2014年12月18日木曜日

あなたのそれは依存症ではありませんか???



何かをしてもらうことに慣れると、気付かないうちに依存体質になってしまいます。


先日生徒さんにこんなことを言われました。


「この教室って緊張感ないですよね」


そうなんです。認めます。
うちの教室には緊張感はありません。
私自身にもさほど緊張感はありません。
でも、その言葉を聞いた時に、この問題の根深さを考えました。
子どもたちの多くが、誰かに緊張感を持たせられなければ緊張感を持てない状態にあるということです。
そしてそのことに生徒本人が気付いていないのです。


このことは、その後教室の方で授業形式でお話ししました。
ちょっと心配だったので。


誰かに、何かに依存している人は、その自分の依存状態に気付かないことが少なくありません。
そして、周囲もそれを望み、普通のことだと思ってしまっている節があります。


例えば、わかるまでできるまで徹底指導します!と謳う塾などがそうです。


塾は勿論点数を伸ばし成績を上げるサービス業なので、それを顧客である保護者の皆さんは望みますし、そうやって何から何まで手取り足取りでやってもらえる方が生徒も楽でしょう。
だから大手塾も緊張感を煽り、カッコいいキャッチコピーで集客を図るわけです。


でも、私は、そこにすごく違和感を感じてしまいます。
オリジナルテキストを配り、授業をし、宿題を出して、できれば褒め、できねば叱り、緊張感や焦りを煽って「あと何日!あと何日!」とケツを叩く塾が多いのが現状なのですが、私からすればそんな勉強の仕方はまるで家畜と一緒にしか見えないからです。


進撃の巨人の観過ぎだと思われるかも知れませんが、そんな風に、自分で考えもせずに出されたものを次から次へと消化するだけなら、それは家畜です。
そして、それを保護者の皆さんや生徒さん自身が望んでいるかも知れませんが、社会はそんな教育で育った人間など望んではいないのです。
それが塾が現実社会と乖離している一番の原因です。
そして、塾が一教育機関として明確な認識を持たれている以上、その乖離はダイレクトに子どもたちに影響します。
結果、現実と乖離した若者が育つのです。


生徒さんには話をしましたが、誰かに緊張感を持たせられないと自分を奮い立たせることができないままでは、その他大勢にしかならないし、その他大勢にしかなれない勉強に意味はないと説明しました。
この教室は決して手取り足取りはしないし、こっちは手を差し伸べて待ってるだけで、掴んでくれたら引っ張り上げるけど、こちらから掴みに行ったりはしないよ、と。
だから、緊張感はないけど、実は結構厳しい環境だったりするんだよと説明しました。


それから、皆は「自分はできるのにできないだけだ」と考えてほしいと伝えました。
前提を間違ってはいけないと。
「自分はできない」ではなく、「自分はできるはずなのに、どうしてできないんだ??」と考えることで、具体的な阻害要因除去の思考が働きます。
この差が実はでかいんです。


今の子どもたちに、本来の「自分が今勉強している意味」に気付いてもらえるよう、もう少し発信していかねばなと感じた出来事でした。

2014年12月17日水曜日

想定外に対処するには



この世は本当に
いつ何が起こるか分かりません。
でも、起きてしまったことに反応していかねばならない運命です。
起きてしまったことを嘆くよりも、
それをどうひっくり返すかを必死に考えるべきでしょう。


どんなに完璧な準備をしても
想定した通りになるとは限りません。
それでも万全を目指して準備をすること。
時には割り切り、時にはしつこく、
時には無我夢中で、時には無視。
受け入れ方にもバランス感覚が必要です。


反応の精度は感情外で左右されます。
ショックなことが起きても、
もともと欲しかった結果と現状を照らし合わせて、
辻褄を合せるにはどうするかと考える。
できることできないことあるでしょうが、
まずはそんなの無視して理想な状態は何なのかを考えます。


理想が明確にイメージできてから、
現実的な観点から妥協せざるを得ないものを
一つ一つ吟味しながら削っていくのです。


これを逆にすると全く違う結果になります。
最初に現実的な目線でものを考える癖を付けると
もはや夢など持てなくなるでしょう。
全てが超えられないハードルにしか見えなくなる。
そうなると世の中はさぞ重たい世界になるでしょう。


トラブルは徒党を組んでやってくるもの。
でも、そんなものに一々感情乱されてたら
できることもできなくなります。
まずは落ち着いて感情回路を切り離し、
思考回路だけに集中できる状態になって下さい。
そこから論理的に考えずに
理想論から入るんです。


想定外のことが起きた時、
その事象にどう対応できるかは、
日頃からどういう発想、
思考で事象と関わっているかにかかっています。


世の中は何が起こるか分かりません。
ご覚悟を。。。

2014年12月13日土曜日

起業家になることよりも大切なこと



起業家になることには、
起業家になることそのものよりも、
もっと大事なことがある気がしています。


FBとかでは特に、
起業家になろう!起業家はいいよ!
みたいな煽りをよく見かけます。
私も起業家のはしくれなので、
起業家という生き方は素晴らしいものだと思うんですが、
立ち位置は少し違います。
どう考えても就職する方が
起業家になることよりも“効率的”だからです。


私は当初、起業家と企業家を天秤にかけて、
起業家の方が良い、という表面的な考え方をしていました。
しかし、
起業家であること自体には大きなリスクが伴うものです。
企業家であることにもリスクはありますし、
どんなリスクを選ぶかという話にもなります。


でも、自由で有意義な人生を送る上で、
必ずしも起業家の方が優れているかというと、
そうでもありません。
効率重視の私からすれば、
給料ももらえて看板も使わせてもらえて、
小面倒くさい会計処理は人がやってくれて、
最初から組織の中で色々学ばせてもらえる環境である
企業家の方が、
理屈上ははるかに生き方として効率的なんです。


起業家になったら全部自分でしないといけなくなります。
責任ももちろん自分で負うわけです。
何もかも最初から創り上げないといけないわけですし、
これから起業をしようとする人にとっては
危ないことだらけですよね。
冷静に考えたら、
私もよく起業家という道を選んだもんだと思う時もあります(笑)


でも、起業家になることそのものよりももっと大事なのは、
起業家マインドを持つことだと思うのです。
起業家マインドさえあれば、企業家であってもイイわけです。
生き方が確立されていれば、
余計なリスクを負わすとも自分の理想を実現できます。
むしろ自分の理想の実現のために
就職という道を利用する発想になるでしょう。


私は教育者なので、常に中立であろうと思っています。
何かに偏った見方をしていては、
生徒さんに必要な答えに導けないと考えているからです。
自分が起業家だからといって、
その素晴らしさばかり強調していても、
それは真実ではありません。
乗り越えねばならない壁は確かにあって、
それを乗り越えられるかはその人次第だからです。


つまり、どんな道を歩むかという話ではなく、
どんな生き方をするのか、
そのマインドの部分さえちゃんと持っていれば、
起業家とか企業家という違いは
さほどないのではないかと思うのです。


私は今後、学習塾事業に加えて、
有料自習室運営や就職支援の方向にも舵を切っていきます。
生き方の一つに起業家というものもありますが、
まずは就職活動、
採用活動の健全化を図ることの方が先決です。
この世には、いえ、
この日本にはまだ直さねばならない問題が山ほどあるのです。
それをこれからも一つ一つ取り組んで
是正していけたらと思います。


どれを選ぶかの前に、何を基準に選ぶか、
その選択肢そのものをもっと健全化できないかと
常に考えながら、
自由と理想を実現していきましょう。


2014年12月10日水曜日

思い込みというブレーキから足を外す時



何かで世界一になりたいもんですね~


人は思い込みの世界で生きています。
「自分が東大に受かるわけない」とか
「どうせ自分の成績はこれくらいだ」とか
「あいつは天才だから」とか。


でも、その思い込みを
「俺にもそれくらいできるだろう」とか
「私だって普通に頑張れば東大受かるし」とか
「自分の天才的才能を引き出せるんじゃね!?」みたいな
良い方向の思い込みにできたらいいのにって思います。


脳は意識の制約を受けますから、
「自分にはできない」と思えば
「できない理由」ばかりを認識にあげようとしますし、
「なんとかなるんじゃね?」と思っていれば
「なんとかなる方法」を脳がキャッチしてくれるものなのです。


結構シンプルだけど、
なぜか自分の思い込みから抜け出したくないって人が
多いような気がしています。


私も正直最初からそうだったわけではないんですが、
苫米地英人さんの本と出会って読みまくっているうちに
そうすることの重要性に気付き、
また、実感を伴った変化ができたんです。


自分の性格とか、境遇とか、歳とか、
そういうブレーキになる現状認識をやめて、
全くのゼロベースで自分の理想を考えてみたら、
きっと今してる大いなる“損”に気付けるんじゃないでしょうか。


起っちゃったら仕方ないじゃん。
何とかなるど?
それが私の思考回路。
あとは何とかする行動と
何とかなるまで考え続けることさえできれば、
世の中大抵のことは何とかなります^^


もっと自分にとって都合の良い思い込みをしましょう。
今日も後半戦頑張ります☆

2014年12月8日月曜日

自分がアホだと気付くところから成長が始まる



リーダーっていうのは
別に周りに人が集まる人のことだけを指してるわけじゃない。
失敗っていうのは
自分の思った通りにならなかったことを指してるわけじゃない。


全ては高校数学の論理と集合の話です。
A→BとB→Aは同値とは限らない。


勉強に価値があると見なされるのは、
自分の立っている土俵が学校や受験だからで、
お金に価値があると見なされるのは、
自分の生きている社会が資本主義社会だからです。


業に入っては業に従えという言葉があるように、
自分が今どの土俵の上で闘っているのかを
把握してモノを言い、考えねばなりません。
お互いが自分の立ち位置を不明瞭にしたまま
争うことほど不毛なものはない。


色んな考え方があります。
tsuはダメだとか良いとか、
選挙に意味ないとか行くのが義務だとか。
でも、どれも間違っていない意見です。
どれが正しいということもありません。


ただ、一つ間違っているとすれば、
「自分の意見が最もまともだ」と思い込むことです。


私にも勿論あります。
どう考えても自分の考え方が一番最もだと思う時が。
でも、それをFBで放てば波風が立つ。
だからあんまり言いません、ここでは。
こっそり温めて実現してから真を問います。
もしくは、どうしても言いたい時は
反論覚悟でぶっ放します(笑)




世の中に正しいことなど一つもないというのが
昔からの私の持論です。
あるのは「自分にとっての現時点での最善解」に過ぎません。
でもそれをお互いに投げ合って、
自分とは違う意見の人間を平然と否定してみせて、
その上で相手の言い分を受け付けない人間も
FBの中には散見されます。
そういうのは見ていて不毛です。
言い逃げとか、やめてほしい。
せめて反論を受け止めるだけの覚悟で投げてほしい。
議論しましょうよ。
楽しいのに。


なんでこんな話をしているのかっていうと
自分のアホさに気付いたからです。
すぐには直せないとは思いますけど、
このアホさを直せば自分はもうワンランク上に行ける気がします。


人の成長は
「あ~なんて自分はアホなんだ!!!」
と気付くところから始まると言われています。
ウソです。
今私が勝手に作りました。
でも本当にそう思います。
自己否定できぬ者に成長などあり得ないのです。


でも逆に、自分のアホさ加減に真剣に向き合えれば、
きっと次のステージが見えてくる。
そう信じています。

2014年11月24日月曜日

第二童心期なう



最近童心に戻りすぎている気がします。
あれもこれもやりたい気持ちになってきたんです。


小さい頃ってコロコロ夢が変わりますよね。
あれにもこれにも興味があるから
色んな事をしてみたくなるものでした。
私は第二童心期なうです(笑)


今のマイブームは『リーガルハイ』。
毎夜毎夜お酒を片手に見まくってますが、
ファーストシーズンの古美門研介のセリフで
「理想で現実を変えたければもっと強く賢くなれ」
というのが刺さっています。
ああいうのが弁護士のリアルかは分かりませんが、
勝つためには徹底して戦い抜く姿勢は
私が今学ぶべきものです。


もちろんドラマほど簡単なものではありませんが、
何となく自分は弁護士にも向いている気がしています(笑)


それに今さらながらに医者にも興味が湧いてきました。
現在の日本の医療現場は細分化が問題視されています。
分野をまたいだマクロ的な視点を持つ医者が少ないのです。
専門性が高いというのも武器ですが、
これからはオールマイティな医者が重宝されそうだなと感じます。


少し前に読んだ本で和田秀樹さんの
『医学部の大罪』というのがありましたが、
そこでも専門細分化が問題視されていました。
私のすごく身近に様々な病気を経験してきた
患者のスペシャリストとも言える者がおりますが、
やはり病院のたらいまわしで辟易しています。


実際今後の医療の大きな割合を占める高齢者の方々も
「何かの病気」ではなく「あらゆる病気を併発」
が多いと思われます。
それぞれの症状ごとに診療を受け薬を出されるなど
無駄なことが多く起こってしまえば
winnerは医療業界だけです。
だから今のまんまが良いという既得権益層が
動かないのかも知れませんが、
この事情は改善すべきだと感じるわけです。


しかし、
私が今興味があるオールマイティーな医者になるには、
途方もないくらいの幅広い知識と現場経験、
他分野にいるお医者さんの方々との連携構築が必要です。
医者の道にガッツリ20年くらい取り組まねばですね。


今の教育改革を推進しながら
弁護士資格を取りつつ医者としてのキャリアを育むとか、
何人自分が必要なんでしょう^ ^;


ただ、色々なものに興味を持って
常にだだっ広い世界観で毎日を過ごすのは楽しいので、
死ぬまで夢を追いかけようと思います。
もしかしたらできるかも知れませんしね。


2014年11月23日日曜日

平等なんてあり得ない



この世は平等ではない。
平等になることなんてあり得ません。
なのに、いや、だからこそ人は
必要以上に敏感に平等を求めるのかも知れませんね。


「平等」という言葉を誤用し「横並び」と履き違えて
色んな弊害を引き起こしている日本。
生まれた時から全てが違う人間を
「平等」という概念で「横並び」にしてみせた
その論理のすり替え洗脳は素晴らしい芸当です。


累進課税制度。
お金がある人からお金を取る。
聞けば平等に聞こえるこの制度も、
内実は単なる横並び主義です。


お金がある人はそれなりにリスクを犯し
挑戦をしてきたからこそお金がある。
適切な努力も人並み以上にした成果への対価が
お金という形になっています。
お金がない人が努力をしていないかと言われると
それは分かりませんが、
結果を出せていないのなら努力と呼べない。
努力は結果に繋がってこその努力です。


就職の学歴格差問題。
学歴フィルターやターゲティングは不平等か。
いや、やはり学生時代に努力した者が
優遇されて然るべきでしょう。
仕事の能力と学歴は直結しないのは当たり前です。
準備してきた能力の中身が違うから。
ここにも論理のすり替えがまかり通っています。


男女平等とは一体何でしょうか。
リンゴと動物を比べるようなものでしょう。
男女の違いに「平等」という概念を持ち込むこと自体
ナンセンスだと思うのは私だけでしょうか。
勝手に事態をややこしくして優劣を創り、
なくてよかった争いを引き起こしているのです。
寝た子を起こしてどうする。
お互いが尊重し合い大切にし合えたら済む話なのに、
個人の話を大衆に拡張し論議を煽り
最終的には我関せずを許さない社会問題に仕立て上げました。


この世に平等を求める限り戦争はなくなりません。
平和を求めるその思いが戦争を引き起こすのです。
平等なんてあり得ない。
まずはそこから始めませんか?

2014年11月22日土曜日

民主主義という独裁国家日本



日本の政治はもはや民主主義ではないようです。
すでに「日本民主主義」は形骸化しており、
現在は正確に言えば
「政治家による独裁国家」と言えるでしょう。


今回の民主党の巨額蓄財の記事を読めば、
誰もが憤りを抱くことと思います。
そうではなくとも今回の意味不明の自爆解散。
多くの論調は
「安部さん、頭おかしいんじゃね?」という感じです。


しかし、それでも政治家はひるみません。
国民の意思などどうでも良いからです。
好き勝手やっても
怒りこそすれ
国が崩壊するような暴動が起こる文化は日本にありません。
かく言う私も政治に興味はありません。


先日熊本市長選挙に投票しましたが、
自民党の推薦を受けた大西さんが当選しました。
私も大西氏にいれました。
選挙中は対抗馬として石原さんが奮闘。
若い人たちも盛り上がってネットも活用し、
個人の票をかなり集めたと思います。
でも結局は200を越える組織から支援を受けた
大西氏の勝利。
これが選挙です。


これが選挙でなければ、
私も石原氏を推したかも知れません。
個人としてのポテンシャルは石原さんも相当あったからです。
でも、
選挙は個人の票で動かせるようなものではありません。
組織票です。
政党とのつながりが重要ですし、そういうものです。


国民の貯蓄を締めつけておいて自分たちの貯金に使う。
国民の信を問うと言いながらの
国民の意思を無視した税金無駄遣い。
憲法改正も集団的自衛権も消費増税も、
国民の意思はカヤの外です。
耳を傾けるポーズだけ取って、
結論ありきの政治運営を断行するのが政治家です。
だからますます私は個人的には
選挙に意味を感じないわけです。
何を言っても届かないし、意志を変えることはない。


だったらもう個人で力を持つしかない。
現場から価値を生みだせる力を持つしかないんです。
政治に文句言うのも疲れるし、どうせ暖簾に腕押し。
だったらせめてその労力を
「世間」を変えることに投資したいというのが私の決意です。


国に縛られない生き方。
「グローバル」とかいうものに強制される学びではなく、
ただ「自由でありたい」という個人的な主観に則った展望です。
タイタニック日本号と心中する前に
大海に漕ぎ出せる力を養いたいと思います。


2014年11月19日水曜日

人間が人間でなくなる時代の「学ぶ意味」とは



勉強する意味っていうのを何となく考えてみました。
今抱いている持論とは別の視点での「意味」です。


私が生きているうちにはないでしょうが、
そのうち人間とコンピュータの線引きが
曖昧になるんだろうなと思います。
どこかで人間のコンピュータ化や、
コンピュータの人間化が生じるからです。


今とある研究で、チップを脳に埋め込み、
記憶すらコンピュータに代替させようという試みがあります。
そうでなくても、
医者や弁護士、介護士や教師といったものが
コンピュータに置き換えられる時代が来るでしょう。


義手、義足から始まりiPS細胞による再生された臓器ができて、
どんどん技術が進歩して身体のあらゆる部位が
欠損補てんし得る状態となり、
人間は性交せずに子どもを創れるようになって、
色々な価値観を変容させていくことでしょう。


ちょっと考え過ぎですが、
こんな時代の急速な変革の中で
果たして「何かを覚えている」ということが
今後どんな意味を持ち続けるのだろうかと考えた時、
学校や塾というのは
どう変わっていくべきなのだろうかと思ったのです。


仕事の能力と学歴が直結しなくなったという現実が
「勉強しなくても仕事ができる」という誤解を生んでいるように、
多くの人が勉強する意味を見失いやすい時代です。
今の子どもたちが大人になる頃には
今学んでいることが活かせる時代ではなくなってしまうなら、
一体何のために子どもたちは学ぶのでしょうか。


文部科学省は
これまでの流れをベースに改革を進めようとしますが、
本来は変わりゆく先を見据えて準備せねばならないはずです。
20年後がどうなるのか。
それが改革のスタート地点でなければなりません。


私たち人間が学び続ける意味がどこにあるのか。
いや、この先の未来のどこに意味が生まれる可能性があるのかを
予測、検証し続けなければならないと感じました。

等価交換ではいけない



最近「捨てること」を考えることが多いです。


例えばオフィスにあるソファ。
これは完全に私の失敗ですが、
かなりの空間を占有するため邪魔になってきたんです。


それで、ふと考える。
「このソファがいくら生んでるんだろう??」


経営者ですから利益ベースで考えちゃう癖が最近あります(汗)


でもこうして考えると、
このソファを捨てて席を4つ増やせば、
これまでより4人多く生徒が入れるようになります。
4人分の授業料が新たに生まれるのです。
同じ空間の生み出す価値が変わってきます。


こういう時の発想で
等価交換ではいけないと意識しています。
1を捨てて10を得るにはどうするか。
そう考えることが大切です。


オフィスの空間だけではなく、
1日24時間しかない時間の使い方も同じです。
AをしてBをしないことのメリットは何か。
一体この使い方でどのくらいの価値が生まれるのか。
他の使い方でもっと価値を生めないか。


例えば、1日数時間分を勉強に費やしていますが、
この時間の使い方が自分の事業に
どう価値をもたらすかは常に頭で考えています。
これが単なる自己満足であれば
ただ業務を圧迫する作業です。
ただちに止めた方がいい。


しかし私の中でこの先に明確なビジョンがあって、
大いに事業に付加価値を与えてくれると確信しているので
取り組んでいるのです。


時間を何に投資するかは
お金を何に投資するか以上に重要な問題。
かなりシビアに考えています。


もちろん、ぼーっとしたりダラダラしたりもしてしまいますが^^;


ただ、今よりももっと価値の生める自分になる、
という意識で日々過ごしています。
向上心というと格好付けてる感じがしますが、
単純にもっともっと知りたいだけなんです。
世の中を、今知らないことを。

2014年11月12日水曜日

自分の本音に耳を傾けて下さい


自分は本当はどうしたいんだろう。
その声に耳を傾けたことはありますか。

私は最近生徒との面談をする中で、
進路を模索する際の葛藤が気になることがあります。

かく言う私も、学生の頃進路に悩み、
勉強に手が付かないことがしばしばありました。
勉強をせかす親に向かって
「どこにゴールがあるかも分からないのに、
 走りだせるわけがない」
と反発していたことを覚えています。

自分の本音に気付くってことは
実はものすごく大事なことだったりするんです。

例えば、私は以前医師を目指していました。
しかし、その後ビジネスに目覚め、
今は塾を起業し運営しています。

この時私はこう自分に問いました。
「どうして自分は医師に興味を持っていたのか」
そして、ビジネスに惹かれる自分に
「どうして自分はビジネスに惹かれるのか」
そしてさらに自分を問い詰めるわけです。
「医師とビジネスに共通するものは何か」

その時に得た結論はこうでした。
「ああ、俺って金が欲しいんだ」

身も蓋もないくらい不純な本音です。
しかし、これが紛れもない本心でした。
私はお金を稼げる何かを求めていたんです。

この後、「なぜそんなに金が欲しいのか」と
さらに奥底に踏み込んでいくことになるのですが、
そのことは割愛します。

さて、
この本音を誰に遠慮することもなく明確に認識できた時、
色んなシガラミから解放された気がしました。

多くの人は、当時の私も含めて、
ついつい理想を現実に引き寄せて
辻褄を合わせようとしてしまいます。
一種の防衛本能です。
人間として備えた重要な機能なんですが、
その隠れた機能に気付いて
見えないリミッターを外してあげねばならないのです。

そういうこともあり、
よく迷った生徒にはこう声を掛けます。
「本当はどうしたいの?」
本人が自身の本当の思いに気付かないままでは
指導も進路決定もできません。

結果だけを見て何やかやと
厳しい現実を突き付けるのは簡単ですが、
そんなことに意味はありません。
問題は自分の理想を実現するにはどうしたらいいのか。
これだけです。

皆さんの本音は何ですか?


2014年11月11日火曜日

孤高であるということ



私は以前から群れるのが嫌いでした。
嫌いというか苦手だったのかも知れません。


人が集まると「和」ができる。
和を乱す者はうとまれる。
しかし、私はどうも「和」が好きになれません。
固定化されてしまうからでしょう。
私は変わり続けたいのです。


たまに色んな交流会に顔を出したりしますが、
それは自己成長を求めるからです。
特に利害関係がない限り、
どんな肩書きを持っていても
その組織を出れば「ただその人」です。


○○の代表、○○社の社長。
そんな肩書はとりあえず群れの中だけの話で、
問題は「どういう人か」なんです。
その視点から見た時に、
自分はどんな人でありたいかと考えています。


例えば、すごく意欲的な人ばかりの組織にいれば
きっともうスゴくアゲアゲで、
あれもしようこれもしよう!ってなる。
でも逆に、そうじゃない人もいるっていうことを
考えなくなると思うんです。


ある就活セミナーを開催した時に、
それを運営する側の人間は
向上心溢れる人間ばかりでしたが、
いざ蓋を開けて見ると
「自分は社会の歯車で良い」と考えている人もいると分かる。


以前、世界的コンサルタントの大前研一さんが
東京都知事選に出馬されたことがありますが、
ビジネスマンの間では神のような方でも、
いざ選挙活動を始めると
地元の皆さまと世間話ができなかったそうです。
あまりに世界観が違いすぎたわけです。
結果、大前さんは落選されました。


本当に日本を変えようと思うなら、
大前さんが都知事になられると良かったのかも知れません。
しかし、大前さんは地元の方々の感覚がなかった。
世界の大前だったんです。


「和」を乱せばうとまれる。
しかし「和」を乱し続けなければ変われない。
変わり続けるには波風立てるリスクが伴う。
だったら群れずに孤独に闘う方が良い。


真実は何か一つに絞られるようなものじゃありません。
多数の真実が乱立し独特のバランスで総称的な真実となるものです。
何かを正しいと信じないこと。
自分を常に疑い続けて、
耳も心も常に広く開いておくこと。


自分に縛られず、他の何かにも縛られないこと。


そんなことをふと考えた今日です。

2014年11月5日水曜日

ヘイトスピーチについての考察


先日10月20日、
在日朝鮮人へのヘイトスピーチが酷いことを受けて、
橋下市長は在特会の桜井会長と対談を行いました。


そういうこともあってなのか、
昨日の記事にこのようなものが。


今国会中に法案提出される「ヘイトスピーチ規制法」の危険性
http://n-knuckles.com/case/politics/news001778.html


今では、特定個人の名を挙げた誹謗中傷は
名誉棄損の対象となっていますが、
法人や団体といった組織への誹謗中傷に関する法律は
まだありません。


そのため、法律では御しきれない在特会の活動をいさめるべく、
先月の20日に直接意見を聴くために
橋下市長が呼び寄せた形となったようです。


しかし、Youtubeでも公開されていますが、
桜井会長は終始挑発的な態度で周囲を煽り、
とても話し合いに臨むものではありませんでした。
案の定話し合いにすらならずに7分で打ち切り。


こういったデモ活動は枚挙に暇がありません。
原発反対、戦争反対、TPP反対などなど。


しかし、同じく香港で盛り上がりを見せている
普通選挙を認めることを訴える集団デモは
少し様子が違うようです。


そもそも、日本のデモ活動の原動力は
感情的な怒りです。
「○○に反対!○○は来るな!」
自分の主義主張を害する者への怒りが
爆発した形が取られます。


だからでしょうか。
鎮火も早い。
バッと燃えて、スッと消える感じがします。


しかし、香港でのデモの原動力は
並々ならぬ問題意識です。
リーダーの一人はなんと17歳。
しかし、その主張は世界の共感を呼びます。


皆同じように国を思うのかも知れませんが、
多種多様の人間が生きる国家という組織の中で、
全員が幸せに生きることは
ものすごく難しいことです。


しかし、方や努力をし現状を改善していく活動家、
方や努力を放棄し思考を停止した状態での感情論者。
世の中の共感を勝ち取り世界を巻き込み
国を変え得るのは一体どちらなのでしょうか。


一つ前に書いた記事ともリンクしますが、
(http://landsconsultingco.blogspot.jp/2014/11/blog-post_5.html)
桜井会長は全く相手への誠実さに欠けた態度でした。
彼が会長として成り立つ集団ですから、
相当な感情論者の集まりなのでしょう。


ただ、どんなに叫び語気を荒げようと
相手の声に耳を傾けない者は
相手にも話を聴いてもらえません。
自分の話を聴いてもらわねば成り立たなかったあの場で
それが見えなくなっていた桜井会長の負けです。


勿論、会長の意図した行動だったという見方もできます。
彼はかなり勉強はしています。
色々情報は調べているし、
中には確かにと思う部分もありはします。
あえて感情的に煽って見せて
メディアに取り上げられることを狙ったかも知れません。


が、個人的な怒りの感情を爆発させた主張は
なかなか周囲を魅了することはない。


何に問題を感じ、それを誰に主張するのか。
それを橋下市長は訴えていました。
確かにそうです。


感情的になると、
何に自分が怒りを感じているのかが
見えなくなることがあるものです。
人は感情的な生き物ですが、
誠実さと思考を欠いたコミュニケーションを
忘れてほしくないはありません。


今回国会で規制法が可決・承認されると、
それはそれで言論の自由を束縛する結果にもなるでしょう。
どこからが「ヘイト」なのか、難しい判断です。
しかし、個人に適用される法律があるのなら、
法人も「人格」ですから、
そういう法律で守られるべきだとは思います。


なぜいつまでも人は傷つけあうのか。
もっと相手の意見に耳を傾けることさえできれば、
世界は今よりずっと良くなると私は思います。


自分を信じるな


自分を信じると書いて「自信」となるわけですが、
私は「自分を信じること」と「自信を持つこと」は
全く別のことだと考えています。


例えば昨日の生徒対応でこんなことがありました。


ある受験生の話なのですが、
10月末のセンター模試で思うような結果が出ませんでした。
それこそ「レッドカード」のレベルです。


しかし、この期に及んでまだその生徒は
独学に走ろうとしていました。


これまでも、医学部生講師が専属でつき、
私も含め再三アドバイスを繰り返した生徒でしたが、
彼はそれらのアドバイスをスルーし続け
自分の思うように勉強してきたのでした。
そして、その結果がレッドカード。


そこで講師を含め三人で彼と話をするわけですが、
その時にすごく感じたことがこのフレーズでした。


「自分を信じるな」


これは一見ものすごくネガティブなフレーズに聞こえますが、
真実はそうではありません。


彼の場合は残念ながら、
典型的な「努力しても成績が伸びないパターン」
に陥っていました。
そしてそこに自覚すらありませんでした。


ガチガチにスコトーマ(心理的盲点)がかかっており、
もはや改善の糸口を探すことができないと思考を放棄し、
捨て身で突っ込むしかなくなっていたのです。


しかし、こういう時に、決して自分を信じてはいけません。


自分の今までのやり方がまずかったから
今のこの結果になってしまっているわけですから、
今の自分を逆に疑わなければならないのです。


そしてもし真剣に合格を考えているのならば、
ヤバすぎる結果に対して
「ヤバい!このままじゃマズイ!
 どうしよう!どうしたらいいですか!?先生!」
とならないとおかしい。


でも、自信を持つことは大事なことです。
ただ、自信を持つことはどうも
自分を信じることとは違うようなのです。


自分は必ず合格することができる!
という将来ビジョンや未来への確信を強く感じることを
自信を持つと表現しているはずです。


つまり、自信を持つとは「自分の未来を信じること」に
他なりません。


となると、自分を信じることと少々勝手が違ってきます。


「今の自分が正しいのだ」と信じることは、
実は逆に百害あって一利なしだということです。


今の自分を正しいと信じて
他の可能性を全てスルーするということは
成長の放棄を意味します。
人の話を聴けなくなった時点でおしまいなのです。


相手の話(アドバイス)を聴いて、
それを採用するかしないかは別の話です。
でも、まずは聴かなければなりません。


自分と異なる考え方ならば
「いや、でも自分はこうしたいんだ」ではなく
「どうしてそう思うんですか?」と聞かなくてはならない。
相手の主張の根底にある考え方を吸収してから、
自分の価値観とすり合わせればいいんです。


何か達成したい目的や目標がある場合、
今までの自分のやり方で本当に最善なのか、
まずは疑ってみましょう。
他にももっと良い方法があるんじゃなかろうか。
この「自己懐疑」が重要なステップです。


自分にとって「自分のやり方でやりたい」という
プライドの方が重要なのか、
目的、目標を達成することの方が重要なのか、
そこが問題です。


自己懐疑→自己否定→自己破壊→自己再構築
このサイクルを回せるようになると、
どんどん成長していけます。
結構しんどいですが、成長の近道です。


講師を含め私たちが望むのは
生徒さんたちの合格であり将来の幸せです。
それだけです。
そのためには耳の痛い話であっても
「これは違う。こう直そう。」と指摘しなくてなりません。
伝え方は気をつけますが、それを聞き入れるかどうかです。


指摘してもらえることのありがたみを忘れたら、
どこに行っても誰にも相手にされなくなるし、
良い情報が入って来なくなります。
「だったら自分の好きなようにしなよ」と言われて
放っておかれます。
相手にとってこちらがどうなろうと
究極的にはどうでもいいことだからです。
でも、それだけは絶対に避けましょう。


良い意味で、自分を信じてはいけません。
常に疑い、最善の道を模索し続けることが
成長には大切なことなのです。


2014年11月1日土曜日

財務省と文科省のどんぐり抗争

小中教員1万4000人削減求める 財政制度審
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2804D_Y3A021C1CR8000/


本日このようなニュースが報道されました。
35人学級か40人学級か。
教員削減か教員増員か。


この議論はおそらく平行線を辿ることになります。
問題の焦点がずれているからです。


1つの見方としては「経費」か「教育の質」かと言った議論です。
同じ問題の別々の側面を指摘し合っても、
目的が違うのでかみ合いません。


ニュースなどで公開されている情報だけで
両者の言い分を審議するのは不可能ですが、
データを集計して教員の増減を検討する感覚が
私たち現場の人間とかけ離れている気がします。


そもそも文科省の言い分も意味不明です。
教育の質は少人数学級で保証されるものでもないからです。


事実『3年B組 金八先生』でも
30人学級でいじめの描写もありました。
その後25人学級になりましたが、
問題は山積み状態。
教育の質が向上したとは思えないものでした。
もちろん作り話なので鵜呑みにするわけにはいきませんが。


つまり、教育の質は学級の人数ではないということです。


それに、財務省はいわば国の会計役。
その彼らが教育の質を犠牲にしてでも
経費削減を叫ぶということは、
必要な財源確保が追い付いていないから。
国の財布がかなり厳しいことを意味しています。


勿論、1学級の生徒数が40人と25人とでは
手の届き方が全く違ってくるでしょうが、
本質的な解決にはならないと思います。
本当の問題はバランスの悪さだからです。


食糧問題にしてもそうですが、
地球全体の総量ではちゃんと足りているのに、
なくていいところに余計にあって、あるべきところにないから
困る人が出てきて問題になる。
学校の統廃合で学級の生徒数がフラットになれば
教員を増やす必要もないわけです。


それに、現行の教育システムがすでに
社会的ニーズに適合していない状態で
教員を増やしても問題は悪化するだけ。
文科省はまず教育システムの見直しを
優先して進めるべきでしょう。


日本教育でどう子どもたちを育てるのかの
明確なビジョンもなく、
本当の問題はどこにあるのかも明確にしないままでは
「教育の質の向上」という正義も単なるワガママです。



経費の削減も重要課題。
教育の質の向上も重要課題。
となれば、双方を両立させるようなジンテーゼが
求められているということ。
財務省の言い分も、文科省の言い分も
双方間違っていないのだから、
どちらか一方!二者択一!みたいな話し合いをしてないで、
より建設的な話し合いを進めていただけたらと願います。




2014年10月29日水曜日

努力をしていない人間が多すぎる


今日は色々不愉快な思いを爆発させています。
読まれた際の不快感に関しては自己責任でお願いします。


本当に昨日からむかついてます。
努力しない人が多すぎる。
そのくせ偉そうに持論を振りかざす。
クオリティが違うと意見が相容れないから
こっちが諦めて引くしかないのだが、
努力もせんくせに文句言うのは不愉快極まりない。


例えば、昨日はFBのとある記事に不愉快になりました。
考えてない奴が多すぎると言うのです。
内容は男女格差の先日のランキング記事をベースに
日本は女性に優しくないよねトークを
繰り広げていたわけですが、
そもそもその人自身が感情論のオンパレード。
そのくせ「自分は考えている」と
思い込んでいるから始末が悪い。


数度コメントを残しましたが、
自分の稚拙さに全く気付く様子がない。
バカらしくてやめました。


こういう人結構多いんですよね。
自分は感情的に情報に反応しているだけなのに、
「考えを述べている」と思い込んでいるんです。
こういう輩はジェンダー論や原発論争など
政治批判者に多くいるパターンです。
何も知らんくせに目の前の事象に反応して
自分の立場から「だから政府が悪い、日本が悪い」と
偉そうにのたまうわけです。


こういう人には「まずは勉強しろ」と言いたい。


最近「学歴と能力は関係ない」的な議論が流行しています。
勉強のことを何も分かってないので、
成績悪いのに稼げている人間を挙げて
こういう理論を繰り広げているのです。


待て。落ち着け、と。


日本の労働人口を6000万人として、
そのうちの0.1%でも6万人いるわけです。
その6万人を持ってきて
「ほら、能力と学歴って関係ないじゃん」って言う。


数値は適当です。
実際何%いるかは知りません。
でも、やってることは同じでしょ。
そりゃあ、そういう人だけ集めればそうでしょうよ、と。


人の心理には楽して稼ぎたいっていうのがあるから、
そりゃあ惹かれますよね。
そうあってほしいと思う。
そうすれば自分も救われるし
自分でも今から頑張ればと思うかも知れません。
そういうんなら良いですが、
楽して成長なんてできるわけないですからね。



でも、そういう流れを受けてか、
勉強の目的を見失って学力低下に走る傾向にあるようです。


もっと言えば、知識偏重の勉強事情を受けて
これからは答えのない問いに答えられる力を
という流れになっています。
SSH、SGHとかがそれです。
スーパー・サイエンス・ハイスクール、
スーパー・グローバル・ハイスクールです。


でも、ちょっと待て、考えてくれ。


「考える」ってどういうことですか?
「思う」とは全然違うんですよ?
その違いをしっかり認識して欲しい。


読書感想文と国語の入試問題は違う。
小説ばっかり読んでても国語が解けるようにならないように、
創造力は「豊富な知識」が前提なんです。
なのに、答えのある問題にすら取り組めない子どもたちが
答えのある問題にどう取り組めるって言うのでしょうか。
頭の中に情報がないままでは
考えるという作業は不可能です。
考えようがない。


さっきのトンチンカンと同じです。
自分は感情論にまみれた主観を主張しておいて
「もっと皆考えろよ」と批難する。
お前がまず考えてモノ言えってことでしょ。
それと一緒で、頭に知識もないうちから
考えるなんてできないんです。


考えるとは論理ですから、
相手の情報を正確に読解し、
その読みとった情報に対して
自分の頭の中にある膨大な情報をベースに
必要な条件に応じて繋ぎ合わせて
論理的にアウトプットするのが「考える」なんです。


何をどう算出して出したか分からないような
「男女格差ランキング 日本104位」を素材に
感情論をまくしたてておいて
「もっと皆考えろ」はない。
でも、そんなトンチンカンな教育を目指す学校が
今増えているのです。
残念この上ない。


10万、20万を高いと思う人間は、
100万のモノが50万で売られていても高いと言う。
人がそれを40万で買ってきても
「そんな高いもの買って!」と非難する。


努力しない人間には
人の努力が見えないのです。
努力した人間しか
人がどれだけ努力してんのか気付けません。
だから平気で批難できるんです。


私の周りにはありがたいことに
クオリティの高い人間が多いので
本当に日々勉強させていただいてます。


でも一方で、FBとかで偉そうに世相批難し
無責任な非論理的な発言を目にしたり、
何かにつけて「現実は厳しい」みたいな発言をされたり、
やり取りの中で自分の努力を
平気でないがしろにされたりとかすると、
ふざけんなと思うわけです。


現実は厳しい??
お前の現実は厳しいだろうが、
俺の現実は楽しいんだよ、と。
お前の現実が厳しいのは
厳しい現実ばかり気にするお前の責任だろ、と。


こっちがどんだけ頑張ってそれをやったのか。
それも知らずに批難を平気でする。


努力と頑張るも違うけども、
耐えると頑張るも違うけども、
思うと考えるが違うように、
そういうものの違いを意識して過ごしてる人って
一体どれだけいるんだろうと思います。


自分はすごいんだと言いたいわけではないけど、
それなりに自己研磨を続ける自分としては
努力もしない人に理解されずに会話が成り立たないとか
マジでやめてほしいんです。


でも、こっちは相手に合わせるつもりはないので、
もうここまで来たら徹底的に自己研磨して
圧倒してやろうと思うわけです。
どうせこの先ハイクオリティな人間だけが
生き残る時代になっていくわけですから、
同じハイクオリティな人間についていけるよう
自分ももっともっと努力してやろうと思うのです。


脈絡のない不愉快な文章にお付き合いいただき
ありがとうございました。


2014年10月27日月曜日

「40人学級に戻す」への意見


35人学級を40人に戻すよう財務省要望の報道に反対意見続出「データ比較できるのか」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/10/22/classes-size-with-35-students_n_6032044.html


先日の報道で上記のようなものがありました。
財務省の調べで、
40人学級を35人にしても効果がないようだから、
学級の生徒数を40人に戻せというものです。
そこに「それはおかしい!」という意見が相次いでいるらしいと。


まず、把握しておかなければならないのは、
財務省がやりたいのは教育現場の改革ではなく
公立学校に投下している経費の削減です。
教育現場の状況改善を考えているわけではないのです。


つまり、そういう相手に対して
「むしろ30人学級、25人学級にした方が良いだろ!」
という反対意見を言うのは
暖簾に腕押し状態と言えます。


実際、少人数制の方が状況が改善されるに決まっています。
それこそ経費が潤沢で何でもできるなら
少人数学級への舵切りは容易でしょう。


しかし今の日本の財務状況があまりに芳しくなく、
そこにおいて特に少子化傾向にある教育産業は
経費を削りやすいと言えます。
データが集まりやすいからです。


そこで削った分はおそらく
社会保障費に回されることになるでしょう。
それは必然です。
今後最も国の予算を圧迫するのは
高齢者を支えるための社会保障費だからです。


ただ、40人学級に戻す前に財務省は
ある種の打開案を出していました。
要は「40人学級に戻さずに経費を削る方法」です。


それが先日「機械的に」試算した学校統合の案でした。


つまり、現状どう考えても金がない。
35人学級にしたところで状況は改善されなかった。
じゃあ、40人学級に戻すか
学校の統廃合で標準の状態にするか
どちらの策を講じて下さい、
ということだったのです。


学校の統廃合を早急に調整することは不可能です。
物理的にも感情的にもできません。
だから即効性のある経費削減案として
40人学級への揺り戻しが選択されたわけです。


今の政府は完全に思考停止に陥っています。
金がない「火の車」に
人口動態の悪化が重くのしかかります。
色々手を講じても、
どうしても「改善」よりも「節約」目線になってしまう。


これからの日本は一体どこに向かうのでしょうか。


2014年10月23日木曜日

教育現場での人件費削減方針


本日こういったニュースが流れました。



「先生1.8万人減らせる」 財務省が「機械的に」試算

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141023-00000013-asahi-pol


確かに、過疎地や離島、田舎の方になると、
生徒数も数人~数十人規模の学校が存在しますし、
そういった学校にも先生が必要です。
こういった状況はとても非効率なものだと感じていました。


学校だけではなく御高齢になられた方で
自分の住み慣れた場所からなかなか動けず、
山村で孤立気味になったり、
辺鄙な場所に取り残されるケースがあります。


こういった場所でも人が住んでいる以上、
インフラを気にしなければなりませんが、
完全に採算が合わないわけです。


今回のケースは学校ということで、
教員の数のバランスの問題ですが、
そもそも同級生が数えるほどしかいない環境で
子どもたちが育つということ自体考えるべき問題です。


さて、今回の財務省の計算はあくまで機械的な算出ですが、
例えば公立小学校の教師の平均年収を450万、
公立中学校の教師の平均年収を550万とします。
全国の公立小学校の教員数は30662人、
中学校の教員数は14891人(共に平成24年度)で
約2:1の比率です。
(→参考http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/toukei/24gakkoucho/gaiyoushouchuu.pdf


そこで、削減数の比率も同じく2:1で計算すると
18000人のうち12000人が小学校教員、
6000人が中学校教員なので
450万円×12000人+550万円×6000人=870億円/年
の人件費削減に繋がります。


勿論、これだけの教員を減らせるということは、
職員数の削減や統廃合で使わなくなった校舎の
メンテナンス費や光熱費等も減らせるということなので、
年間1000億円以上の経費を削減できることになります。


実際これだけの削減計画で
現場の教育環境を維持できるかという点ですが、
先に挙げた過疎地や辺鄙な場所にある学校の子どもたちを
理想的な形で統合できれば、
「機械的な」算出データ以上の結果が出せるかと思います。


学校は言わば社会の縮図です。
人数が多い方が人間関係の多様性が生まれます。
あとは学校というシステム自体が
現代の価値観にマッチしてくれば、
大いに教育環境は改善されるはずです。


ただ、現実はそこまでスンナリいきません。
だからこそ「機械的」という「」付きの表現なのでしょう。
近くにある学校でも偏差値レベルが違えば
生徒の質も違うでしょう。


ヤンチャな学生が集まる学校と
進学校的な文化が融合することは非現実的です。
私が校長なら避けたい選択肢です。


もちろん年間1000億円の削減分を
統合した学校ベースに環境整備費として活用できれば、
「全教室にエアコン完備」も実現できるかも知れません。


ポテンシャルが大きい分、
どうしても実現に対するハードルが高くなる。
特に教育分野であればなおさら。
この教員削減案がどう進むかが
気になるところですね。