2015年5月2日土曜日

「考える力」とは何か

最近の教育界のトレンドは
「考える力」の育成です。


これまでの暗記偏重への反発から
まーた極端な発想に揺れ動いています。
ゆとり教育の時と同じ失敗の臭いが
ぷんぷんしてきますよね。


そもそも、なぜ「ゆとり教育」が失敗したのか。


それは定義を明確にしなかったからです。
「ゆとり」とは何か。
これが仕掛ける方も明確ではなかった気がします。


さらに言えば、
ゆとりはあくまで自ら作りだしてこそ
価値があるという本質を見失っていました。


人から与えられた「ゆとり」など
恐くて触れません。


自由な時間が増えたのはどちらも同じですが、
もともと勉強嫌いな子たちは遊ぶ時間が増え、
もともと勉強できる組はさらに勉強した、
という結果になりました。


そして「ゆとり」という言葉を巡って
不毛な論争が繰り広げられたことは
皆さんの知る限りです。


さて、では今回の「考える力」ですが、
果たしてどこまで明確な定義がされているのでしょうか。


個人的には
「思う」と「考える」の違いすら
多くの人には認識されていないように感じます。


「思う」と「考える」の大きな違いは
感情論と理論という点で説明できます。


「思う」という情報処理は
特別脳に障害をお持ちでいらっしゃる方以外は
誰もが普通にできることです。


リンゴを食べて「おいしい」、
子犬を見て「可愛い」、
アクション映画を観て「スゴイ」、
鉄を触って「固い」、
渓谷に行って小川の水に触れて「冷たい」。


こういったことは誰もが自然発生的に感じられることです。
そこに理屈は存在せず、
価値観を基準にした一瞬の価値判断が
行われています。


これが感情論です。


でも「考える」という情報処理は少し勝手が違います。
論理的な思考が差し挟まるのです。


例えば分かりやすい例でいくと
原発再稼働か脱原発かという議論。


放射能であれだけ大気や土壌が汚染され
人命が危険にさらされたんだ。
当然脱原発だろう!
という意見もあるのですが、
ここだけ切り取ると感情論になります。


ここに他の電力供給状況、
火力だったり水力、風力、潮力、
それから海外からの化石燃料輸入を照らして
総合的なあらゆるコストを検討すると、
現時点でいきなり原発全てを停止させると
電力供給が持たないぞ!
と考えるのが論理的思考ということになります。


かなり説明がざっくりですが、
要するに「考える」ためには「情報」が要るのです。


厳密に言えば、
感情論はどこまでいっても残るのですが、
そこに客観的データがどこまであるかで
論理的な精度が比較されるわけです。


さらに、もう少し踏み込んで考えると
「考える」という一連の情報処理には


①情報
②発想


の2つの要素があります。
①の情報は良いとして、
②の「発想」とは「情報の繋げ方」を意味します。


同じ情報量の2人が
同じ結論を導き出すかと言われたら、
それは分かりません。


そもそも双方に別々の人生を歩んできた以上、
価値観が違います。


価値観とはそれまでの人生の過程で形成してきた情報群と
それに伴う心理的反応性、人格の優先順位などの総合で、
これ自体は簡単には変えられない
個有値(個有関数)みたいなものです。


この双方の別々のプログラムに投げ込まれた情報は
おそらく全く異なる情報処理を受けて
何かしらの結論に辿り着くわけですから、
全く同じものにはならないでしょう。


ただ、確かに言えるのは、
この思考回路が作り込まれたものでないと
十分に機能しないということです。
すぐに感情回路に落とされてしまいます。


脳は比較的怠け者なので、
思考に慣れていないとすぐに回路を回せませんが、
この「慣れ」をどう身に付けるかに
教育をかましていこうというのが
おそらくですが、
「考える力」の議論になっているのではないでしょうか。


もし、そういうこともなしに、
暗記だけじゃダメだから考える力も!
という流れになっているのなら、
この人たちに「考える力」を教える資格はありません。
自分たちが考えていないのですから当然です。


それに、小学生や中学生に採用するにしても、
彼らに十分な情報がインプットされる前提がないと
エモーショナル・サーキット(感情回路)ばかり
グルグル回すことになりますから、
思考力の養成に関しては逆効果になるでしょう。


このように「考える力」の育成には
相当な下準備が必要なのですが、
そういうことを考えて下さっている方々が
どれくらいいるのか疑問です。
というか大いに心配。


子どもたちの将来のためにも、
私たち大人の「考える力」が
今試されています。


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