2013年10月22日火曜日

「部分情報」と「最高の決断」の関係


『私たちは、「部分情報」の世界で生きています。どんなに博学で立派な肩書きを持っている人も、宇宙のすべてを知っているわけではありません。そのときそのときで、自分の手元にある情報などをもとに、ベストな選択をしたはずなのです。そのときベストの選択をしたのなら、あとで悩む理由はありません。すべての選択に失敗はない。わたしたちは、いつも正しい選択しかしていないのです。』
苫米地英人

「正しい」という概念について話しましょう。
この言葉ほど私たちを迷わせ
翻弄する言葉はありません。
何せ「自分を正しいと思うこと」自体が過ちなのですから。


上記で苫米地氏が言われているように
私たちは常に「部分情報」しか持ち合わせていません。
全てを知り尽くしている人なんていないのです。
なのに実に多くの人が
「自分は正しい」というスタンスで話をしている。
そんなことあり得ないのにです。


仮に全てを知り尽くした神が現れたとしましょう。
そしてその神がある決断を下します。
さて、私たちはその「正しい決断」を
「正しい」と思えるでしょうか。


答えは「ノー」です。
なぜなら私たちは「部分情報」しか持っていないので
その決断の正否を考えることすら
できないはずだからです。


では苫米地氏の使う「正しい選択」とは何かというと
それは「最適な解答 the best answer」という意味合いです。
精度が最も高い解答を指しています。


キミたちがテストを課される時、
そこには選択肢であろうが記述問題であろうが
必ず唯一の「正解 the correct answer/ the right answer」
があります。
それを答えられれば点数ゲットです。


しかし人生という複雑怪奇な難題においては
答えがないという自体が往々にして起こります。
そこには選択肢すら全貌が明らかにされていません。
キミの持っている「部分情報」が
映し出せる範囲の選択肢しか見ることはできないのです。


つまり「部分情報」が多くなればなるほど
選べる選択肢が増えて
決断の精度が上がるということになります。


勿論、その選択肢のいずれかを組み合わせて
さらに精度の高い選択肢を自ら生み出すこともできます。


結局は自分の手持ちの「部分情報」を頼りにして
決断を下すしかないわけですから、
それ以上のことができないという前提を考えれば
その時悩んで出した結論が
「最善の解 the best answer」だということになるのです。


ということは、そのthe best answer は
その時に出せる最高の決断だと言えますので、
その決断自体をthe correct / right answer だと
みなすことができると苫米地氏は言っているのです。


なんだか複雑ですが、
「その時に出せる最高の結論が
間違っているわけはない」
ということだと思って下さい。


そうやって、問題にぶち当たって
数ある選択肢の中から悩んで出した答えを
「自分の判断は正しかったんだ」と思うことで、
人は自信と勇気を持って前に進んでいけます。


ただし、「高くない」と「安い」が異なる概念であるように、
「間違っていない」と「正しい」という概念もまた、
全く異なるものであるという認識は
決して無視してはなりません。


correct はもともと「訂正、修正、欠点の排除」
というニュアンスであり、
right は「権利」という名詞的な意味もあります。
「唯一の正しい答え」というニュアンスとは違って
「欠点を排除した時の答え」
「答えとしての権利を持つもの」
という感覚です。


つまり「the correct / right answer」を「正解」と訳しているのは
日本語の勝手であり、
ニュアンスが同じかどうかは全然別の話なのです。
この発想に気付きにくいのも
日本の英語教育に潜む弊害の一つでしょう。


こうやって、
どこかに明確な謙虚さを持ち合わせていなければ、
知らず知らずのうちに人の価値観を否定したり、
自分の考え方や思考を「普通」だと思い込む
過ちを犯してしまうでしょう。
それらは全て「自分は正しい」という誤解から生じます。


私たちは「正しく」はなれません。
「最善」でしかいられないのです。

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