2014年9月27日土曜日

苫野一徳氏『教育の力』を読んで


以前よりお勧めしていただいていた
こちらの本をようやく読了しました。
苫野一徳氏の『教育の力』です。


ちなみに苫野さんの他の書籍も、
TEDx Tokyoyzも拝見しました。
https://www.youtube.com/watch?v=XdgwU8Y1nfY
言えば今月は「苫野さん月間」とも言えそうなくらいです(笑)


その上で今回の本の感想を
述べさせていただきたいと思います。
ちなみに「共感しました!」という感想では前進がないので、
あえてクリティカルな目線で語りたいと思います(笑)


まず、今回の『教育の力』はこれまでの他の著作に比べて、
すごく読みやすい印象がありました。
これより前に読んだ本は哲学色が強すぎて
正直読みにくかったというか、
結局何が言いたかったんだっけ??
という印象の方が強かったのですが、
こちらの本はだいぶ普通に読みこなせました(笑)


余談ですが、
哲学に凝りすぎた本というのは
とかく主張がぼやけるんですよね(汗)
こねくり回し過ぎて「もっとハッキリ言わんかい!」と
突っ込みたくなりますww
個人的には哲学は好きなのですよく読みますし、
ニーチェとか好きです☆
ただその反面、目の前にある具体的な事象に対して
哲学で解決策を模索するという手法に
私はちょっと違和感を感じていたのも事実です。


苫野さんご自身がおっしゃるように哲学は
解釈の幅を拡げてくれる優れたツールではあるけれど、
あくまで自分の”解釈”を変えるだけで
事象そのものが変わるわけではないんですよね。


解釈を変えると認識が変わるというのは分かりますが、
自分にとって都合よく解釈を変えた時点で
事象自体を歪曲して見ていることは
忘れてはいけないと思うんです。


個人的には教育哲学者というのもよく分かりません^^;
私的には「教育学」と「哲学」というのは
双方抽象論という理解です。
とすると、結局はイメージの世界で終始してしまい、
現実と乖離したところで解決策を模索するということになります。
そのせいなのか、
この本についてもどうもそのほとんどが理想教育論であり、
性善説に立脚した考え方だった感じがするのです。


教育の「個別化」「協同化」「プロジェクト化」という柱で
新教育体制を検討されているのですが、
メリットの方ばかりが強調されています。
現在のクローズド・エデュケーションは
勿論改善されるべき態勢ですが、
その逆のオープン・エデュケーションは
メリットばかりの提案になり得るのでしょうか。


また、未だ教育現場は生身の先生が主導し、
そのシステムの原動力にならなければなりませんが、
その先生をどう生み出せるかが重要です。


実際私が現在
ブレイクスルー・アカデミーで実践している仕組みも、
ある種ラディカルであり、かつ原点回帰的なものです。
この書籍で御紹介されている
「ドルトン・プラン」や「ウィネトカ・プラン」に近いものですが、
しかしそれも、
大学受験レベルの主要科目全般への指導力があり、
かつ勉強の仕組みを熟知しているからこそ
柔軟な対応が可能になるものです。
とても一筋縄ではいかない仕組みなのです。


勿論理想的教育者を主人公とする
金八先生やごくせんやGTOは好きですが(笑)、
目の前の日本教育という“現実”に対するアプローチとしては
ちょっと「そんな素直な環境じゃないぞ?」と思ってしまいました。


勿論、6割程度の内容には共感できる部分もあります。


教育の目的が
「自由」と「相互承認」にあるのではないかという点、
学級制が限界を来たしオープンスクール化が
よりより学習環境になるではないかという点、
個別学習サポート体制の必要性や、
「学力」=「学ぶ力」と定義している点
(私は「学力」=「学ぶ力(スキル)」+「学ぼうとする力(意欲)」
と定義)
などは近い発想でとても参考になりました。


それに、これはご本人はどうか分かりませんが、
私は発想の仕方、考え方の潜在的な部分は
苫野さんに似てるなと勝手に感じた次第です。


理想に熱く、教育に関心があり、哲学的。
おそらく理屈屋さんでは?
潜在的には独善的で
「自分の考え方が最善」という自信はあるものの、
「自分こそが正しいと思うのは間違っている」という
自覚もあるため、
ちゃんと「他の人を批判したいわけではない」とフォロー。
でも行間にはしっかりにじみ出てしまう、みたいな^^;


そもそも「善さ」とか「正しさ」を言葉として使う人は
大抵潜在的には独善的ですw
(苫野さんは頻繁に「よい」という言葉を使います)
全てを包括する上位の概念や絶対的な正しさの存在を
自分の考えや発想に感じてしまうからです。


信念対立を解消し両者の共通了解を得ようと、
より本質的なものをという方向から
より最適解を模索する辺り発想が似ているなと感じました。


ただ、苫野さんは哲学と教育学という抽象論を軸に
理想的理想論を追い求め、
私は実学と現実にこだわり具体論や理屈を軸に
現実的理想論を追求する感じで、
スタンスが真逆なんですよね。
だからものすごく刺激的なんです。


どっちが良いとかいうことでもありません。
それこそ世界的経営コンサルタントの大前研一さんや
ワタミグループの創業者渡邉美樹さんのように、
あまりに教育をシステマチックに考えるのも
感情的に受け入れがたい部分はあります。


ただ、教育の平等を重視するあまり
優秀な人材が成長の機会を失っていては、
それは社会的な価値の損失です。
社会的にも使用可能な原資が限られている場合には、
経営者としてはコストパフォーマンスをどうしても考えるし、
伸びる者に先行投資して牽引構造を造ってから
その後弱者救済に動く、
という発想は重要だとも思うわけです。


少し視点を変えたところから教育を掘り下げていくと、
確かに「全ての原因を教育だとするのはおかしい」
という指摘も理解できなくもありません。
「教育」の定義が「学校教育」であるならば、
様々な問題の責任を学校に転嫁するのはおかしい話です。


私が以前本に書いたのは、
家庭と学校と塾の三者連携体制の必要性でした。
教育というのは各々でスクラム組んで取り組む課題。
家庭教育と学校教育と民間教育で
子どもたちを育てていくのが理想です。


特に家庭教育がそもそも“前提”で、
学校教育には別の役割があります。
そして学習塾という民間教育は
あくまでプラスアルファなのです。


言うなれば家庭が「個」を育て、
学校が「協」を育て、
塾が「力」を育てるような役割分担でしょう。


しかし、今はそれが完全に崩れている。
家庭教育ができない部分を
学校が補おうとし、
学校にできないことを塾が補おうとしている。
だからグッチャグッチャなのです。


そして何より、
社会の現状が子どもたちに悪影響を及ぼしていることも事実。
これは教育者であるべき当の大人たちが
逆に悪い教育対象として機能しているからです。


「いじめをなくそう」と声高に叫ぶのに一向になくなりませんが、
そんなのは当たり前です。
今の状態でいじめがなくなるわけがありません。
なぜなら大人が堂々といじめを楽しんでいるのですから。


以前たけしさんがおっしゃっていた言葉が
すごく記憶に残っているんですが
「お笑いはいじめと紙一重だよ。
 あれ皆笑ってるけど暴力だからね。」


確かに!と思いました。


お笑いで“ド突く”、罰ゲームで無理難題を押し付ける。
それを皆で見て笑うわけです。
これ全部「いじめのモデル」ですよね。


それじゃなくても公開処刑はニュースでもどこでも
普通に行われている政治的かつ世論的事象です。
誰もがやっているんです。
無自覚に、でも確実に。


自分がやっていることを子どもにはするなと言う。
自分が意味分かってないのに子どもには勉強しなさいと言う。
子どもの話は聞かないくせに先生や自分の話は聞けと言う。
そんな大人が溢れていれば、
そりゃ子どもたちが荒れるのは当然なんです。
それを多くの大人は自覚していない。


そこにあって、この『教育の力』。
一見哲学と教育学というフワフワした概念で
複雑怪奇な教育という現実課題を紐解こうとしたこの本は、
ある種挑戦的なものでした。
だからこそ今までのどの本よりも刺激的だった。
私はどうしてもクリティカルなので素直に
「うん、オールオッケー!」という印象は持てませんが、
この本によって自分の教育観を磨かれたのは
間違いありません。


ここまで失礼なこと書いておいて何ですが、
そのうちお会いできる機会などあれば良いなと
心から思ってしまいます。
喧嘩するためではありませんよ?w
もっともっと学ぶためです!
文字通り、「教育の力」を磨くために。


ここまで長文をお読みいただきありがとうございました。
また、こちらの本を薦めて下さった先生方、
自身の教育観を試される素晴らしい内容でした。
本当にありがとうございます。



熊本の塾『ブレイクスルー・アカデミー』

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