2014年11月24日月曜日

第二童心期なう



最近童心に戻りすぎている気がします。
あれもこれもやりたい気持ちになってきたんです。


小さい頃ってコロコロ夢が変わりますよね。
あれにもこれにも興味があるから
色んな事をしてみたくなるものでした。
私は第二童心期なうです(笑)


今のマイブームは『リーガルハイ』。
毎夜毎夜お酒を片手に見まくってますが、
ファーストシーズンの古美門研介のセリフで
「理想で現実を変えたければもっと強く賢くなれ」
というのが刺さっています。
ああいうのが弁護士のリアルかは分かりませんが、
勝つためには徹底して戦い抜く姿勢は
私が今学ぶべきものです。


もちろんドラマほど簡単なものではありませんが、
何となく自分は弁護士にも向いている気がしています(笑)


それに今さらながらに医者にも興味が湧いてきました。
現在の日本の医療現場は細分化が問題視されています。
分野をまたいだマクロ的な視点を持つ医者が少ないのです。
専門性が高いというのも武器ですが、
これからはオールマイティな医者が重宝されそうだなと感じます。


少し前に読んだ本で和田秀樹さんの
『医学部の大罪』というのがありましたが、
そこでも専門細分化が問題視されていました。
私のすごく身近に様々な病気を経験してきた
患者のスペシャリストとも言える者がおりますが、
やはり病院のたらいまわしで辟易しています。


実際今後の医療の大きな割合を占める高齢者の方々も
「何かの病気」ではなく「あらゆる病気を併発」
が多いと思われます。
それぞれの症状ごとに診療を受け薬を出されるなど
無駄なことが多く起こってしまえば
winnerは医療業界だけです。
だから今のまんまが良いという既得権益層が
動かないのかも知れませんが、
この事情は改善すべきだと感じるわけです。


しかし、
私が今興味があるオールマイティーな医者になるには、
途方もないくらいの幅広い知識と現場経験、
他分野にいるお医者さんの方々との連携構築が必要です。
医者の道にガッツリ20年くらい取り組まねばですね。


今の教育改革を推進しながら
弁護士資格を取りつつ医者としてのキャリアを育むとか、
何人自分が必要なんでしょう^ ^;


ただ、色々なものに興味を持って
常にだだっ広い世界観で毎日を過ごすのは楽しいので、
死ぬまで夢を追いかけようと思います。
もしかしたらできるかも知れませんしね。


2014年11月23日日曜日

平等なんてあり得ない



この世は平等ではない。
平等になることなんてあり得ません。
なのに、いや、だからこそ人は
必要以上に敏感に平等を求めるのかも知れませんね。


「平等」という言葉を誤用し「横並び」と履き違えて
色んな弊害を引き起こしている日本。
生まれた時から全てが違う人間を
「平等」という概念で「横並び」にしてみせた
その論理のすり替え洗脳は素晴らしい芸当です。


累進課税制度。
お金がある人からお金を取る。
聞けば平等に聞こえるこの制度も、
内実は単なる横並び主義です。


お金がある人はそれなりにリスクを犯し
挑戦をしてきたからこそお金がある。
適切な努力も人並み以上にした成果への対価が
お金という形になっています。
お金がない人が努力をしていないかと言われると
それは分かりませんが、
結果を出せていないのなら努力と呼べない。
努力は結果に繋がってこその努力です。


就職の学歴格差問題。
学歴フィルターやターゲティングは不平等か。
いや、やはり学生時代に努力した者が
優遇されて然るべきでしょう。
仕事の能力と学歴は直結しないのは当たり前です。
準備してきた能力の中身が違うから。
ここにも論理のすり替えがまかり通っています。


男女平等とは一体何でしょうか。
リンゴと動物を比べるようなものでしょう。
男女の違いに「平等」という概念を持ち込むこと自体
ナンセンスだと思うのは私だけでしょうか。
勝手に事態をややこしくして優劣を創り、
なくてよかった争いを引き起こしているのです。
寝た子を起こしてどうする。
お互いが尊重し合い大切にし合えたら済む話なのに、
個人の話を大衆に拡張し論議を煽り
最終的には我関せずを許さない社会問題に仕立て上げました。


この世に平等を求める限り戦争はなくなりません。
平和を求めるその思いが戦争を引き起こすのです。
平等なんてあり得ない。
まずはそこから始めませんか?

2014年11月22日土曜日

民主主義という独裁国家日本



日本の政治はもはや民主主義ではないようです。
すでに「日本民主主義」は形骸化しており、
現在は正確に言えば
「政治家による独裁国家」と言えるでしょう。


今回の民主党の巨額蓄財の記事を読めば、
誰もが憤りを抱くことと思います。
そうではなくとも今回の意味不明の自爆解散。
多くの論調は
「安部さん、頭おかしいんじゃね?」という感じです。


しかし、それでも政治家はひるみません。
国民の意思などどうでも良いからです。
好き勝手やっても
怒りこそすれ
国が崩壊するような暴動が起こる文化は日本にありません。
かく言う私も政治に興味はありません。


先日熊本市長選挙に投票しましたが、
自民党の推薦を受けた大西さんが当選しました。
私も大西氏にいれました。
選挙中は対抗馬として石原さんが奮闘。
若い人たちも盛り上がってネットも活用し、
個人の票をかなり集めたと思います。
でも結局は200を越える組織から支援を受けた
大西氏の勝利。
これが選挙です。


これが選挙でなければ、
私も石原氏を推したかも知れません。
個人としてのポテンシャルは石原さんも相当あったからです。
でも、
選挙は個人の票で動かせるようなものではありません。
組織票です。
政党とのつながりが重要ですし、そういうものです。


国民の貯蓄を締めつけておいて自分たちの貯金に使う。
国民の信を問うと言いながらの
国民の意思を無視した税金無駄遣い。
憲法改正も集団的自衛権も消費増税も、
国民の意思はカヤの外です。
耳を傾けるポーズだけ取って、
結論ありきの政治運営を断行するのが政治家です。
だからますます私は個人的には
選挙に意味を感じないわけです。
何を言っても届かないし、意志を変えることはない。


だったらもう個人で力を持つしかない。
現場から価値を生みだせる力を持つしかないんです。
政治に文句言うのも疲れるし、どうせ暖簾に腕押し。
だったらせめてその労力を
「世間」を変えることに投資したいというのが私の決意です。


国に縛られない生き方。
「グローバル」とかいうものに強制される学びではなく、
ただ「自由でありたい」という個人的な主観に則った展望です。
タイタニック日本号と心中する前に
大海に漕ぎ出せる力を養いたいと思います。


2014年11月19日水曜日

人間が人間でなくなる時代の「学ぶ意味」とは



勉強する意味っていうのを何となく考えてみました。
今抱いている持論とは別の視点での「意味」です。


私が生きているうちにはないでしょうが、
そのうち人間とコンピュータの線引きが
曖昧になるんだろうなと思います。
どこかで人間のコンピュータ化や、
コンピュータの人間化が生じるからです。


今とある研究で、チップを脳に埋め込み、
記憶すらコンピュータに代替させようという試みがあります。
そうでなくても、
医者や弁護士、介護士や教師といったものが
コンピュータに置き換えられる時代が来るでしょう。


義手、義足から始まりiPS細胞による再生された臓器ができて、
どんどん技術が進歩して身体のあらゆる部位が
欠損補てんし得る状態となり、
人間は性交せずに子どもを創れるようになって、
色々な価値観を変容させていくことでしょう。


ちょっと考え過ぎですが、
こんな時代の急速な変革の中で
果たして「何かを覚えている」ということが
今後どんな意味を持ち続けるのだろうかと考えた時、
学校や塾というのは
どう変わっていくべきなのだろうかと思ったのです。


仕事の能力と学歴が直結しなくなったという現実が
「勉強しなくても仕事ができる」という誤解を生んでいるように、
多くの人が勉強する意味を見失いやすい時代です。
今の子どもたちが大人になる頃には
今学んでいることが活かせる時代ではなくなってしまうなら、
一体何のために子どもたちは学ぶのでしょうか。


文部科学省は
これまでの流れをベースに改革を進めようとしますが、
本来は変わりゆく先を見据えて準備せねばならないはずです。
20年後がどうなるのか。
それが改革のスタート地点でなければなりません。


私たち人間が学び続ける意味がどこにあるのか。
いや、この先の未来のどこに意味が生まれる可能性があるのかを
予測、検証し続けなければならないと感じました。

等価交換ではいけない



最近「捨てること」を考えることが多いです。


例えばオフィスにあるソファ。
これは完全に私の失敗ですが、
かなりの空間を占有するため邪魔になってきたんです。


それで、ふと考える。
「このソファがいくら生んでるんだろう??」


経営者ですから利益ベースで考えちゃう癖が最近あります(汗)


でもこうして考えると、
このソファを捨てて席を4つ増やせば、
これまでより4人多く生徒が入れるようになります。
4人分の授業料が新たに生まれるのです。
同じ空間の生み出す価値が変わってきます。


こういう時の発想で
等価交換ではいけないと意識しています。
1を捨てて10を得るにはどうするか。
そう考えることが大切です。


オフィスの空間だけではなく、
1日24時間しかない時間の使い方も同じです。
AをしてBをしないことのメリットは何か。
一体この使い方でどのくらいの価値が生まれるのか。
他の使い方でもっと価値を生めないか。


例えば、1日数時間分を勉強に費やしていますが、
この時間の使い方が自分の事業に
どう価値をもたらすかは常に頭で考えています。
これが単なる自己満足であれば
ただ業務を圧迫する作業です。
ただちに止めた方がいい。


しかし私の中でこの先に明確なビジョンがあって、
大いに事業に付加価値を与えてくれると確信しているので
取り組んでいるのです。


時間を何に投資するかは
お金を何に投資するか以上に重要な問題。
かなりシビアに考えています。


もちろん、ぼーっとしたりダラダラしたりもしてしまいますが^^;


ただ、今よりももっと価値の生める自分になる、
という意識で日々過ごしています。
向上心というと格好付けてる感じがしますが、
単純にもっともっと知りたいだけなんです。
世の中を、今知らないことを。

2014年11月12日水曜日

自分の本音に耳を傾けて下さい


自分は本当はどうしたいんだろう。
その声に耳を傾けたことはありますか。

私は最近生徒との面談をする中で、
進路を模索する際の葛藤が気になることがあります。

かく言う私も、学生の頃進路に悩み、
勉強に手が付かないことがしばしばありました。
勉強をせかす親に向かって
「どこにゴールがあるかも分からないのに、
 走りだせるわけがない」
と反発していたことを覚えています。

自分の本音に気付くってことは
実はものすごく大事なことだったりするんです。

例えば、私は以前医師を目指していました。
しかし、その後ビジネスに目覚め、
今は塾を起業し運営しています。

この時私はこう自分に問いました。
「どうして自分は医師に興味を持っていたのか」
そして、ビジネスに惹かれる自分に
「どうして自分はビジネスに惹かれるのか」
そしてさらに自分を問い詰めるわけです。
「医師とビジネスに共通するものは何か」

その時に得た結論はこうでした。
「ああ、俺って金が欲しいんだ」

身も蓋もないくらい不純な本音です。
しかし、これが紛れもない本心でした。
私はお金を稼げる何かを求めていたんです。

この後、「なぜそんなに金が欲しいのか」と
さらに奥底に踏み込んでいくことになるのですが、
そのことは割愛します。

さて、
この本音を誰に遠慮することもなく明確に認識できた時、
色んなシガラミから解放された気がしました。

多くの人は、当時の私も含めて、
ついつい理想を現実に引き寄せて
辻褄を合わせようとしてしまいます。
一種の防衛本能です。
人間として備えた重要な機能なんですが、
その隠れた機能に気付いて
見えないリミッターを外してあげねばならないのです。

そういうこともあり、
よく迷った生徒にはこう声を掛けます。
「本当はどうしたいの?」
本人が自身の本当の思いに気付かないままでは
指導も進路決定もできません。

結果だけを見て何やかやと
厳しい現実を突き付けるのは簡単ですが、
そんなことに意味はありません。
問題は自分の理想を実現するにはどうしたらいいのか。
これだけです。

皆さんの本音は何ですか?


2014年11月11日火曜日

孤高であるということ



私は以前から群れるのが嫌いでした。
嫌いというか苦手だったのかも知れません。


人が集まると「和」ができる。
和を乱す者はうとまれる。
しかし、私はどうも「和」が好きになれません。
固定化されてしまうからでしょう。
私は変わり続けたいのです。


たまに色んな交流会に顔を出したりしますが、
それは自己成長を求めるからです。
特に利害関係がない限り、
どんな肩書きを持っていても
その組織を出れば「ただその人」です。


○○の代表、○○社の社長。
そんな肩書はとりあえず群れの中だけの話で、
問題は「どういう人か」なんです。
その視点から見た時に、
自分はどんな人でありたいかと考えています。


例えば、すごく意欲的な人ばかりの組織にいれば
きっともうスゴくアゲアゲで、
あれもしようこれもしよう!ってなる。
でも逆に、そうじゃない人もいるっていうことを
考えなくなると思うんです。


ある就活セミナーを開催した時に、
それを運営する側の人間は
向上心溢れる人間ばかりでしたが、
いざ蓋を開けて見ると
「自分は社会の歯車で良い」と考えている人もいると分かる。


以前、世界的コンサルタントの大前研一さんが
東京都知事選に出馬されたことがありますが、
ビジネスマンの間では神のような方でも、
いざ選挙活動を始めると
地元の皆さまと世間話ができなかったそうです。
あまりに世界観が違いすぎたわけです。
結果、大前さんは落選されました。


本当に日本を変えようと思うなら、
大前さんが都知事になられると良かったのかも知れません。
しかし、大前さんは地元の方々の感覚がなかった。
世界の大前だったんです。


「和」を乱せばうとまれる。
しかし「和」を乱し続けなければ変われない。
変わり続けるには波風立てるリスクが伴う。
だったら群れずに孤独に闘う方が良い。


真実は何か一つに絞られるようなものじゃありません。
多数の真実が乱立し独特のバランスで総称的な真実となるものです。
何かを正しいと信じないこと。
自分を常に疑い続けて、
耳も心も常に広く開いておくこと。


自分に縛られず、他の何かにも縛られないこと。


そんなことをふと考えた今日です。

2014年11月5日水曜日

ヘイトスピーチについての考察


先日10月20日、
在日朝鮮人へのヘイトスピーチが酷いことを受けて、
橋下市長は在特会の桜井会長と対談を行いました。


そういうこともあってなのか、
昨日の記事にこのようなものが。


今国会中に法案提出される「ヘイトスピーチ規制法」の危険性
http://n-knuckles.com/case/politics/news001778.html


今では、特定個人の名を挙げた誹謗中傷は
名誉棄損の対象となっていますが、
法人や団体といった組織への誹謗中傷に関する法律は
まだありません。


そのため、法律では御しきれない在特会の活動をいさめるべく、
先月の20日に直接意見を聴くために
橋下市長が呼び寄せた形となったようです。


しかし、Youtubeでも公開されていますが、
桜井会長は終始挑発的な態度で周囲を煽り、
とても話し合いに臨むものではありませんでした。
案の定話し合いにすらならずに7分で打ち切り。


こういったデモ活動は枚挙に暇がありません。
原発反対、戦争反対、TPP反対などなど。


しかし、同じく香港で盛り上がりを見せている
普通選挙を認めることを訴える集団デモは
少し様子が違うようです。


そもそも、日本のデモ活動の原動力は
感情的な怒りです。
「○○に反対!○○は来るな!」
自分の主義主張を害する者への怒りが
爆発した形が取られます。


だからでしょうか。
鎮火も早い。
バッと燃えて、スッと消える感じがします。


しかし、香港でのデモの原動力は
並々ならぬ問題意識です。
リーダーの一人はなんと17歳。
しかし、その主張は世界の共感を呼びます。


皆同じように国を思うのかも知れませんが、
多種多様の人間が生きる国家という組織の中で、
全員が幸せに生きることは
ものすごく難しいことです。


しかし、方や努力をし現状を改善していく活動家、
方や努力を放棄し思考を停止した状態での感情論者。
世の中の共感を勝ち取り世界を巻き込み
国を変え得るのは一体どちらなのでしょうか。


一つ前に書いた記事ともリンクしますが、
(http://landsconsultingco.blogspot.jp/2014/11/blog-post_5.html)
桜井会長は全く相手への誠実さに欠けた態度でした。
彼が会長として成り立つ集団ですから、
相当な感情論者の集まりなのでしょう。


ただ、どんなに叫び語気を荒げようと
相手の声に耳を傾けない者は
相手にも話を聴いてもらえません。
自分の話を聴いてもらわねば成り立たなかったあの場で
それが見えなくなっていた桜井会長の負けです。


勿論、会長の意図した行動だったという見方もできます。
彼はかなり勉強はしています。
色々情報は調べているし、
中には確かにと思う部分もありはします。
あえて感情的に煽って見せて
メディアに取り上げられることを狙ったかも知れません。


が、個人的な怒りの感情を爆発させた主張は
なかなか周囲を魅了することはない。


何に問題を感じ、それを誰に主張するのか。
それを橋下市長は訴えていました。
確かにそうです。


感情的になると、
何に自分が怒りを感じているのかが
見えなくなることがあるものです。
人は感情的な生き物ですが、
誠実さと思考を欠いたコミュニケーションを
忘れてほしくないはありません。


今回国会で規制法が可決・承認されると、
それはそれで言論の自由を束縛する結果にもなるでしょう。
どこからが「ヘイト」なのか、難しい判断です。
しかし、個人に適用される法律があるのなら、
法人も「人格」ですから、
そういう法律で守られるべきだとは思います。


なぜいつまでも人は傷つけあうのか。
もっと相手の意見に耳を傾けることさえできれば、
世界は今よりずっと良くなると私は思います。


自分を信じるな


自分を信じると書いて「自信」となるわけですが、
私は「自分を信じること」と「自信を持つこと」は
全く別のことだと考えています。


例えば昨日の生徒対応でこんなことがありました。


ある受験生の話なのですが、
10月末のセンター模試で思うような結果が出ませんでした。
それこそ「レッドカード」のレベルです。


しかし、この期に及んでまだその生徒は
独学に走ろうとしていました。


これまでも、医学部生講師が専属でつき、
私も含め再三アドバイスを繰り返した生徒でしたが、
彼はそれらのアドバイスをスルーし続け
自分の思うように勉強してきたのでした。
そして、その結果がレッドカード。


そこで講師を含め三人で彼と話をするわけですが、
その時にすごく感じたことがこのフレーズでした。


「自分を信じるな」


これは一見ものすごくネガティブなフレーズに聞こえますが、
真実はそうではありません。


彼の場合は残念ながら、
典型的な「努力しても成績が伸びないパターン」
に陥っていました。
そしてそこに自覚すらありませんでした。


ガチガチにスコトーマ(心理的盲点)がかかっており、
もはや改善の糸口を探すことができないと思考を放棄し、
捨て身で突っ込むしかなくなっていたのです。


しかし、こういう時に、決して自分を信じてはいけません。


自分の今までのやり方がまずかったから
今のこの結果になってしまっているわけですから、
今の自分を逆に疑わなければならないのです。


そしてもし真剣に合格を考えているのならば、
ヤバすぎる結果に対して
「ヤバい!このままじゃマズイ!
 どうしよう!どうしたらいいですか!?先生!」
とならないとおかしい。


でも、自信を持つことは大事なことです。
ただ、自信を持つことはどうも
自分を信じることとは違うようなのです。


自分は必ず合格することができる!
という将来ビジョンや未来への確信を強く感じることを
自信を持つと表現しているはずです。


つまり、自信を持つとは「自分の未来を信じること」に
他なりません。


となると、自分を信じることと少々勝手が違ってきます。


「今の自分が正しいのだ」と信じることは、
実は逆に百害あって一利なしだということです。


今の自分を正しいと信じて
他の可能性を全てスルーするということは
成長の放棄を意味します。
人の話を聴けなくなった時点でおしまいなのです。


相手の話(アドバイス)を聴いて、
それを採用するかしないかは別の話です。
でも、まずは聴かなければなりません。


自分と異なる考え方ならば
「いや、でも自分はこうしたいんだ」ではなく
「どうしてそう思うんですか?」と聞かなくてはならない。
相手の主張の根底にある考え方を吸収してから、
自分の価値観とすり合わせればいいんです。


何か達成したい目的や目標がある場合、
今までの自分のやり方で本当に最善なのか、
まずは疑ってみましょう。
他にももっと良い方法があるんじゃなかろうか。
この「自己懐疑」が重要なステップです。


自分にとって「自分のやり方でやりたい」という
プライドの方が重要なのか、
目的、目標を達成することの方が重要なのか、
そこが問題です。


自己懐疑→自己否定→自己破壊→自己再構築
このサイクルを回せるようになると、
どんどん成長していけます。
結構しんどいですが、成長の近道です。


講師を含め私たちが望むのは
生徒さんたちの合格であり将来の幸せです。
それだけです。
そのためには耳の痛い話であっても
「これは違う。こう直そう。」と指摘しなくてなりません。
伝え方は気をつけますが、それを聞き入れるかどうかです。


指摘してもらえることのありがたみを忘れたら、
どこに行っても誰にも相手にされなくなるし、
良い情報が入って来なくなります。
「だったら自分の好きなようにしなよ」と言われて
放っておかれます。
相手にとってこちらがどうなろうと
究極的にはどうでもいいことだからです。
でも、それだけは絶対に避けましょう。


良い意味で、自分を信じてはいけません。
常に疑い、最善の道を模索し続けることが
成長には大切なことなのです。


2014年11月1日土曜日

財務省と文科省のどんぐり抗争

小中教員1万4000人削減求める 財政制度審
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2804D_Y3A021C1CR8000/


本日このようなニュースが報道されました。
35人学級か40人学級か。
教員削減か教員増員か。


この議論はおそらく平行線を辿ることになります。
問題の焦点がずれているからです。


1つの見方としては「経費」か「教育の質」かと言った議論です。
同じ問題の別々の側面を指摘し合っても、
目的が違うのでかみ合いません。


ニュースなどで公開されている情報だけで
両者の言い分を審議するのは不可能ですが、
データを集計して教員の増減を検討する感覚が
私たち現場の人間とかけ離れている気がします。


そもそも文科省の言い分も意味不明です。
教育の質は少人数学級で保証されるものでもないからです。


事実『3年B組 金八先生』でも
30人学級でいじめの描写もありました。
その後25人学級になりましたが、
問題は山積み状態。
教育の質が向上したとは思えないものでした。
もちろん作り話なので鵜呑みにするわけにはいきませんが。


つまり、教育の質は学級の人数ではないということです。


それに、財務省はいわば国の会計役。
その彼らが教育の質を犠牲にしてでも
経費削減を叫ぶということは、
必要な財源確保が追い付いていないから。
国の財布がかなり厳しいことを意味しています。


勿論、1学級の生徒数が40人と25人とでは
手の届き方が全く違ってくるでしょうが、
本質的な解決にはならないと思います。
本当の問題はバランスの悪さだからです。


食糧問題にしてもそうですが、
地球全体の総量ではちゃんと足りているのに、
なくていいところに余計にあって、あるべきところにないから
困る人が出てきて問題になる。
学校の統廃合で学級の生徒数がフラットになれば
教員を増やす必要もないわけです。


それに、現行の教育システムがすでに
社会的ニーズに適合していない状態で
教員を増やしても問題は悪化するだけ。
文科省はまず教育システムの見直しを
優先して進めるべきでしょう。


日本教育でどう子どもたちを育てるのかの
明確なビジョンもなく、
本当の問題はどこにあるのかも明確にしないままでは
「教育の質の向上」という正義も単なるワガママです。



経費の削減も重要課題。
教育の質の向上も重要課題。
となれば、双方を両立させるようなジンテーゼが
求められているということ。
財務省の言い分も、文科省の言い分も
双方間違っていないのだから、
どちらか一方!二者択一!みたいな話し合いをしてないで、
より建設的な話し合いを進めていただけたらと願います。