会」であって学校や勉強でないなら、コロコロが気にならなくなります。
どんなに目の前の学校や制度がコロコロ変わっても、その手段をどう使えば自分の価値観と社会を上手くつなぎ合わせることができるかが分かれば良いからです。


こんな話があります。


ある旅人が旅の途中で作業現場に通りかかります。
どうやらレンガを積んでいるらしい。
その旅人は作業している人に尋ねました。
「あなたは何をしているのですか?」
すると、最初の人はこう答えました。
「見れば分かるだろう。レンガを積んでいるんだよ」
次の人はこう答えました。
「ここに教会が建つんだよ」
そして最後の人はこう答えました。
「私はキリスト教の布教をしています」


この話で分かるのは、同じ作業の先にどこまで自分の「望み」が見えているかです。
単調で退屈な作業も、その先に自分の目的が明確にあるのなら、ただの作業ではなくなる。
目の前の知識が取るに足らない、人生に役に立たないものに見えるのか、自分が欲しいものを得るために乗り越えるべき課題に見えるのかは、「自分」と「社会」が見えているかどうかに因ります。
そして、乗り越えるべき課題に見えるのなら、乗り越え方を考えればいい。
その先に自分の望み(目的)が見えないのなら、乗り越えるべきものなのかどうかを一度じっくり考えるといい。
勉強が全てではないというのはそういう意味です。


「自由」とは何なのか。
それは何ものに縛られない感覚です。
縛られないためにはどうするか。
それには「自分」と「社会」をよく知ることです。
その間にあるものは全て「手段」です。
手段に振り回されてはいけません。
「自由」とは、自分がどう在るかです。


そして、さらに付け加えるならば、自由になるためには「社会がどうあるべきか」なんて考える必要はない。
そんなことを考えても、あなたがあるべきだと思う理想的な社会になんて絶対にならないから。
なるにしても、いつなる?
なるまで待つのですか?
それは自由ではないですよね?
「時が来る」「社会が理想的な形になる」ことを待つことしかできないなんて、全然自由ではない。


待ってる場合じゃない。
今目の前にある不自由な社会、理想的とはとても言えない社会の中でどう「自分」と「目的」を繋げられるかです。
だから社会がどうあるのかの情報が要る。
今はこんな社会で、これから社会はこうなっていく。
だから自分の望み(目的)はこう流されていく。
そうやって、将来の中に自分の望み(目的)を常に追いかけていくから、目の前の現実に流されないでいられるのです。
今は別にいい。
将来のための手段だから。


船の舵取りみたいなものですね。
荒れ狂う波を駆け抜けていくにも、遠くの灯台の灯り目がけているから目の前の天気とか風向きとかへの対処法が分かる。
目は遠くを向けたまま、手や頭は全力で今に対処しているというか。
でも目指す先はずっと認識し続けているから、「この波を越える」ことが苦にならない。
それを乗り越える以外の選択肢がないからです。
こういう時の感覚って自由でしょう。
そして自分の望み(目的)を達成するのに他者の承認なんて要らない。
自分がどう在るか、それだけです。


「自由」。
う〜ん、深いテーマですね。

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