2013年10月12日土曜日

私を、ではなく、自分の運命を信じよ


『能力が高い者は、能力の劣る者と比べれば、幸福になるためにより多くのものを必要とするし、そのためにおそらく、より大きな苦しみを甘受する場合も多くなる。しかし、そのような不利な条件にも関わらず、高い能力の者が低級だと思っている存在に身を落とそうなどとは本心から望むことはありえない。』
ジョン・スチュワート・ミル

勉強しない者は、
自分がどれだけものを知らないのかに気づかないし、
分からない。
新しい知識が入って来ないので、
時代が動いていることは分かっても、
どう変わっているのかも、
どう対処していいのかも分からない。


自分の数少ない知識や、
偏見に満ちた価値観だけに依拠するしかないし、
勉強を続ける者を「自分とは違う」と疎んじさえする。
そして益々取り残される。
そしてそのことに気付かない。
そういう自分を正当化しさえする。


勉強を続ける者は、
自分がいかにものを知らないかを知っている。
ソクラテスの言う「無知の知」は、
別に誰もが気付けるほどの自明の理であるが、
それも勉強する者だけが気付けるという条件付きである。

学歴が最近軽んじられているが、
それはようやく「得点力」と「学力」が全く異なるものだと
周知されてきたからであり、
これまでも学歴に依らず名を馳せる者は数多く存在した。
人はそれを「天才」とか「才能」とか言う言葉で片付けてきたが、
実はそこに本質があったのだ。
「得点力」と「学力」は違うという本質が。

私がここで言う勉強とは
得点力に関する主要5教科のことではない
この点も大いに混乱を来たしてきた原因であるが、
学力に関する「適切に努力できる力」を指す。
そう、人が「勉強」と言う言葉で表現してきたことの中には、
違う意味が2つも3つも含まれていたのだ。
それが英単語のように文脈が変わったときに
意味を変えて解釈されてきたはずなのに、
いつの間にか混同され、
子どもたちに曖昧な形で伝わり、
ついには教育関係者まで蝕んでしまったのである。
言葉とはかくも恐ろしい誤解を生む例であろう。

とにかく、
学ばない者は残念ながら取り残されて然るべきで、
大人である私たちの役割は、
そういった「気付かないうちに学ばぬ者に成り下がってしまった」
という被害者を作らぬことである。
学ばない子どもは結果であり、
原因は必ず環境にある。
そして、その環境を作ったのは大人なのだ。

学ばぬ者は成功などしないし、
誰も成功や幸福を与えようとも思わない。
学ばぬ者に取り囲まれて
傷をなめ合うだけになる。
不平、不満をののしり合い、
いつも何かに物足りなさを感じ、
でも群れられるのは同じく学ばぬ者だけだから
出口を見つけられぬまま時間が過ぎる。


考えるだけでぞっとする生き方だ。
たった一度の人生を
こんな風に生きたくはないだろう。
だから学ぶのだ。
勉強というより学び。


本質を見失わなければ
必ずキミは欲しい未来に辿りつける。
私を信じろという話ではない。
そういうものなのだ。
学ぶ者を裏切るのは人くらいなもので
運命はキミを裏切ったりはしない。


だからこそ、勉強を乗り越える価値はあるのだ。

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