
『全ての事象には何らかの理由があります。その原理原則を押さえることのできる人が、さらに困難な応用編に挑めるのです。表面的に判断できることなど、世界には何一つないのです。』
山元賢治先日のブログで「現象は因果関係から離れてそれ単独では存在し得ない」という話をしました。この話の視点はいわば真上から眺めていた感じです。今日はその話を視点を横からにして捉え直してみようと思います。因果関係と言うからにはそこにはいくつもの単独事象が関連付け合いながら存在しているようなイメージがあります。
しかし、その一つ一つの単独事象は、理科で習った地層のように何段もの階層を持っていて、上から上から積み重なってできたという感じになっています。
その階層の最下層、つまり土台になっている部分が「原理原則」と呼ばれるものです。勉強という事象も同じです。その事象の最下層には「勉強の原理原則」と言うべき層があります。その上に標準編や応用編が積み重なっているのです。ただ、その原理原則を教えてくれる場所が現状ほとんどないというのが日本の教育業界、学習塾業界を蝕んでいます。大手にも応用編しかありません。補習塾には標準編しかない。つまり表面的かつ応用的な方法論、
(上の写真で言えば「木」の部分ですね)標準的な方法論(上の写真で言う「草」)
というものしかないということなのです。一つは、勉強に関する体型的な研究が為されてこなかったという歴史的な背景もあるでしょう。勉強が得意な者たちは教育界には残らないという現実も関係あります。例えば東大出身の先生が熊本にいる、という事象が多々あります。東大まで行ったのに地元に帰ってくるというのは何か理由がないと不自然です。ましてや九州・熊本と言えば、自分で言うのもなんですが田舎の部類です。失礼承知で言えば、あまりポジティブではないことが理由で戻ってくることになってしまった、と考える方が真実に近いのではないでしょうか。
かく言う私も関東におり千葉大学でしたが、今は熊本で塾を立ち上げ活動しています。2011年に起きた東日本大震災をきっかけに余震が怖いと逃げ帰ってきた類です。あまりポジティブとは言えませんよね(汗)さて、話が随分逸れましたが、勉強に関する原理原則を知っている者がいないという今の教育界の問題に本格的に取り組んでいこうという動きは今のところ皆無です。センター試験の廃止やTOEFLの導入、秋入学への移行や短期留学補助金制度の実施など安部政権も下村文科相下で大学改革を進め始めていますが、これらだって結局は表面的な応用編の変革に過ぎません。原理原則を知らない多くの子どもたちは大いに翻弄されることでしょう。こんな表面的な応用編の変革を繰り返しても本質が変わらない以上伸び悩むだけです。それこそ外資系コンサル業界のUP...