2014年9月30日火曜日

『STAND BY ME ドラえもん』を観て ※ネタばれアリ


先日時間を見つけてドラえもんを観賞してきました^^
大山世代の私からすればドラえもんで育ったみたいなもので、
短い90分という時間の中に上手く詰め込まれていたな~
という印象でした。


さてここでは、
この映画の中で私が気付いた点を
徒然なるままに書いていきたいと思います(笑)


ネタばれがあるので注意して下さいね^^


さて、まず最初に考えたのは、
「ドラえもんはどこに帰って行ったのか」ということです。


この映画の後半で、
ドラえもんは未来に帰らねばならなくなります。
そもそものび太の玄孫であるセワシくんが
ドラえもんを連れてきたわけですが、
それは
「のび太がジャイアンの妹のジャイ子ちゃんと結婚した未来」
からやってきたところからスタートしたはずでした。


しかし、過去が変わったことで、
のび太は静香ちゃんと結婚することになったわけですから
未来が変わってしまったことになります。


一人の未来がここまで変わってしまったら
ドラえもんの存在自体が揺るぎかねない事態です。
少なくても、
ドラえもんが帰るべき未来はなくなってしまったわけですから、
勿論セワシくんも存在しなくなります。


う~ん、謎ですねw
これをタイムパラドックスって言うんですけど、
未来が過去に干渉すると
過去が変わって未来自体が変わります。
未来が変わると
干渉したはずの基点がなくなってしまうということなので、
干渉した者は消えてしまう理屈です。


あ、でも、漫画ですもんね^ ^;
あんまり突っ込んだら野暮ですね^ ^;


さて、この映画には大事な要素が沢山詰まっています。
色々深いメッセージが込められているんです。


例えば、出来杉くんの存在です。


映画では毎回置いて行かれる出来杉くん。

たぶん彼が同行すると
大抵の問題を解決してしまい
ストーリー的な盛り上がりに欠けるから
というプロデューサーの意向でしょう(笑)


現に静香ちゃんが出来杉を振った理由は
「あなたは一人で何でもできるから」だそうなので、
出来すぎる男もなかなか考えものですねw

さて、のび太は静香ちゃんと結婚したいがために
静香ちゃんに好きになってもらえるように
自分を変えようと努力し始めます。
この発想は素晴らしい。


でも、めちゃくちゃ他力本願なんですね。
ドラえもんの道具に頼りまくります。


挙句の果てには静香ちゃんの心を
洗脳マシーン「刷り込みたまご」で手に入れようとする。
もう最悪です。
ドラえもんの顔もすごい悪顔でした(笑)


しかし、
結局何をやっても出来杉くんに敵わなかったわけです。
22世紀の道具を使っても敵わないって、
どんだけスゴイんですかね(笑)
機械なんかに頼ってキミを縛りたくないんだと。
頭も良くて、スポーツ万能、その上性格が良い。
出来すぎです。


そこで、次にのび太は自己成長に進みます。
道具に頼らず自力で成績を伸ばそうと思い立ちました。
そして算数の猛勉強に取り組みます。
この切り替えは素晴らしいですよね。


しかし、ここでのび太の情報管理能力の欠如が
皮肉な結果を導いてしまいます。
正に神のいたずらと言っても良い。
なんと、テスト内容が漢字のテストだったのです。
算数をがんばったのび太は勿論手も足も出ません。
そして、また0点を取ってしまうわけです。


がんばって、がんばって、がんばった結果が
またいつも通りの0点だったことが、
のび太のせっかくのやる気をへし折りました。
おそらく算数のテストだったなら、
のび太の未来は大きく動いたでしょうが、
神はのび太に試練を与えることにしたようです。


そしてそのことがきっかけで
のび太は次の段階に進みます。
それは「自分は静香ちゃんに嫌われるべき」という発想です。


もし自分と結婚することになれば
静香ちゃんはきっと不幸になる。
だったら自分を好きにならないように
徹底的に嫌われようというわけです。


ものすごい発想の転換ですが、
そもそも静香ちゃんは出来杉に入れ込んでいるので
これはのび太の勝手な妄想と暴走なんですよね(汗)


ただ、静香ちゃんのことを想う気持ちは真剣。
そして何より、この暴走は
ドラえもんの道具に最初は頼らなかった。
だから、ドラえもんもかえって
本気で手を貸そうと思ったんですね。
そして、ものすごい道具出しちゃった(汗)


結構ドラえもんって天然で危ないことするんですよ。
22世紀型ロボットがあまりに人間味ありすぎてウケますw
あんな未来の道具で天然されたら
色々まずいこと起きますよねw
現にのび太が普通の人間なら
とっくにストーリー序盤で死んでますw


まぁ、なんやかやあるんですが、逆にこれが功を成すんです。
本当に、世の中何が起こるか分かりませんね。
結果、この時から未来が好転し始めます。


タイムテレビで未来ののび太と静香ちゃんを観た二人は、
静香ちゃんが命の危険にさらされることを知ります。
のび太は静香ちゃんを救うべく
タイムふろしきを使って
自分を成長させて未来に飛ぶわけです。


かなり学習能力が高いのび太の一面です。
タイムふろしきは表を被せると時間を過去に戻し、
裏を被せると時間を未来に進めるという
何とはない説明をしっかり聞いて覚えていました。
そして、裏を自分に被せれば
数年後の自分に姿を変えられるという応用までさせちゃう。


実は頭良いんじゃね??(笑)


そして、
雪山で遭難中の静香ちゃんに無事合流するんですが、
ここでもドジを踏みます。
助け方が分からないんです。
吹雪く雪山で凍える静香ちゃんを前に絶体絶命ののび太は
ふがいない自分を認めます。
でも助けが来る当てもありません。
そこで「自分で考えろ!」と奮い立ちます。


そこで出した答えは「未来の自分に託す」でした。
つまり、今が過去というなら、
今の自分の記憶が未来の自分に残るはずだと踏んだのです。
そして今日の日の記憶を思い出した
未来ののび太(その時代の自分)が
ここに助けに来てくれると信じたのです。


この発想も正に天才的です。
ちゃんと時間感覚が養われている証拠ですよね。
そして追いつめられた状況下で客観的に考えて
今の自分とその時代の自分を繋げて考えた。
テストで0点取る人間がこんな発想できるんですかね(汗)
でも、のび太はやったんです。


この映画には以下のような数多くの学習ポイントがありました。
・タイムパラドックスの問題
・未来の道具でも勝てない出来杉くん
・情報管理はちゃんとしよう
・何が功を成すか分からない
・他力本願は使いよう
・発想を転換させる
・未来の自分を信じろ
・のび太は実は天才


やっぱりドラえもんは深いわ~
というお話でした^ ^



熊本の塾『ブレイクスルー・アカデミー』



2014年9月27日土曜日

苫野一徳氏『教育の力』を読んで


以前よりお勧めしていただいていた
こちらの本をようやく読了しました。
苫野一徳氏の『教育の力』です。


ちなみに苫野さんの他の書籍も、
TEDx Tokyoyzも拝見しました。
https://www.youtube.com/watch?v=XdgwU8Y1nfY
言えば今月は「苫野さん月間」とも言えそうなくらいです(笑)


その上で今回の本の感想を
述べさせていただきたいと思います。
ちなみに「共感しました!」という感想では前進がないので、
あえてクリティカルな目線で語りたいと思います(笑)


まず、今回の『教育の力』はこれまでの他の著作に比べて、
すごく読みやすい印象がありました。
これより前に読んだ本は哲学色が強すぎて
正直読みにくかったというか、
結局何が言いたかったんだっけ??
という印象の方が強かったのですが、
こちらの本はだいぶ普通に読みこなせました(笑)


余談ですが、
哲学に凝りすぎた本というのは
とかく主張がぼやけるんですよね(汗)
こねくり回し過ぎて「もっとハッキリ言わんかい!」と
突っ込みたくなりますww
個人的には哲学は好きなのですよく読みますし、
ニーチェとか好きです☆
ただその反面、目の前にある具体的な事象に対して
哲学で解決策を模索するという手法に
私はちょっと違和感を感じていたのも事実です。


苫野さんご自身がおっしゃるように哲学は
解釈の幅を拡げてくれる優れたツールではあるけれど、
あくまで自分の”解釈”を変えるだけで
事象そのものが変わるわけではないんですよね。


解釈を変えると認識が変わるというのは分かりますが、
自分にとって都合よく解釈を変えた時点で
事象自体を歪曲して見ていることは
忘れてはいけないと思うんです。


個人的には教育哲学者というのもよく分かりません^^;
私的には「教育学」と「哲学」というのは
双方抽象論という理解です。
とすると、結局はイメージの世界で終始してしまい、
現実と乖離したところで解決策を模索するということになります。
そのせいなのか、
この本についてもどうもそのほとんどが理想教育論であり、
性善説に立脚した考え方だった感じがするのです。


教育の「個別化」「協同化」「プロジェクト化」という柱で
新教育体制を検討されているのですが、
メリットの方ばかりが強調されています。
現在のクローズド・エデュケーションは
勿論改善されるべき態勢ですが、
その逆のオープン・エデュケーションは
メリットばかりの提案になり得るのでしょうか。


また、未だ教育現場は生身の先生が主導し、
そのシステムの原動力にならなければなりませんが、
その先生をどう生み出せるかが重要です。


実際私が現在
ブレイクスルー・アカデミーで実践している仕組みも、
ある種ラディカルであり、かつ原点回帰的なものです。
この書籍で御紹介されている
「ドルトン・プラン」や「ウィネトカ・プラン」に近いものですが、
しかしそれも、
大学受験レベルの主要科目全般への指導力があり、
かつ勉強の仕組みを熟知しているからこそ
柔軟な対応が可能になるものです。
とても一筋縄ではいかない仕組みなのです。


勿論理想的教育者を主人公とする
金八先生やごくせんやGTOは好きですが(笑)、
目の前の日本教育という“現実”に対するアプローチとしては
ちょっと「そんな素直な環境じゃないぞ?」と思ってしまいました。


勿論、6割程度の内容には共感できる部分もあります。


教育の目的が
「自由」と「相互承認」にあるのではないかという点、
学級制が限界を来たしオープンスクール化が
よりより学習環境になるではないかという点、
個別学習サポート体制の必要性や、
「学力」=「学ぶ力」と定義している点
(私は「学力」=「学ぶ力(スキル)」+「学ぼうとする力(意欲)」
と定義)
などは近い発想でとても参考になりました。


それに、これはご本人はどうか分かりませんが、
私は発想の仕方、考え方の潜在的な部分は
苫野さんに似てるなと勝手に感じた次第です。


理想に熱く、教育に関心があり、哲学的。
おそらく理屈屋さんでは?
潜在的には独善的で
「自分の考え方が最善」という自信はあるものの、
「自分こそが正しいと思うのは間違っている」という
自覚もあるため、
ちゃんと「他の人を批判したいわけではない」とフォロー。
でも行間にはしっかりにじみ出てしまう、みたいな^^;


そもそも「善さ」とか「正しさ」を言葉として使う人は
大抵潜在的には独善的ですw
(苫野さんは頻繁に「よい」という言葉を使います)
全てを包括する上位の概念や絶対的な正しさの存在を
自分の考えや発想に感じてしまうからです。


信念対立を解消し両者の共通了解を得ようと、
より本質的なものをという方向から
より最適解を模索する辺り発想が似ているなと感じました。


ただ、苫野さんは哲学と教育学という抽象論を軸に
理想的理想論を追い求め、
私は実学と現実にこだわり具体論や理屈を軸に
現実的理想論を追求する感じで、
スタンスが真逆なんですよね。
だからものすごく刺激的なんです。


どっちが良いとかいうことでもありません。
それこそ世界的経営コンサルタントの大前研一さんや
ワタミグループの創業者渡邉美樹さんのように、
あまりに教育をシステマチックに考えるのも
感情的に受け入れがたい部分はあります。


ただ、教育の平等を重視するあまり
優秀な人材が成長の機会を失っていては、
それは社会的な価値の損失です。
社会的にも使用可能な原資が限られている場合には、
経営者としてはコストパフォーマンスをどうしても考えるし、
伸びる者に先行投資して牽引構造を造ってから
その後弱者救済に動く、
という発想は重要だとも思うわけです。


少し視点を変えたところから教育を掘り下げていくと、
確かに「全ての原因を教育だとするのはおかしい」
という指摘も理解できなくもありません。
「教育」の定義が「学校教育」であるならば、
様々な問題の責任を学校に転嫁するのはおかしい話です。


私が以前本に書いたのは、
家庭と学校と塾の三者連携体制の必要性でした。
教育というのは各々でスクラム組んで取り組む課題。
家庭教育と学校教育と民間教育で
子どもたちを育てていくのが理想です。


特に家庭教育がそもそも“前提”で、
学校教育には別の役割があります。
そして学習塾という民間教育は
あくまでプラスアルファなのです。


言うなれば家庭が「個」を育て、
学校が「協」を育て、
塾が「力」を育てるような役割分担でしょう。


しかし、今はそれが完全に崩れている。
家庭教育ができない部分を
学校が補おうとし、
学校にできないことを塾が補おうとしている。
だからグッチャグッチャなのです。


そして何より、
社会の現状が子どもたちに悪影響を及ぼしていることも事実。
これは教育者であるべき当の大人たちが
逆に悪い教育対象として機能しているからです。


「いじめをなくそう」と声高に叫ぶのに一向になくなりませんが、
そんなのは当たり前です。
今の状態でいじめがなくなるわけがありません。
なぜなら大人が堂々といじめを楽しんでいるのですから。


以前たけしさんがおっしゃっていた言葉が
すごく記憶に残っているんですが
「お笑いはいじめと紙一重だよ。
 あれ皆笑ってるけど暴力だからね。」


確かに!と思いました。


お笑いで“ド突く”、罰ゲームで無理難題を押し付ける。
それを皆で見て笑うわけです。
これ全部「いじめのモデル」ですよね。


それじゃなくても公開処刑はニュースでもどこでも
普通に行われている政治的かつ世論的事象です。
誰もがやっているんです。
無自覚に、でも確実に。


自分がやっていることを子どもにはするなと言う。
自分が意味分かってないのに子どもには勉強しなさいと言う。
子どもの話は聞かないくせに先生や自分の話は聞けと言う。
そんな大人が溢れていれば、
そりゃ子どもたちが荒れるのは当然なんです。
それを多くの大人は自覚していない。


そこにあって、この『教育の力』。
一見哲学と教育学というフワフワした概念で
複雑怪奇な教育という現実課題を紐解こうとしたこの本は、
ある種挑戦的なものでした。
だからこそ今までのどの本よりも刺激的だった。
私はどうしてもクリティカルなので素直に
「うん、オールオッケー!」という印象は持てませんが、
この本によって自分の教育観を磨かれたのは
間違いありません。


ここまで失礼なこと書いておいて何ですが、
そのうちお会いできる機会などあれば良いなと
心から思ってしまいます。
喧嘩するためではありませんよ?w
もっともっと学ぶためです!
文字通り、「教育の力」を磨くために。


ここまで長文をお読みいただきありがとうございました。
また、こちらの本を薦めて下さった先生方、
自身の教育観を試される素晴らしい内容でした。
本当にありがとうございます。



熊本の塾『ブレイクスルー・アカデミー』

2014年9月24日水曜日

戦争はなぜ起きるのか


今日観てきた映画は『猿の惑星 新世紀(ライジング)』です。
前回の『猿の惑星 創世記(ジェネシス)』に引き続き
映画館での観賞となりました。


今回の映画のテーマは「戦争の不毛さ」です。


なぜ戦争が起きるのか。
それは止められないことだったのか。
本当にその部分が緻密に作りこまれています。


と同時に、
戦争を止める手段が一つしかないことも明確でした。
それは「相手を理解しようとする誠実な姿勢」です。


言うのは簡単なんですが、本当に難しい。
なんせ人は多様ですから。


今回の猿の側にも
皆を鎮めて平和的な解決を模索するリーダーと、
憎悪のカタマリのサブ・リーダーが存在します。


リーダーのシーザーは良い人間に育てられ、
愛を知っているだけに一縷の希望を見出そうとします。
片やサブ・リーダーのコバは
人体実験に使われ身体じゅうを切り刻まれた過去があります。
人間への愛など微塵もありません。


同じ「人間」という種族への
真反対な印象が根底にはあります。
でも、それはどちらが悪いとか良いではありません。
紛れもない事実であり真実なのです。
だから厄介なのです。


相手を理解しようとか、誠実に対そうとか、
そういうことは気持ちに余裕がないとできません。
しかし、傷つけられた経験がある者は
100%で相手を信用することはできません。
だから、相手の危険な部分にしか気付けないのです。


人は自分の持つ価値観をベースに
目の前の事象の認識を作ります。
価値観は過去の経験の中で蓄積された
情報によって形成されたゲシュタルトです。
その”色眼鏡”を通した世界を私たちは観ており、
そしてその”色眼鏡”で認識を構築し、考えているのです。


この時、”それ以外の可能性”は完全に死角になっています。
これをスコトーマ(心理的盲点)と言いますが、
それは各自バラバラのものです。
それが良い時もありますし、悪く作用する時もあります。


今回の映画では正にその悪いバージョンです。


人間という1つの種族間でさえ、
別々の人生を歩んできた者同士で
100%分かり合うことは困難です。
ましてや、姿かたちの違う猿と人間ならばなおさら。


でも、本質は同じです。
姿かたちではありません。
要は姿勢の問題なのです。


膨らんだ風船はたった1本の針で爆発します。
第一次世界大戦も、
たった1発の銃弾で勃発しました。
暴走する要素が一つでもあれば、
簡単に火ぶたは切って落とされてしまう。
それが戦争です。


戦争はなぜ起きてしまうんだろう。
戦争を望まない者が全員でこの問いを真剣に考えれば、
それだけでも戦争が起きにくい世の中に
なるのではないでしょうか。。。


熊本の塾『ブレイクスルー・アカデミー』

2014年9月23日火曜日

教育劣化は日本経済の大問題だ!



先日購入した『東洋経済』の題目は「教育」でした。
すごく気になるテーマでしたが、
読んでみると、内容的には
多くは以前から問題視されていたことでした。


私が言いたいのは「真新しい問題ではなかった」という
読後の残念感ではなく、
以前から問題視されていながら解決に至っていない
という点にあります。


現在、武雄市図書館で有名な佐賀県では
国内に先駆けて塾と学校との連携体制がスタートしています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140417/edc14041719080008-n1.htm


学校は勉強だけをする機関ではなく
あくまで「教育機関」ですが、
学力の低下にブレーキをかけるには
もう民間との連携は欠かせないものと思います。


ここで、私が思うのは、
そもそも問題がなぜ生じるのかということです。


日本の教育は「義務教育」ですよね。
義務と言うからには
何か明確な教育方針があって然るべきです。
国も、以前から問題視していた割には
教育基本法の文言の改訂ばかりで、
実質的な解決には着手しませんでした。


例えば1873年に新政府設立後の方針で
富国強兵の下、学制が発布されました。


この時は教育方針は明確でした。
国を豊かにするために、まず外国に追い付こう。


また、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争と勝ち進み、
1914年の第一次世界大戦では戦争に巻き込まれることなく
輸出で儲けました。
ノリに乗っていたわけです。


だから、
第二次世界大戦の前から戦時中にかけての教育方針は
国のために命を賭して戦う若者の輩出でした。
「負ける」ことに無頓着になっていた、と言うと
少し乱暴な表現になりますが、
国としての自信に充ち溢れていたでしょう。


その後の話は有名です。


敗戦した日本の戦後教育はGHQによって指揮され、
日本国憲法に伴い教育基本法も含めて
アメリカ軍の管理下で作成されました。


WGIP(War Guilt Information Program)が実施され、
日本は完全に牙を抜かれたのです。


ただ、教育方針はまたも明確でした。
戦後復興です。


焼け野原となった日本で高度経済成長を実現し、
GDP(国内総生産)で世界第二位にまで復活させたのは、
戦後教育を受けた日本人です。


こうして、様々な局面を経験しつつも、
その都度明確な教育ビジョンを持っていたはずの日本は、
今なぜか迷走しています。
GDPで世界第二位に上り詰め、
発展途上国から先進国となったことで満たされた結果、
その次に目指すべきビジョンを見失ってしまったのです。


受験で言うところの
「燃え尽き症候群」のような症状だと思います。
そこから「失われた20年」と呼ばれる時期になります。


時代の変化が速すぎて、
現在の日本は時代遅れと称されるようになりました。
世界のどの国もまだ経験したことのない少子超高齢化社会化。
ノーボーダーのグローバル社会の到来による
英語の必修低年齢化。
そして超高度のIT化。


様々な不可避な変革に対し、
その変革に耐えうる教育ビジョンが
今の日本には欠けているようです。
教育の劣化と言うよりも、
教育の停滞化と言えるでしょう。


ニーズばかりが膨れあがり、
子どもたち“以外”の状況が目まぐるしく変化していく中で、
そのしわ寄せが学校に押し付けられています。


全て政府が決める
中央集権という一極集中トップダウン体制も
いよいよ悲鳴を上げ始めています。
文部科学省主導の教育改革を待っている間に、
もう次の時代がそこまで迫っているのです。


私たちにも、
そろそろ決断の時期が迫っているのかも知れません。



熊本の塾『ブレイクスルー・アカデミー』



2014年9月22日月曜日

情熱大陸 青藍義塾 を観て



http://www.mbs.jp/jounetsu/2014/09_21.shtml

昨晩の情熱大陸は名古屋の学習塾
『青藍義塾』の塾長坪田先生の番組でした。
最近発売された
『学年ビリのギャルが偏差値40上げて慶応に行った』
的な本の方です。


ご覧になられた方もいらっしゃるかも知れません。
そこで、今回この番組にビンビン刺激されたことを
こちらで共有したいと思います。


まず私がこの塾に何を感じたかというと「気持ち悪さ」でした。


嫉妬もあるかも知れません(笑)
自分よりも目立った塾があるというネガティブな思いが
根底にあるのでは?
という目線で読んでいただいても構いませんが、
自分はこういう「手取り足取り」の徹底塾は評価しません。
なぜか。
そんな塾は存在する意味がないからです。


これまでの価値観でいけば、
おそらく「これは素晴らしい塾だ!」と思われた方もいるでしょう。
事実、現在の学習塾の在り方は
「面倒見」だったり「徹底指導」が目立ちます。


しかし、こういった「これだけやってくれるなら安心!」
と思われるような”The塾”みたいな塾に集まるのは、
正直自分で勉強できない塾依存性の高い子どもたち
だと思うんです。
中には保護者の方がそういう方もいるでしょう。


学力測定(学力と表現されていましたが、
実際は得点力、習得率のこと)をし、
性格診断までして指導方法を
子どもたちに合わせて変えてくれる。
素晴らしい対応力ですよね。
そういうものが求められているでしょう。


でも、そうやって手取り足取りやってもらって、
詰め込みをさせられて勉強して成績が伸びても、
それが一体何の役に立つのでしょうか。


子どもたちは何も自分で考えずに、
相手が徹底的に自分に合わせてくれて、
ただ言われたことをしっかり取り組めば、
そりゃ努力するのは自分だけれど、
成績が上がります。
そうやって成績伸びて、
じゃあそれが合格から後に
何を子どもたちにもたらしてくれるのでしょうか。


自分のストレートな感想を言うならば、
きっとそういう塾にはカモが集まって、
集まったカモたちは満足するし、
その塾事態も儲かるだろうから、
きっとwin-winみたいに見えるのでしょう。


しかし、それ以上の意味はないよな、といった感じです。


すごく言葉が悪くてすみません。
でも、こんな塾が沢山あっても
ハッキリ言って意味はありません。
子どもたちが成長していないのですから。


知識は増えても、学力が伸びてないので、
それは「詳しくなった」だけです。
頭良くなったわけではありません。
得点力と学力が違うと言っているのは
そういうことなのです。
だから今必死に国も教育改革に取り組んでいるのです。


自分の頭で考えずに育ってもダメ。
自分で考え、判断し、取り組んで、
たまに失敗してもフィードバックを元に改善して
もう1回取り組んでみたいなことしないと、
5教科をどんなに言われたように勉強してできるようになっても、
そんな知識に意味はないんです。


昨日の情熱大陸を観て、
確かに情熱のある先生だなとは思いましたが、
こんな塾ばっかりが評価される今のまんまでは、
きっとダメだなと危機感を覚えました。


応急処置に自己満足する無知な子どもたちが増えて、
塾が儲かるという表面的なwin-winは、
結局は塾の独り勝ち逃げ状態なんです。
そう思うと本当にこんな塾が
メディアに取り上げられるのは悔しいですね。
怖いことです。


ブレイクスルー・アカデミーは、
もっと頑張らなければいけないなと思いました。



2014年9月20日土曜日

学習塾クライシス



今、未曾有の学習塾クライシスが業界を襲いつつある。


先日ニュースになった代ゼミ陥落。
20校舎の一斉閉鎖は衝撃でした。


代ゼミももちろん馬鹿ではないので、
対策は打っていたのでしょう。
少子化の波はじわじわ
でも確実にやってくるものだったからです。


そして関東で勢力を誇っていた市進学院にも
暗雲が立ち込めているというニュースもありました。
http://www.labornetjp.org/news/2013/0331hokoku


熊本でも気になる塾があります。
○稲田スクールです。


学研傘下で資金力があるにしても、
校舎バンバン建てて生徒集客に走るやり方は
関係者でないにしても心配してしまいます。


それは○進館も同様です。


ここで大手学習塾には二つの大きな動きが出てくるでしょう。


一つは代ゼミと同じように
生徒集客に限界を感じ縮小戦略に走る。


今まで生徒数に事欠かなかった大手の学習塾ほど、
少子化で生徒確保が困難になるだけの今後は
売上の見込みが立たないはず。
となると今の手持ちの資産を維持していくのは困難。
とすると、早かれ遅かれ縮小路線に走るしかありません。


もちろん単なる縮小ではなく事業拡大、
別事業への校舎転用などその中身は様々でしょう。


もしくはM&A戦略。
中小企業とのグループ化で
協力して生徒数確保を目指す方針です。


しかし、これにも限界はあるでしょう。


市場自体にも大きな変化が訪れます。


少子化によって
子ども一人にかけられる教育費が増えるとは言っても
それはあくまでミクロな話。
マクロで考えると経済状況は二極化に移行しつつあります。


1億総中流社会とは十数年前の話で、
今や富裕層と下流の二極化が
進んでいると言われているのです。


さらに高齢化に伴い
親御さん世代には別の問題も降りかかります。
親の介護費用の問題です。
介護費用がかさむようになれば、
おのずと教育費を押さえたいという心理が働きます。
教育費は生活費の多くを占めるだけに
精神的なブレーキがかかりやすい。


そうすると、今まで以上に成果を求められるようになります。
実績がしっかりしているブランドに
信用が集まるかも知れません。
なかなか成績が伸びない状況にクレームが増えるでしょう。
誰もがコストパフォーマンスに意識が向くようになるからです。


となれば、
大手が富裕層向けのサービス強化に走る可能性もあるでしょう。
バリバリの進学塾が本領発揮とばかりに
攻勢を仕掛ける図です。


個別指導塾が盛り上がるかとも考えましたが、
単にマンツーマン体制を売りにしている弱小塾は
人件費の方が重くのしかかり運営は厳しいはずです。
○光義塾のように1対2を標榜しつつも
蓋を開ければ1対3や酷い場合は1対5なんてしてれば、
利益は確保できても子どもたちはいい迷惑です。


ただ、気になるのは大手偏重になった場合の弊害。


大手ほど十把一絡げ教育が得意です。
1対多数の授業スタイルは崩せないでしょうし、
オリジナルテキストは大事な収入減です。
できる者だけ先に進め!付いてこれない奴は置いて行く!
としないと、逆に塾側のコストパフォーマンスが低下します。


となると、最も被害を被るのは子どもたちです。
業界の事情に振り回されて、たらいまわし。
ブランドにすがれど、ブランドは裏を返せば老舗。
つまり時代遅れ教育の代名詞です。
これからの「社会のニーズ」など度外視の
超詰め込みスタイルが売り。
親御さん方の持つ
「進学塾」イメージで成り立っているようなものです。


でも、サービスを受けるのは子どもたち。


これから巻き起こる学習塾クライシスの中で、
振り回されずに必要な能力を育んでいくには
どうすればいいのでしょうか。


その答えはシンプルです。
そう、自分で考えて行動するのです。
そして、もし塾を選ぶにしても、
自分で考える余地をくれる塾を選ぶことです。
決してテキストで縛り、授業で縛り、
宿題で縛る塾には行ってはいけません。


塾は企業です。
自分たちが少子化の中で生き残ることに必死なのに、
生徒たち一人一人の事情にまで気は回りません。
そしてそれは塾が悪いのではなく、
社会の仕組みがそういうものだということなのです。


これは「無責任」ではありません。
むしろ企業の自身存続に対する「責任」ある決断です。
だから生徒自身も
「責任」ある行動を取らなければなりません。
何への責任か。
もちろん「自分へ」です。


自分の人生は自分で選び取っていく。
塾に振り回されるのは塾に頼ろうとしているから。
「決して沈まない船はない」とは
タイタニック号沈没で誰もが分かっているはず。


誰も助けてはくれない。
誰かに頼って結果失敗して、
その相手を責めることはできるでしょう。
でも面倒は見てくれません。
「ごめんなさい」と謝られるくらいです。
どうにもなりません。
自分の人生の責任は自分でしか取れないのです。


「自分で考え行動する」ことが求められる事態が、
もうそこまでやってきています。



熊本の塾『ブレイクスルー・アカデミー』