2015年9月9日水曜日

人間としてのアイデンティティを超える準備を

昨夜『魔女の宅急便』を観ました。
この歳になると子どもの頃とは別の色んなことを考えます。


キキは途中魔法が使えなくなってしまいますよね。
女の子が13歳で独り、見知らぬ街に修行に出てきて、
自分の最も大事な、そして唯一のアイデンティティを失ってしまいます。
あの時の彼女の不安は想像に難しくない。


でも、今の人類もまた、同じ危機にさらされています。
シンギュラリティの到来です。


2045年には、
全人類の知能をコンピュータが超えてしまう
と言われていますが、
おそらくそんな遅くないと思います。
コンピュータが人類の知能を超えたとき、
人類は初めてアイデンティティを失う事になると思うんです。


創造力は人類だけの特権だと言われていますが、
創造力とは情報の統合力の一種なので、
IQ4000を超えるコンピュータの範疇内だと私は踏んでいます。
とするならば、本当に人類としての存在意義とは一体何なのか。
もっと言えば、私たち一人ひとりが、
自分であることの存在理由をどこに持てるかが重要なのだと思います。


ただ、キキの場合はトンボの命を救うという
絶対命題が目の前に降って湧いたので、
半強制的に魔法を使わざるを得ない状況になりました。
結果スランプを自身の力で乗り越えました。
それと同じ事が、私たちにも起こると思うわけです。
しかし、そこを乗り越えるための準備をしておく必要があります。


それが今受けるべき教育です。


何か途方もない壁に行く手を阻まれたとき、
そこで馬鹿力を発揮しようと思うか、
戦うよりも他の誰かの助け待つ事を選ぶのかは、
今どんな教育を受けるかに因ります。
また、前者を選ぼうとしても、
実力のMAXが問題を乗り越えられるだけの
ポテンシャル以上の水準を満たしていなければならない。


何も深く考えることなく、
学校の成績を良くしましょう、
○○大学に合格しましょう、
偏差値を10上げましょうなんていう
不毛な勉強を何年続けても、全くの無駄です。
文部科学省の改革を待っていても100%手遅れです。
5教科7科目の知識を一生懸命身に付けても
意味がないんだということに、
多くの人は気付いているのに、
それでも今までのようにひたすら知識暗記に邁進する子どもたちの姿は、
本当に恐いものがあります。
それを後押しする親も、
そういった親に迎合する教育業界も同じです。
知識が頭から消えたとき、
一体何が残ると言うのでしょうか。


だから考えなくてはならないのです。
自分の頭で「なぜ勉強するのか」「何を勉強から得るのか」
そういった明確な問題意識を持たなくてはいけません。
どうやったら成績が伸びるのか、
そんな低レベルな話ではない。
どう勉強に取り組めば満足度の高い人生を送れるのか、
それを考えなくてはならないのです。


私は、いつか消えてしまう知識というもののために
人生を投資することがどうしても納得いきませんでした。
きっと他に私が身につけるべきものがあるから、
国は私に勉強させようとするのだと考えました。
その答えに行き着くまでには何年も掛かったけれど、
あそこで私の人生は決まったのです。


だから、是非あなたにもそのことを考えてほしいのです。
いつか必ず私たちは自身のアイデンティティを喪失するような危機を迎えます。
その時のために今から必死に考えて生きましょう。
今しかそれはできません。
昨日までのことなんかどうでもいいのです。
今日、今が大事です。


数十年後の将来、
時計台に衝突しガス漏れをしていく飛行船から落ちかけているのは、
誰かではなく、あなたなのかも知れないのですから。

2015年8月28日金曜日

沖縄という特殊な空間

先日沖縄に行った際、
勿論歴史や文化などを調べていました。
でも実際に肌で感じると、
その重みはまた違います。


ほんの150年前まで、
沖縄は琉球王国という独立国でした。
沖縄の歴史は12、3世紀頃のグスク時代(群雄割拠の時代)から、
その後期には三山時代(三強の時代)に入り、
最終的には1429年に尚巴志が統一王国を成すという流れです。


実はグスク時代から、
各豪族が中国と関係を築く動きがあり、
それが琉球王国にも受け継がれて、
冊封関係を持っていました。
中国に朝貢する代わりに称号をもらい、
琉球王国の権力者であることを認めてもらうという関係です。


当時の中国は生産力が豊富であり余裕があったため、
君臣関係にある国の内政には干渉しないという友好的な支配体制でした。
琉球王国はなんの不満もなく中国と友好関係を築いていたわけです。


そこに1609年に薩摩が侵攻してきます。
海洋国家として栄えていた琉球王国の
貿易力を使って儲けようというわけです。
薩摩支配から琉球王国は徐々に日本という国に蹂躙されていきます。


最終的に、中国と日本からの二重支配体制から、
完全に日本の属国(要は植民地化)になるのが1879年です。
廃藩置県の煽りで、鹿児島県の一部とされていたものが、
改めて沖縄県として独立を認められたのでした。


1945年4月、
沖縄は日本における第二次世界大戦において
最も凄惨な戦場となってしまいます。
「沖縄戦にはあらゆる残酷性を投入した」と
GHQが表現するほどの戦争で、
本島の9割が焼け野原になり、
民間人含め20万人の方々が亡くなられました。
そのときから27年間、
沖縄はアメリカの占領下に置かれることになります。


現地に行って感じたのは、
本当に沖縄という地が独特な雰囲気だということです。
中国をはじめ東アジアの影響を大きく受けながら、
うん、ここは日本だな!という在り方であり、
でもしっかりとアメリカ軍基地が幅を利かせている。
首里城に行けば中国の牌楼を模した守礼門があり、
言葉も独特、
普天間基地や嘉手納基地の住所はアメリカで、
A&Wをはじめアメリカ文化が多く見て取れる土地柄。
アメリカ式の住宅も広がっています。


今現在、アメリカが本島の24%を基地として使用しており、
極東最大の空軍基地と、
世界一危ない海兵隊の普天間基地が存在しています。
そのすぐ横では、南シナ海で中国が傍若無人な行為を続け、
尖閣諸島はじめ末は沖縄自体も領有しようと狙っています。


8月30日に国会前で大規模な集会が開かれるそうです。
勿論安保法案法制化反対の集会です。
戦後70年目の節目に安全保障関連法案が
大バッシングを受ける今、
安倍内閣は何かを焦っている。
戦争法案反対の声も大きく、
その声の意味するところを沖縄で改めて噛み締めました。


ただ、難しいのは、戦争をしたくないという思いと、
このタイミングだからこそ安全保障について
真剣に考えねばならないという思いが、
どうしても錯綜してしまうということ。
日本がこれからの世界で十分なプレゼンスを発揮し続けていくためには、
一体何が必要なのか。
理想と現実をどうバランスするか、
そもそもバランスできるだけの力が今の日本にあるのか、
今後もバランスしていけるだけのポテンシャルがあるのか。


日本にはなかなかないオレンジ色の夜景を見ながら、
沖縄に確かにあるアメリカを感じました。
守礼門をくぐりながら、
かつての中国をはじめとした東アジアとの関係の深さを感じました。
ただ、私たちが護るべきモノは何なのか、
私たちが戦うべき相手は誰なのか、
私たちが持つべき“戦力”とは何なのか、
まだ明確な答えは出ていません。
まずは我が身、一身の独立です。


今回の沖縄旅行で得たモノは貴重。
それを胸にもう少し一身独立の努力を続けて、
自分なりの答えを模索したいと思います。

2015年8月27日木曜日

考える力が発動する条件

ふと考えた事です。
考える力はそもそもどこから湧いてくるのか。


考える力は無からは発動しません。
必ず発動するには原因があります。
ある条件をクリアすれば動き出すということです。


腹式呼吸を身につけるときと同じで、
最初は意識的に発動することを繰り返しているうちに癖になります。
自然発生的に回り始める自動思考システムは、
実は練習を繰り返すことでしか身に付かないのです。


ただ、そのきっかけがハッキリすれば、
意図的に考える力を育むことができるのではないか。
私はそう考えました。


そこで思い当たるポイントは2つ。
①親の教育
②譲れないモノ


例えば、親に考える癖がある場合、
自然と子どもにもそれを癖づける教育をします。
というか、考える癖がある親と四六時中一緒にいれば、
自然と同じ発想を持つようになるし、
親も無意識にそういう発想を子どもに求めるので、
ダブルの意味で子どもは考える力を育むことができるのです。


これはその子が「そう考えるのが当たり前」となるので、
本人が意識して練習しなくても発動するようになる条件です。


一方、自分で頑張って考える力を育もうとする場合、
そこにはあるモノがどうしても欠かせません。
それは「譲れないモノ」です。


例えば私の場合は、
人生全てを投資しようと思える目標や目的が見つかったので、
それを実現するためには考えざるを得ない状態です。
それ以前に、そもそも性格もワガママなので、
どう自分の好きなことだけをしてお金を稼ぐかと考えます。


イヤな事も我慢しなければお金は稼げない、
という発想もあるのでしょうが、
私はどうしてもその発想にはなれません。
たった一度の人生なので、
極力「やりたくないこと」には時間を割きたくないのです。
ただし、その代わりに、
自分の好きな事だけをやって生きて行くには
どうしたら良いのかを必死に考えますし、
自分のやりたいことをやり続けるための状況作りのためなら、
面倒なことも苦にせず長時間取り組むことができます。


要するに、自分の中に「絶対にこうする!」という
譲れないモノがある限り、
どうしたらその通りに生きて行く事ができるかを
考えなくてはならないのです。


大好きなゲームをやってるときは何も意識せずに戦略を考えるように、
譲れないモノがあることで自動思考システムが発動するわけです。


あとは、考えるために必要な情報を仕入れる努力を並行させながら、
常に考える力の精度を上げて行くことが求められます。
そこまで自然にできるようになるのが理想です。


これからの教育は「考える力」が重要なキーワードですが、
日本の教育制度に頼っていても、おそらく考える力は身に付かない。
だからこそ今日この話をしました。


私は勉強しろと言っているわけではありません。
考える力とは、
自分にとって勉強することが
どれだけの価値を持つのかも含めて物事と向き合うことです。
数学ができようが社会ができようが何の自慢にもなりません。
問題は「考えて勉強しているか」です。


そのことを子どもたちには是非意識して欲しいと思います。

2015年8月25日火曜日

五輪エンブレム盗用事件について

佐野氏の作品が盗用だったのでは!?
という問題が未だに解決してしないままモヤモヤしています。


実は以前同じような事件がありました。
元・モーニング娘。の安倍なつみさんが
自身のエッセー集に、
他者の作品を自分のものとして載せたというものです。
事務所が盗作があったと認めたのは、
安倍なつみの写真集「ナッチ」(ワニブックス)、
エッセー集「陽(ひか)光(り)」(竹書房)、
「ALBUM―1998‐2003 Gum Comics」(ワニブックス)の3冊の出版物と、
ラジオの作詩コーナーで「自作の詩」として紹介した詩数編でした。


ただ、この時の安倍なつみさんの謝罪が良かった点は、
正直に盗用を認めた点でした。
「いつどこで見たのかは忘れていましたが、
いつの間にか自分の中から湧いて出てきた
オリジナルのものと思い込み載せてしまいました。」


今回のエンブレムは誰がどう見ても似ています。
ただ、問題は「佐野さん自身が盗用を認めない」という点です。
その結果、他の作品の疑いまで掘り起こされてしまった。
ここまで来ると参考にした程度では済まされない作品点数。


私は今回の作品の盗用疑惑に対して、
佐野さんも同じように謝っていたら良かったと思うんです。
佐野さんだってデザイナーとして勉強したはず。
それこそ無数の作品のデザインを見てきたはずです。
もしかしたら、もう記憶になくても、
どこかで見た記憶が残っていたかも知れません。


そもそも、デザインだけではなく、
音楽だって画だって、
完全なオリジナルなど不可能な状態にあります。
もうどこかの誰かが似たものを必ずつくっているはずです。
それが偶然似ることもあるのでしょうが、
今回の作品は確実に記憶の断片を繋ぎ合わせてつくったものに違いありません。
ただ、それ自体は問題にはならないと思います。


問題が悪化したのは、
すみませんと謝って撤回しなかったこと。


ここまで酷似したデザインが、
自分の作成前に存在していたのですから、この疑惑については佐野氏が取り下げるのが筋で、
「申し訳ありません、
もう一度新しいデザインを作成しますので、
そのデザインでご判断下さい」
と言えば良かったのです。
意図してかせずか、
ここまで似ていては疑われても仕方ないからです。


今回の五輪デザインに関して、
佐野氏は五輪全体の収益の4〜5%を
報酬として受け取ることになっていたそうです。
その額200億円(推定)。
五輪エンブレムの作者というブランド、
200億円という報酬、
そのチャンスを失いたくないと思うのは人間として当然です。
ただ、しがみつくことで問題が悪化し
余計に自分を追いつめてチャンスから遠ざけていく。
もどかしい事件です。


テリー伊藤さんのおしゃっていることは最もです。
もう完全オリジナルなど誰にもつくれません。
つくれないと決めつけて作品をつくるのは
信念に反すると思われるかも知れませんが、
現実問題どこかの誰かの作品に似た部分を
持っている可能性がゼロになることは考えられません。
だから、誰にも、どんな分野の芸術家にも、
こういったリスクはあると思うのです。


今回の問題で明らかになった事情もありますし、
水面下で行われていた不正が
暴かれたことについては良かったでしょうが、
本当に今回の五輪は曰く付きですね(汗)

2015年8月21日金曜日

「違憲だから廃案にすべき」が意見として扱われない理由


今回はかなり長くなるのでブログに書きました。
こういうネタは冷静な意見交換にならないことは
FBで何度も学んでいるので、
もうFBの方では公開していませんw
特に感情的になられる方とは不毛なので争いたくないんですよね(汗)


さて、今回のネタは少し前に放送された
『ワイドなショー』というニュース評論番組での松本さんのコメントと、
それに反論するような尾木ママのオフィシャルブログの発言が
元ネタになっています。
そこに安保法案反対派のどなたかが評論をしているというものです。


ここで、このブログらしく「考えて」みようと思うわけです。
考える力をしっかり養っていきましょう。


(1)安全保障関連法案について

この安全保障関連法案の法制化に関する問題ですが、
私はほぼほぼ賛成というところです。
7割がた賛成。
というのも、賛成できる部分と、
賛成せざるを得ない部分と、
ちょっとこういうところは確かにダメじゃんというところが
混在しているからです。


そもそもこれだけ大規模な問題に対して、
「賛成!」「反対!」とか明言している時点で
思考が停止していることの証拠です。
※こういう言い方するからダメですよね(^ ^;
なぜなら、内在している要素がいくつもあるので、
本来なら「この部分は分かるけど、ここはダメ」という
グレーな意見になるはずだからです。
それを全体を以て「賛成!」「反対!」と言えてしまうのは
途中で思考を止めているからに過ぎません。


また、今回安全保障関連法案の法制化だけを見ていると
全く議論にならないことも分かります。
これは激変する国際情勢はもとより、
原発再稼働問題や少子高齢化に向かう日本の現状など、
あらゆる問題と繋がっているからです。


そして何より、
1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約と
その時同時に結んだとされる日米安全保障条約並びに
日米行政協定が根底にあることが大きな原因です。


ざっくり言えば今日本はアメリカの属国という立場です。
だから、世界唯一の被爆国である日本が
この狭い国土に原発を54基も抱え、
沖縄の普天間基地はなかなか進まないのです。


また、GHQが草案をつくった日本国憲法で
日本は戦力不保持を約束させられ、
その代わり有事の際にはアメリカが動くとした。
今後一切の戦う力を
日本に持たせてはいけないという
アメリカの取り決め故です。


しかし、平和が続いた世界情勢の中で、
アメリカ自体が弱体化してきました。
これまでは無理矢理何かと事態を混乱させて
危ない手を使いながら軍事介入などを行ってきましたが、
いよいよ軍事費を削減せねばならない状況にまで
追いつめられているようです。
そこにロシアや中国の協力体制の脅威や、
EUを含めたパワーバランスが
アメリカの危機感を煽るわけです。


日本は日本で複雑な事情を抱えています。


まずは原発問題。
東日本大震災によって原発が危険視され、
世論によって原発全てが一旦使えなくなりました。


しかし、原発なくても大丈夫じゃん!
という思いを国民が抱くようになった。


でもそれって火力発電量を増やして間に合わせたからです。
「火力だけで大丈夫ってことでしょ!?」
いやいや、火力も燃やす原料が要りますよね。
日本は99%以上をエネルギー関連燃料を
輸入に頼っている国です。
火力を増やしたということは
燃料を余計に買って燃やしたということです。
地球温暖化ストップが叫ばれている今、
日本はその逆に二酸化炭素排出量を増やしている状況です。


ちなみに原発の再稼働でピリピリしますが、
今日本の原発全部”動いて”ますよね。
ただ、発電せずにつくった電気を棄てているだけで、
まだ核分裂自体は止まってないし、
原発は現在進行形で動いているんです。


だったら、せめて電気を使いながら悩めばいいと
私は個人的に思ってしまいます。
もったいなさ過ぎる。
でも、それが再稼働反対の世論が止めているわけです。


そこに日本は少子高齢化を抱えています。
今後どんどん労働者人口が減り続け、
国力が低下していく運命にあるのです。
その逆に、高齢者を支えるための社会福祉費が
どんどん上がっていく。


現時点でも分かりますが、
国民年金制度も崩壊するでしょう。
払えるわけがないんです。
そういう不安から国民年金を払う人も減っていますし、
人為的ミスの多発で信用も落ちに落ちています。


弱体化するアメリカと日本。
脅威を増す中国とロシア。
中国なんて南シナ海まで出張ってきてますしね。
そしてギリシャ問題で揺れるEU。


日本が「待ったなしの教育改革」を始めた理由も
よく分かるはずです。


(2)「違憲だから廃案にすべき」が意見として扱われない理由

さて、題名に挙げた話を進めますが、
ここで考えなければならないことがいくつかあります。


・「違憲だから議論の余地はない」は正当か?
・違憲でないなら認めるのか?
・違憲であるという国民からの不満が分かっていて、
 どうして安倍首相は無理矢理法制化しようとしているのか
・日本は今のままでいいのか?


一つ一つ検討していきましょう。


(2−1)「違憲だから議論の余地はない」は正当か?

今の日本が直面している複雑な国際情勢の中で、
20年後も30年後も平和な日本でいるためには
今何をするべきなのだろうか、
という課題に対して、
早急に案を出さねばならない事態になっています。
そこで安全保障関連法案を法制化することを提案し、
実際に実行しているのが安倍首相サイドです。


ただ、ここで問題視されているのは、
そもそも憲法に違反しているではないか、
ということです。


確かに、本来ならば憲法改正をしてから、
法制化するべきものを、
解釈改憲という裏技を使って強引に進めている印象があります。
これはずるい。


現在自民党(と公明党)が行っている法制化への手続きに
法的な違反はありません。
憲法の解釈を変えてしまうというのはずるいとも取れますが、
実際”裏技”であって違反ではないのがポイントです。


勿論、本当にやるべきだったのは、
まず憲法の改正なわけですが、
それがすんなりいくはずありません。
日本国憲法はアメリカが草案してつくったというのもそうですが、
憲法改正に必要な条件を高くしすぎて
簡単には進まないからです。


だからこそアメリカは、
憲法改正という手間を端折る裏技を提案し、
かつアメリカ議会で公約させるという
強力な後押しまでしてみせた。
それがよく言われる強行採決に繋がるわけです。


ちなみに、あれも実は強行でも何でもありません。
正式な手続きと過半数の議席数の確保という
前提を踏まえた上での正当な手順を踏んでいます。
国民への説明責任においては確かに足りません。
しかし、どんなに話しても同じです。
「戦争反対」「徴兵制反対」としか理解していない方々を
押さえることはできないでしょう。


ちなみに採決時にプラカードをもって
必死に止めているように見せていた野党の方々も、
「賛成」票としてしっかりカウントされています。
カウント時に起立していたので当然です。
野党のあれはポーズだったと考えられます。


反対派の方の中には
「民主主義への冒涜だ」
という意見もあられるかも知れませんが、
民主主義への冒涜を口にするなら、
せめて対案を出さねば話になりません。
話を聴け!と言うなら、勿論聴くでしょう。
でも意見を持たねば聴くに聴けません。
お前の言っていることはダメだ!引っ込めろ!
という文句に真摯に耳を傾けろということなのでしょうか。
でも、自分の意見もないのに相手の意見を批判する態度は
とても民主主義に対するものではないと私は思います。
民主主義とは意見を持ち寄って闘わせて
より良い意見に磨き上げていくための
仕組みの一つだと私は思っています。
民主主義と言うなら意見出さねば。


では「廃案」は意見にならないのか。
広義で言えば、立派な意見です。
しかし今は明確な課題がある上で、
平和な日本を維持していくための意見が求められているので、
そういった前提で言えば「廃案」は意見足り得ません。


先生「我々は今こそ変わらねばならない。そのための方法を提案してくれ。」
生徒X「私はAが良いと思います!」
生徒Y「Xの意見はおかしいと思います!Aは良くないです!」
先生「A案以外に何かないか?」
生徒Y「とにかくAには反対です!」
先生「他に意見がないなら、時間がない、今はAを進めてみよう」
生徒Y「ダメです!Aには反対です!」


言わずもがなです。


さらに言えば、
憲法の専門家の”9割”が違憲と見なすということは、
専門家でも意見が分かれる余地が
憲法にはわずかだが確かにあるということです。
だから裏技が可能だったということです。


ちなみに余談になってしまいますが、
日本国憲法はGHQが作成しました。
平和の象徴と言われる第9条などは
マッカーサーが自ら入れさせた
日本弱体化計画の代名詞的なものです。


日本国憲法の草案の段階で
日本側の意見が全く入らなかったとは言いません。
しかし、マッカーサー曰く、
戦後日本における我々(GHQ)ほど、
奴隷制度を理想的に実行した者は歴史上ない、と。
それだけ日本における彼らは
好き勝手振る舞っていたということなのです。


WGIPという日本戦争犯罪者化プロジェクトも
あまりにも有名ですし、
日本の当時の研究資料等も全て没収され、
戦後教育では軍国主義を否定させ、
アメリカ文化を入れさせて、
完全に日本の精神構造を変革させました。


そんな憲法が70年手つかずのままです。
憲法が時代に合わせて変えられていない国は
日本くらいなものです。


また、日本が一人で歩けるようになったことを
”復興完了”としてサンフランシスコ講和条約を結び、
日本はやっと独立した、、、、
と日本の教科書には書いてあります。
授業でもそう習います。


でも、併せて結んだ日米安全保障条約と日米行政協定によって、
米軍はそのまま駐留することとなり、
アメリカは日本のいかなる土地をも自由に扱える権利と、
米軍に対する領事裁判権は認めないという取り決めがされました。
それが今の原発問題や普天間基地問題に繋がっています。


(2−2)違憲でないなら認めるのか?

おそらく答えはNOでしょう。
それでも反対派の方々は認めません。
戦争反対、徴兵制反対と言うはずです。


戦争にも徴兵制にも
私も勿論大反対です。
そんなことをしたいと思っている人はいません。
それはアメリカ人だって中国人だって同じです。


しかし、国防という点で上が制度化して
事実持っている国ばかりなわけです。
実際今も韓国と北朝鮮はドンパチやっているようですし。


こんな話を本で読みました。
ヒトラーとナポレオンは同じではないのか。


ナポレオンは英雄と呼ばれ、
ヒトラーは悪魔と思われていますが、
もしヒトラーがユダヤ人大虐殺をしなければ
ナポレオンと同じような存在です。
政権奪取前からカリスマ的な存在で、
国民を先導し国を勝たせ続けた。


誰も戦争は好きではないけれど、
第二次世界大戦では負けたから
今のような認識にさせられているだけで、
もしあのとき勝っていたら、
今ほど戦争反対なんて世論には
なっていなかったかも知れません。


事実、世界唯一の被爆国日本は
原子力技術を世界で初めて発見した国です。
まかり間違えば私たちが
加害者になっていたかも知れません。


意外と「勝つなら」戦争が嫌いじゃない人は多い、
とその本には書いてありました。
ちょっとドキっとしました。


松本さんはワイドなショーで「平和ボケ」と言いましたが、
それは自分も含めてそうだと思います。
私たちの目の届かないところで
人はたくさん死んでいるんです。
あなたの街でも必ず誰かが毎日死んでいる。


毎年3万人が自殺で亡くなる国です。


今日もどこかで人を殺したり、人から殺されたりしているし、
国を越えれば大人になるまで生きられない子どもの方が
多い国だってあるわけです。
食べ物も十分にない国もある。
アメリカ人や中国人には
家族と離れて異国で銃を撃っている人もいる。
帰れば泣いて喜ぶ子どもがいるのに、
それでも帰れない兵士がいる。


日本がこの70年間でほとんど大きな戦争に巻き込まれなかったのは、
勿論戦う能力を奪ったアメリカのせいでもあるかも知れませんが、
アメリカに代わりに戦ってもらって
日本はお金だけ出していつも安全なところに
隠れていられたからです。
日本のために命をかけているアメリカの人もいるんです。


戦争を肯定するというのとは違う。
でも、戦力放棄は全ての国が一斉に取り組まねば、
持たない国は虐げられて終わるんです。
守ってくれるはずのアメリカが弱まり、
今まで払えていた金も払えなくなるとしたら、
一体今の日本はどうすればいいのでしょうか。
是非反対派の方々には意見を伺いたい。


(2−3)違憲であるという国民からの不満が分かっていて、
 どうして安倍首相は無理矢理法制化しようとしているのか

誰がどう考えても、
安倍首相は今の国民の不支持は予想していたはずです。
反対されないわけがない。
大ブーイング覚悟です。
でも、それでも進めなければならない理由があったはずです。


中には、祖父・岸信介首相の悲願を実現したかったのだ、
と言う方もいます。


実際、1960年の新日米安全保障条約締結時に、
岸首相は”強行採決”を行い実行しました。
その結果安保闘争が勃発し、
国内は荒れに荒れました。


その思いを安倍首相が今引き継いで
自分こそその悲願を!
と思っている節はないとは言えません。


しかし、そんな個人的野望で
今のような振る舞いをできるでしょうか。
おそらく第二次安倍内閣は
この法制化を終えたら責任を取って
辞職、解散をすることになるでしょう。
それでも、この法制化の実現には
進めなければならない理由があったと、
私は思っています。


ジャパンハンドラーたちが指示を出し、
それを忠実に実行しているに過ぎないと言う方もいます。
それもそうだと思います。
今そこをグイグイ突っ込んでいるのが山本太郎議員です。


これは客観的に見ていて恐いな〜と思います。
山本太郎議員は、正直アホです。
言って良い事と悪い事の区別ができない人です。
国民のことを思っていることも事実でしょうが、
タブーに割って入れるのは
空気が読めないアホか、
相当に用意周到な切れ者だけです。
天皇に自分から声を掛けてしまえる無神経さからして、
完全に前者だと思います。


そしてこういう人が触れてはいけない部分に
グイグイ行くのは、
見ている人には気持ちいいかも分かりませんが、
アメリカとの間に余計な軋轢を生む危険性も
十二分にはらんでいるわけです。
つまり、国民を危険にさらす行為に
なっているかも知れないということです。


病気の親友を救おうという正義感で
たった一人の担当医を愚弄しているような存在です。
担当医が「じゃあ私は手を引きます」と言えば
命の危険にさらされるのはその親友でしょう。


話がずれましたが、
今安倍首相が無理矢理進めている背景には
いくつかの可能性があります。


・アメリカとの強力体制を維持したい(強化したい)
・アメリカと日本の思惑が一致している
・アメリカに逆らえないから仕方なく


いずれにしても、明確な後ろ盾を持たない日本が
今の平和を維持するためにアメリカを敵に回すのは
明らかに損です。


(2−4)日本は今のままでいいのか?

良いわけないですよね。
だからこそ日本も焦って「待ったなしの教育改革」なんです。
でも、これだって遅すぎます。
だから私は独自に学習サポーターとしての意見を
色々なカタチで発信しているのです。


だって、今からまだ5年先からしか始まらないんですよ。
新教育体制になってからどれだけ安定するのに時間がかかる事か。
20年は掛かると言われています。
そんなに掛かってたら、
現時点での発想でつくった教育システムは
あっという間に時代遅れです。
むしろ始まる前から時代遅れかも知れません。


少子高齢化で財源はどんどん減っていく。
原発ゼロに向けて
余計にエネルギー燃料を買い続けなければならない。
ギリシャ危機も不安。
朝鮮半島では戦争じみた動きあるし、
中国は南シナ海で好き勝手。


それこそ日本はホルムズ海峡の方から
多くの燃料を輸入している関係上、
シーレーンを確保するためにも中国の動きを牽制したい。
セキュリティダイヤモンド構想を打ち出し、
オーストラリア、インド、米ハワイとともに
海洋保護を行う旨を英語論文で安倍首相が寄稿。
その全文は「プロジェクトシンジケート」のウェブサイトに載っています。
「プロジェクトシンジケート」


こうして戦争不安を煽るようなことをたくさん書いてはきましたが、
実際他にも山のような外交問題を抱え、
処理し、誠実に取り組む事で、
世界情勢の中での日本のプレゼンスを確保しているのが
今の安倍首相の努力の成果だと思うわけです。


問題を抱えているのは日本だけではありません。
だからこそ、手に手を取って助け合うことが必要です。
その一つの在り方が安全保障問題。


日本の戦力不保持の決意は
もともと敗戦国が強いられた手かせ足かせです。
今の私たちがそのことを美しいと称するのは良いのだけれど、
時代は変化するし価値観も変化する。
今のままの「戦争は他人事」で良いのか。
日本が後方支援を要請されることもあるかも知れません。
武器や燃料、食料などの輸送の支援や、
今自衛隊が国内でしてくれていることを
海外でももっとする機会が増えるかも知れない。


でも、そういった協力の在り方も視野に入れなければならない、
という話なんだと思うのです。
世界の国々と足並みを揃えて、
手に手を取ってより良い世界を実現するには、
日本ももう少し世界平和に貢献する手段を
増やしておく事は重要な意味がある。


戦争をするための法制化ではないという意味は、
今のうちにやれる準備を全てやっておく、
その数多くある準備のうちの一つが
安全保障問題であって、
これからはアメリカだけに頼っていられる状況ではないから、
少しでもこの機会にアメリカからの独立範囲を広げておきたい、
独立をするというなら国力も必要、
でも平和のための戦力不保持は守りたい、
せめて自衛隊の自衛行動の範囲拡張というラインで
お茶を濁したい、
そういう思惑もあるかも知れません。


反対派の中には、外交という手段をもっと強化すれば
集団的自衛権など考えなくていいと言う方もいます。
しかし外交なんてもう腐るほどやっていると思うんです。
そして何より、外交カードが日本は弱い。
弱い手札で外交に出向いても、
最後は戦力不保持が弱みとなって妥協案を呑むだけ、
という展開も十分あり得るはずです。
特に中国、韓国、ロシア等は日本なんて恐くないですから。


だから戦力を持つべきという議論ではありません。
ただ、外交は回数ではありません。
持ち札の優劣が勝負を分けるものです。
弱体化を免れられない日本の外交力は
今後それほど当てにできるものでしょうか。


(3)これからの日本の平和をどう実現するか

私は個人的には民主主義において
意見を持たずに土俵に上がるのは
筋が通らないと考えています。
反対というご意見に関しては文句はありません。
しかし、違憲を理由に対案など必要ないと言うなら、
それはまた別の話です。
安全保障関連法案を法制化してはいけないと言うならば、
今のままの日本で良いのか、
今のままで良くない申されるなら、
代わりにどうしたら平和を維持できるのか、
是非ご提案いただきたい。


誰も戦争なんてしたくありません。
誰も徴兵制なんて望んじゃいない。
それは日本人だけではありません。
じゃあどうするべきなのか。
それを今日本の国民の多くが真剣に考えているのです。


人の意見を否定するのは簡単ですが、
対案を出すのは結構大変。
でも、反対という思いを具体的に平和に繋げてほしい。
そのためだったら多少の喧嘩は良いでしょう。
やりましょう。


日本の平和は私たちが守るしかありません。
世の中には多くの闇もあるけれど、
国民ができることも必ず大きな力になります。
今の日本の混乱が「雨降って地固まる」となることを祈念しまして、
この長い長いブログの閉めとさせていただきます。


もしここまで読んで下さった方がおられましたら、
本当にありがとうございました。

2015年7月27日月曜日

方法がデモしか本当にないのかを考えてほしい

この暑い中でもデモや抗議活動に参加して
声を荒げているのをニュースで観ます。
私が冷めているのかも知れませんが、
よくやるな〜と。


中には若者が立ち上がり、
アイドルグループの誰かが壇上マイクでコメントするなど、
盛り上げっていると聞きますが、
内容を聴けば都合の良い情報をだけを繋ぎ合わせた感情論で、
なんとも間の抜けた主張でした。
もうちょっと勉強してからせんと、
ちょっと恥ずかしいぞと思いました。


先日ワイドなーショーには長渕剛さんがいらっしゃって
持論を展開していましたが、
やっぱり空虚な理想論。
「皆さん勉強なさって詳しいのかも知れませんが、
 論点が違うと思うんですよね」
と始めた話は、信じていれば夢は叶う的な話でした。
でも周囲も何も言えない。


ん〜


今や若者の怒りがママに飛び火しママデモが起こっていると言います。
乳母車を押したり、小さい子の手を引きながら
デモで安倍政権への悪態をついて回るというもの。
「一人で参加する勇気はなかったけど、
 みんなと一緒で勇気が出ました」
と発言しながら、安倍さんへの集中砲火を浴びせる始末。


方や18歳から投票権を得る若者層も二分化されています。
安保法案自体を全く知らないという子もいるのです。
家で話題にすら挙らないという。


私は安保法案のニュースがきっかけで、
戦争や平和に思いを巡らす人が増えるのは良いと思うんですよね。
でも「民主主義」を盾に、
一人矢面に立って戦う安倍首相に
徒党を組んで文句を言いながら練り歩くデモという行為が、
私には民主主義から最もほど遠いイベントだと思ってしまいます。


そもそもデモをする目的って何ですか?
自分の鬱憤晴らし以上の何かなんでしょうか。
十分な説明を聴きたいのか、
もう決まってしまった案件に対して撤回してほしいのか。


まず説明をしてほしいのなら、
正式な手続きを踏んで代表者をよこすなり、
会見を要請して会見会場にカメラを設置し
聴講用の全国の会場に生中継を流して周知を図るなり、
何かしらの持っていき方があるでしょう。
少なくても、あんなに声を荒げて
反対反対!
と感情論をぶつけるのは、
人にモノを聴く態度とは言えません。


では決まった案件に撤回を求めるのか。
その場合は代案を立てるのが筋です。
勿論今回の案件は「賛成か反対か」というものなので、
もし賛成に決まった今回の案件を白紙撤回し、
反対にひっくり返すなら、
反対することによって生じるあらゆる問題に対して
どう対処するのかの代案を提示する必要があります。
そしてその対処にあたるに足る人材を出すか、
相応のリスクを共有することが前提です。


そういったことなしに、
責任だけは国会議員に押し付けて、
その決定が不服だからと反対運動するのなら、
それはアンフェアと言うものです。
デモは権利なので別に続けてもいいのでしょうが、
それでデモ参加者が求めている結果が得られるとは到底思えません。


例えば、理屈で考えれば
安倍首相が国民一人ひとりに説明して回るのはまず不可能です。
私たちも今回の出来事で戦争が起きるのではないのか、
本当に戦争を回避できるのか心配や不安があるのです。


物理的に時間的な余裕がない中で、
国の行く末を左右する案件に決着をつけなければならないという中で、
私たち国民がすべきは「情報集め」です。
一体この安全保障関連法案がどんなもので何をもたらすのか。
情報集めには正直限界があります。
何が本当に重要なことなのか。
そこまでは分からないかも知れません。


しかし、少なくても
テレビや新聞だけを見て判断をしようとするのは間違っています。
明らかに情報ソースの選択ミスで、
その歪曲された情報ではなく、
本を読むなり関係者に話を聴くなり、
加工前の情報を集めるべきです。


文部科学省の下村大臣も、
オリンピック問題で辞任のカウントダウンが始まったと言われていますが、
教育改革の中で「考える力」を主軸に添えるなら、
その見本を示してほしい。
情報集めもしないで「考える」ことなどできません。
それは単なる思い込みです。
考えるには情報が要るのです。
そしてコンサル業界でよく言われるように「garbage in, garbage out」です。
真理に近い答えは、
それなりにインプットする情報を取捨選択せねばなりません。
どこから情報を得るのかが大事なのです。


ですから、偉そうなこと言えば、
デモをする暇があったら、
安全保障に関する本を1冊でも読んだ方が、
よっぽど国のためになると思うんです。
国とは国民です。
私たち一人ひとりが国なのですから、
私たちが学ぶことがそのまま日本の増強になるのです。
だから情報を集めて考える力を身につけることが、
デモでストレス解消するよりよっぽど建設的なんです。


平和や民主主義を望むなら、
まずは自分のその牙をしまうことです。
怒りが戦争の引き金なのです。
怒りをぶつけ合う事が戦争なんです。
戦争をなくしたいと言うのに、
その「戦争をなくしたい!」という怒りを相手にぶつけていたら、
それが戦争になってることに気付かないっていう、
よく分からないことになります。


私は戦争はしたくありません。
だから怒りは怒りのまま相手にぶつけたりはしません。
その分理論武装をします。
勉強するんです。
それも戦いです。


色々長々書きましたが、
この国を守るということが、
平和であり続けるということが、
民主主義の中で生きるということが、
一体どんなことなのかを、
是非考えていきましょう。
その先に答えがあると私は思っています。

2015年7月16日木曜日

テレビと教科書の構造的共通点

今回衆院特別委員会にて議事が可決され、
衆議院本会議に持ち込まれることになりました。
衆議院の優越が原則である以上、
ここで本会議に持ち込まれれば、
ほぼ法案として可決されてしまいます。
かなり焦ったのか野党はプラカードを持参し応戦。
その頑張りも空しく採決は強行され、本会議行きが決まりました。


・・・のようにテレビでは報道されています。


「強行採決」「戦争法案」
すごいネーミングセンスです。
そして何より、反対しているはずの野党議員は
「賛成の者は起立」時にちゃっかりカウントされており、
反対パフォーマンスが露呈してしまいました。


奥の深い、かつ難しい問題を
たったの数分でお茶の間に届けないといけない
番組制作サイドの陰ながらの努力も、
結局印象作りに徹してしまい、
本当に伝えるべき物事の本質を大人の(政治的な?)
オブラートで包み隠してしまっています。


これは教科書の制作過程と同じではないでしょうか。


最近世界史を勉強していて分かるのは、
世界史の教科書があんなに薄くなるわけがない!という実感です。
ヒトラーとナチス、フランス革命、アインシュタインの人生などを調べていくと、
重要なことがどんどん出てくるのに、
世界史の教科書にはほとんど表面的な出来事の羅列と
簡単な因果関係しか書かれていません。


正直難しいと思います。
あれだけの長い長い歴史の内容を
たった3,400ページでまとめろっていうのは。
でも結局、
そうやってできた“世界史”とは一体何なのでしょうか。


私たちはきっと、
知りたいことほどテレビや新聞、教科書からは
学べない立ち位置にいるのではないでしょうか。
あらゆる方々の複雑な事情の中で、
私たちが最も欲する内容こそが
表面化する前にとっくに削ぎ落とされている。
そんなが気がしています。
だからこそ学びが必要なのでしょう。


安倍首相も認めているように、
国民への説明責任を十分果たしているとは言えないけれど、
日本は直接民主制ではありませんし、
国同士の駆け引きなどにも追いつけない部分が多分にあります。
そんな中で、逆に全てをオープンにされても重すぎるでしょう。
国民をないがしろにしていると責め立てられても、
日本が今回の法案を通すべき時期に来ているのだと、
本当に考えているのかも知れません。
私には分かりませんが、
そうであることを願います。


日本は小さく、弱っていく国です。
とても一人では立ち行かない不安を抱える国です。
その一国の首相として奮闘する一国民安倍さんを、
私は今はまだ信じたい思いです。


決断とは、実に重たいものですね。

2015年7月7日火曜日

パートランド・ラッセルとウィリアム・ジェームズ

最近の葛藤はもっぱらこの二人の考え方に根ざしています。


パートランド・ラッセルは
証明できないものには意味がないというスタンスです、
ざっくり言えば。
彼は科学者なので、
実験で証明できなければ議論の余地はない、
というのが根底にはあります。


科学の世界では実験で証明されることが
何よりも重要なことです。
仮にそれがどんなに突飛で
信じられないような仮説であっても、
それが現実に証明されてしまえば、
事実になってしまうわけです。


たとえばその良い例が光の速度の一定性でしょう。


光の速度は約秒速30キロメートル。
1秒で地球の周りを7周半する速さです。


物理的に考えれば、
仮に超人ハルクが秒速10キロメートルで
走れると仮定すれば
相対的に考えて光の速度はハルクからは
秒速20キロメートルに見えるはずなんです。


しかし、現実には
ハルクがどんなに速く走っても、
仮に光速で走ったとしても、
相対的に光は常に秒速30キロメートルで
見えてしまうというのです。


これは信じがたいことですが、
実験で証明されてしまっているので
事実と考えるしかありません。


話を戻すと、
ラッセル的に言えば、
実験で真偽を検証できないような命題は
議論する必要がないほどくだらないのですが、
でもプラグマティズム(実存主義)を
引き合いに出して考えてみると、
必ずしもそうではないんですね。


ウィリアム・ジェームズのプラグマティズムは
実存は本質に先立つというものです。
要はある人にとって有用ならば、
それがどんなに本質を欠いていたとしても、
その人には真なのだということ。


逆に言えば、どんなに本質を突いていても
その人にとって有用でなければ
それは真とは言えないということです。


この視点に立つと、
私たちの採るべき最善の策として
ラッセル・ジェームズ理論が
挙げられるでしょう。
これは私の創作です。


要するに、どっちも思考パターンとして持っておき、
状況に応じて使い分けるというものです。
当たり前と言えば当たり前ですが、
これって意外と難しいんです。
なぜなら人は主観的だから。
感情の生き物だからです。


ラッセル・ジェームズ理論を正常に機能させるには
思考を司る前頭前野を活発化し、
感情回路を封じ込める必要があります。


しかし情報を受信した時点で
私たちは試されるわけです。
その情報をちゃんと客観的に
受け取れているのかどうか。


判断材料としての情報が
主観まみれであれば、
そもそも判断以前の問題になってしまいます。


と、こうしてごちゃごちゃ考えてきましたが、
要は様々な思考パターンを
哲学や科学から得ることの意義は、
自分が最善の解を導くためであり、
その精度を上げるには
感情や主観をなるべく排した状態で
客観的な情報把握が必要だ
ということなのです。


現実的には難しいですが、
そうしようと思っているだけでも違います。


先ほどの光の速度の一定性からも、
私たちの直感は必ずしも正しくありません。
時には信じがたい事実に打ち当たることもある。
それがこの世界なのですが、
全てを自分の中で迷宮化するのは
それはそれで愚の骨頂。
その部分を是非意識されてお過ごし下さい。


では。

2015年7月4日土曜日

“再び”あの頃の自分へ

新婚旅行で訪れたオーストラリアはシドニーの様子。
こちらは当時泊まったホテルの部屋から見えた
最高の景色です。


左に見えるのはハーバーブリッジ。
右手に見えるのはオペラハウス。
ちょうど豪華客船が着港しており、
思わずパシャってしまいました。


今回は新婚旅行のノロケ話でも、
オーストラリアで泊まったシャングリラホテルの
自慢話でもありません。
目標に対する意識の持ち方、
目標の認識の仕方についての話です。


例えば私は実際に過去に
クリスマスの時期を南半球で過ごしました。
なので記憶情報として鮮明に
その頃のことを思い出すことができます。


しかし以前にもお話ししましたが、
脳内にあっては記憶も妄想も
情報であることには変わりません。
臨場感を持たせてやれば
単なる妄想も立派な“記憶”です。


夢か現実かが分からなくなった
という体験は皆さん誰もが
されたことがあると思うのですが、
脳内の情報処理のプロセスが同じなので、
そう感じてしまうのです。


ということは、
すでに過去に経験したことの記憶と、
これから実現した未来の“記憶”は、
情報精度が同じくらいであれば
どっちも脳は同じと認識するということです。


ここで重要なフレーズは「臨場感」です。


自分の未来の展望イメージに
目の前の現実と同じくらいの臨場感を
抱くことさえできれば、
あなたのイメージは「現実」だと認識します。


私にとっての
「またオーストラリアに行きたい!」という思いと、
「あと7年以内に経済的自由人になる!」という思いは、
同じ行為だと言えるのです。


目標という言葉を使えば、
今までの認識習慣もあって、
どうも「そこへたどり着く」という
意識の持ち方になるのではないでしょうか。


そうすると脳は無意識のうちに
「まだまだ先にある目的地」と認識します。


しかし一方で、
ちょっと発想を変えて「そこへ“戻る”」と言えば
どうでしょうか。


私たちの意識も、
「今から頑張ってそこへ行く」のではなく、
「以前できたことをもう一回やればいい」と考え、
目標という言葉の持つ意味合いが
大きく変わってしまうのではないでしょうか。
思いのほか気が楽になります。


そうです、
同じ目標を達成するのなら、
なるべく気楽に達成したものです。
そして、“再び”そこへ”戻る”だけだと思うことで、
私たちは目標の上に立ち、
目標の前を走ることができるのです。


では、今日もあの頃の自分に
戻る努力を続けて参りましょう。

2015年7月1日水曜日

数学には真理が鏤(ちりば)められている

今日は映画『グッド・ウィル・ハンティング』を鑑賞し、
数学の天才の影響を受けたので、
ムラムラと数学を勉強したくなりました。
おもむろに本棚から数Cを出してきて
媒介変数表示と極方程式の分野をざっと復習。


ちなみに今はもう数Cはなくて、
数Ⅲに1本化されているようです。


これは余計な話ですが、
こういうのも気が向いたときに勉強すれば
1時間程度で20ページ分くらいすぐに
復習できてしまうものなのですが、
塾や予備校に行っている人にとっては
予習、授業、復習と
三重に時間をかけてしまうんだろうな〜
なんて思ったりしました。


はい、愚痴はやめましょう。


今回の媒介変数表示と極方程式を選んだのには
特に理由はありません。
ただ、何となく小難しい系で頭をほぐしたかった感じです。
そのうち確率や微分積分当たりを復習して、
東大数学をガツガツ解いてみようかなと思っています。


そんな数学ですが、
今日はこのフレーズに着目してみましょう。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
極座標を与えられると点は1つに定まるが、
1つの点を定めても
極座標は1つに決まるわけではない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


ちなみに極座標とは、
なじみのある直交座標とはちょっと違う発想です。


直交座標ではある点Pの座標を(X,Y)と表記します。
X座標とY座標で表現するのです。


しかし一方で極座標は、原点を極と呼び、
その極からある点Pまでの距離をrとします。
そして、その極とPを結んだ直線が
X軸と何度で交わっているかという角度をθと置き、
Pの座標を(r、θ)と表すのです。


要するに一番大きな違いは、
極座標には位置に関して「回転」の概念が加えられた
ということになります。


回転の概念は三角関数とリンクすることになるのですが、
もう一つ重要なのは、
回転には限界があるということです。
それが360度であり、弧度法で言うところの2πです。


表記上では720度とか1050度と書くこともできますが、
720度は0度と同じであり、1050度は330度と同じ角度を指します。
弧度法でも同じです。
つまり、θは0〜360度の中でグルグル
同じ値をとり続けることになるのです。


とすると、今回座標を(r、θ)と置くことによって、
θの値が何通りも書けることになってしまいました。
これが「点は一つでも極座標は1つに定まらない」
の意味なのです。


だからなんや??って思うかも知れませんが、
この発想が実はすごく大事で、
例えば熊本高校の2年5室の前田という男子、
という情報が与えられれば
その人が誰なのかは明確になります。
もしかしたら、もっと情報が与えられて、
いつも遅刻するだらしない前田かも知れませんし、
毎回テストで点数の振るわないバスケ部の前田
かも知れません。


このように誰かを規定する文言で
確かに誰のことかが分かったとしても、
その前田は自分のことを
「いつも遅刻ばかりのだらしない自分」とか、
「毎回点数が振るわない自分」と
規定する必要はないということです。


「いつも遅刻するけど
 学校では誰よりも集中している自分」とか、
「今は点数振るわないけど、
 部活終わったらガンガン周囲を追い上げる自分」
といったように規定しても良いわけです。


結構周りからの評価を真に受けて
自分のことをネガティブに規定している子が
多く見受けられます。
意識していないかも知れませんが、
周囲の自分への評価がどんなものかは
実は日頃から自然と気になっていて、
無意識のうちに自己評価にも採用してしまっていることも
十分考えられる状態なのです。


そうでなくても、人は周囲からの情報で
簡単に動機付けさせられてしまう生き物です。
メディアの影響でマイホームが欲しくなったり、
CMを観て今話題のゲームを欲しくなったり、
ネットからの情報で
お金持ちの生活にあこがれを持ってしまったりと、
意外と感化されやすいものなのです。


大事なのは、自分が自分をどう評価するかです。
周囲の評価ではありません。
勿論友達の評価でも先生の評価でも
親の評価でもないのです。
そんなものは何の当てにもなりません。
自分を最も正確に規定できるのは自分なのです。


今あなたの自己評価はどういったものですか?
それは本当に“正確なもの”ですか?
書き換えることはいつでもできることです。
是非意識してみて下さい。
そして数学の勉強もしっかりやりましょう(笑)

学位なんかなくても


グッド・ウィル・ハンティング鑑賞しました。


マット・デイモン演じる主人公ウィルは
数学の大天才。
それこそ独学で物理を研究し、
物理学の世界を一変させてしまった
アインシュタインを彷彿とさせるほどです。
彼もまた、当時26歳で日の目を見るまで
企業に勤める会計係でしかありませんでした。


孤児であり学もないウィルでしたが、
天才的な頭脳を持っていました。
何でもすぐに覚えてしまえるのです。
だからMITの教授が2年も掛けた証明を
観てすぐに回答し、
社会学先攻のハーバード生を
知識で圧倒してしまえるほどの天才でした。


でもその一方で、
子どもの頃に受けた精神的な傷が原因で
今の世界から飛び出すことを嫌い、
他人に自分をさらけ出すことを
極端に恐れていました。
そしてそういう自分の内面の状況に
気付けないでいたために
歩み寄る人々を悉く傷つけてしまいます。


そんな彼の内面の複雑さに
いち早く気付き理解を示したのは
今は亡きロビン・ウィリアムズ演じる
ショーンでした。


この映画は今回読んでいた本の1冊
『「イヤな気持ち」を消す技術』で紹介されていたので、
早速今日借りてきて観てみたのですが、
期待を大きく上回る印象を受けました。
この歳になったから分かるというか、
考えさせられる場面が多く
グサグサ刺さりました。


この話の中で印象に残った場面は
彼がハーバード生を論で圧倒するところです。
下町出身の彼らをあざけるように
専門書の知識をそらんじてみせる相手に対し、
ウィルは知識で応戦。


ウィル:
キミはそうやって本の内容を
まるで自分の考えであるかのようにまくしたてるが、
そんなことならわざわざ年間15万ドル払って
学校に行かなくても、
図書館に行けばタダでできるさ。


ハーバード生:
でも学位がもらえる。
俺は一流企業に行って、お前は掃除屋か?


このセリフの後のウィルが本質を突きます。


ウィル:
学位なんてなくても自分の頭で考えてる。
キミは50年くらい勉強したらやっと気付くだろう。
「人の言ってることを盗むな」とね。


この映画が私に残した学びは
もっともっとたくさんありますが、
とてもここでは言い尽くせません。
しかし学のない天才の放つ素直な言葉は、
私の迷いを幾分か払拭してくれました。


勿論これは、よくできた物語。
そういってしまえばそうなのですが、
彼らが演じた一人ひとりの人生と
価値観と思いと感情とそれら全てが
今の私に必要なものばかりであふれていました。


良い映画1本には無限の学びが含まれています。
この映画、是非観てない方は観られてみて下さい。

2015年6月30日火曜日

塵が積もっても、塵は塵

一見「おお〜」と思うフレーズも、
よく考えてみたら「全然ダメじゃん!」
っていうものがありますよね。
今日はそんな言葉を考えてみましょう。


例えば「塵も積もれば山となる」。


どんなに小さなものでも、
それがたくさん集まれば
目に見えるほどの変化になる、
というものです。


このフレーズの例が「塵」なので、
私はついついツッコミたくなるのですが、
塵はどんなに積もっても塵なんですよね。
塵のようなものを積もらせるよりも、
もっと大きな粒、
例えば砂とか石ころとかを
同じだけ積もらせた方が
大きな山にできるわけです。


つまり、勉強も長い時間やれば
そりゃ点数に反映されるようになるでしょうが、
問題はその質の方であって、
単位時間当たりに習得できる情報量が
なるべく多くなるように考えて
積もらせていこうぜって話なのです。


他にも気になるフレーズがあります。
それは「三人寄れば文殊の知恵」。


文殊とは知恵を司る仏様のことですが、
しかしどんな人でも3人寄れば良いかと言うと
そうではありませんよね。
集まる3人の質が問題です。


以前週刊少年ジャンプに掲載されていた
『ヒカルの碁』でこういうセリフがありました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
等しく才のある天才が
二人必要なんじゃよ。
神の一手に近づくにはのう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


つまり、同じ思考水準で議論するから、
その三人の相乗効果で凄いアイデアが生まれるんだ、
というのが文殊の知恵ですよね。
文殊に張り合おうという趣旨のフレーズです。
よっぽどの人を連れてこねばですね。


そんな深く考える必要はありませんか?
しかし昔の言葉ってありがたい割には
よく考えるとなんだかおかしい言葉って色々あります。
「ありがたいな〜」「確かに〜」と
何も考えずに鵜呑みにしていると
知らず知らずのうちに洗脳されてしまい、
発想がそれ以上に向かなくなります。
それが一番恐いなと思うのです。


有名な言葉だから正しいとは限りません。
あなたにとって役に立つのかどうかで
判断してみて下さい。
そして何かの理解のためだけではなく、
自分のブレイクスルー(限界突破)のために
上手く格言を活用していけると良いですね。

2015年6月29日月曜日

勉強とは何か

今日は本質中の本質であるこのテーマ、
勉強とは何かという話をしていきます。


この「勉強とは何か」を語る上では
「学習とは何か」「学問とは何か」を
比較対象として挙げると
飲み込みやすいかなと思います。


そもそも「勉強」という言葉は
江戸時代に商人の間で使われていたものです。
「ねぇ、ちょっと勉強してよー」
とお客さんに言われたり、
「はい、そりゃもう勉強させていただきますんで」
などとお客さんに言ったりしていました。


この場合の意味的には
「頑張って安くする」というニュアンスです。


勉強とは文字で紐解くと
「勤めて強いる」と言われますが、
おそらく意味として一番近いのは
「強いて勉めさせる」でしょう。
「強いる」とは「強制する」の意味ですし、
「勉める」とは「努める」
つまり「努力する」の意味なので、
「無理矢理努力させ(られ)て安くする」
という感じで使われていたわけです。


それが明治時代以降になると、
富国強兵の号令の下で学制を敷き、
若者の育成が叫ばれるようになりました。
福沢諭吉の『学問のススメ』も
その気運の流れを汲んで
出版されたものです。


ただしここで「学問」という言葉が
登場しています。
「勉強のススメ」ではありません。
あくまでも勧められているのは「学問」です。


では「学問」とは何なのか。


「学問」とは「学んで問う」と書きます。
細かいことを言えば、
「学び、問う」でしょう。
何が違うのかと言うと、
「学んで問う」と言うと
「学び」の後に「問い」が来る感じがします。


しかし実際には問いも学びなのです。
つまり「学び」と「問い」は同時平行で
進んでいくものなのです。


似た言葉に「学習」という言葉がありますね。
これは勿論「学び、習う」ですが、
この3つの言葉の関係はこうだと考えられます。


勉強<学習<学問


勉強しなさい!とは言いますが、
学習しなさい!とは言いませんし、
学問しなさい!とも言いません。
まぁ、『学問のススメ』は口語で言えば
「学問しなさいね」ということかも知れませんが、
通常の会話の中で使われることはほぼ皆無です。


ではどうしてこういうことが起きるのかというと、
勉強とは文字通り「強いられるもの」だからです。
やらされるのが前提なのです。
なので「〜しなさい」というフレーズが自然にできます。


しかし、「学習」と「学問」とは
やらされてやるものではないんですね。
「学び」というのは自然に起こるものであり、
自発的に行われるものだという認識です。
なので学習とは「学び、習う」なのです。


そして、「学習」と「学問」の違いは
その積極性にあります。


「学習」の方は自発的な行為である半面、
まだ受け身な部分が多い状態です。
「習う」というのは教えてもらうことなので、
「学び、習う」とはどちらも教えてもらっている状態。


それに比べて「学問」は「学び、問う」ですから、
完全に積極的に関与している姿勢が伺えます。
「問い」とは考えていないと
できないことだからです。


つまり福沢諭吉が勧めていることは
消極的なやらされる勉強ではなく、
自ら積極的に学ぶ行為なのです。
だから「一身独立すれば、一国独立す」
という言葉が生まれるわけです。


今では「勉強」という言葉が浸透してしまい
当たり前のように使い古されていますが、
実際にはネガティブな意味合いを
無意識のうちに感じながら使っていたわけです。
だから勉強という言葉を聞いただけで
なんだか気が重くなるのです。


これを脳機能学者の苫米地さんは
勉強という言葉を「知的情報収集作業」だと
言い換えてしまえば良いと言っています。


物事は全て解釈の問題ですので、
同じ事象に関しても
別の言葉をあてがってやれば
全く違った側面にスポットライトを
当てることができるのです。
そして受け取るイメージを変えられれば、
自ずと取り組み方も変えることが
できるというわけです。


勉強とは、少なくても学生の時代は
どこまで行っても暗記大会以上でも以下でもないので、
そういう認識の下で
まずは効率重視に取り組んでいただけたらと思います。
その上で余裕が出てきたら
学習へ高め、学問に昇華させていければ
最高です。


2015年6月27日土曜日

教育とは一体何なのか

こんなことを聞くと
人によってバラバラの見解が起こり
答えが一つに定まらない状態になります。


「教育」という言葉の定義が
人によってバラバラになること自体は
別に良いことなのです。
それが自然です。


今大河ドラマ『加賀百万石物語 利家とまつ』
を夜な夜な観ています。
利家とは前田利家のこと。
豊臣秀吉(猿)に対して
犬千代という幼名から犬と呼ばれた
織田信長からの信頼厚い武将です。


私の好きな唐沢寿明さんが主人公なので、
というだけではありませんが、
この頃の大河ドラマは面白いですね。


その利家の長男・利勝(後の前田利長)が
高山右近と出会ったことをきっかけに
バテレン(キリスト教)に夢中になるという
話の件がありました。


相手方の武将を殺してこその手柄、
殺人こそが武門の習いという時代に、
織田家中一の鬼武将利家の長男が
「なぜ人を殺めねばならないのか!」
と言い出した事態に、
利家のみならず周囲の者が皆動揺する
という話でした。


ちなみに、作中にはそこまでの描写は
ありませんでしたが、
実際利家自身もその後キリスト教には
寛大な姿勢を取っています。
高山右近とも親友関係となり、
右近はその後前田家の忠臣となり
利家亡き後も前田の家を支えることとなります。


ただ、この時の利家は相当に動揺したことでしょう。
大事な跡取りが腑抜けになったと。


最終的には武心を取り戻さんと
無理矢理引っ張り出し、
利家自らが鬼となって
「自分を退治して見せよ!」と
息子を何度も投げ飛ばすという
教育を行いました。


さて、この話を聞いて多くの意見が出るでしょう。
それぞれの教育観で答えを出されていいと
私は思っています。


問題なのは、意見の多様化ではありません。
学校教育の無目的状態です。


学校というのは日本の教育機関の大元締めです。
なのに「どんな子どもたちを育成するか」の
明確なビジョンがありません。
あるのかも知れませんが、
少なくとも通わせている親にも
通っている当の本人たちにも
全く伝わっていないのです。


だからこそ教育観がバラバラになるのですし、
何より現場教育者の“個人的素養”に
頼ることになってしまうのです。


教育という言葉を吟味する過程で、
「学校教育」と「家庭教育」を分けて考えている方に
私は会ったことがありません。
ただ漠然と「教育とは何ぞや」と言うばかりで、
バラバラの意見を一つに集約させようとしている方まで
いるくらいです。


そして最終的に哲学に走るんですね。


哲学的アプローチは重要な手法です。
しかし最後まで哲学に終始するのは
愚の骨頂です。
それで答えが出た気になっても
結局は何も解決していないからです。
最後は実学に落とし込まねばなりません。


私も哲学的な感じがすると言われたことがありますが、
そのときはハッキリ否定しました。


哲学“的”ではありますが、哲学ではないと。


例えば数学や物理学、化学などの世界では
この哲学的なアプローチが非常に力を発揮しました。


それこそ最近読んでいる超弦理論の概念も、
これまで粒子として捉えていたものを
「(超)ひも」と捉え直すことで
これまでバラバラだった4つの力が
全て1つの大きな理論体系で説明できるかも!
というところまでやってきています。


本来存在することのない数字(虚数)をあえて作り出し、
それまで解けなかった方程式を解けるように導いた
カルガーノの発想の飛躍は正しく天才。
それを元にガウスはさらに発展させて
実際に方程式を解くプロセスまで明確にしました。


今までとは違う見方をする。
今までになかったもの、存在するはずのないものを
あえて定義に組み込んで考える。
この天才たちの手法もまた
哲学的アプローチと言えます。


しかしそれは単なる発想で終わらず、
世の中を変えてみせた。
だから実学まで昇華されているのです。


現在哲学と言われているものには
2種類あるのでしょうね。
かなりざっくりですが。
発想で終わる哲学と、
実学にまで昇華された哲学的なるものと。
これを行う者がバラバラでも良いのです。


でも、難しいのは
別々の人間がこれをやろうとすると
接合部分で不調和を起こすわけです。
綺麗に繋がってくれない。


スマートフォンも、
中のOSと外側のハードを別々の会社が作ると、
どうしても動作にタイムラグが生じます。
ソフトとハードそれぞれのシステム相性で
どうしてもスムーズに動かない。


これを1つの会社で両方やって
ストレスを全く感じさせない動作環境を実現したのが
2人のスティーブが生み出したAppleなのです。


できるのなら、
発想する人間とそれを実学まで落とし込む人間が
同一の人間で行われるのが理想です。


勿論、現実問題として
学校で施すべき教育観を考える人間と
現場で子どもたちに教育行動をとる人間が
別々になってしまうので、
その点を配慮した教育マニュアルにする
必要があるのでしょうが、
兎にも角にも明確な教育ビジョンを
まずは文部科学省がしっかり持つべきなのです。


それがままならないうちは
各ご家庭が教育観をしっかり持てばいい。
そこに共通見解は必要ありません。
こうあらねばならないという
大前提も要りません。


超弦理論は確かに大統一理論として
バラバラだったピースをつなぎ止める
重要な発想となりました。
でも、これは科学です。
教育ではありません。


比喩とはこういうところが恐いですよね。
別の例を持ってきて分かりやすさを示そうとしても、
実はそれらのもともとの在り方に相違があれば
分かりやすさとは裏腹に
大いなる誤解をもって認識されてしまう。


教育とは何なのか。
本当はこんなこと考えなくても良いのか知れません。
学校という教育サービスを提供するような場所は
何を提供するのかをハッキリ
消費者に示す必要がありますが、
各家庭で何を子どもたちに育んでほしいのかに
「教育」という言葉がマッチしないのは
そのせいなのかも知れません。


とは言うものの、
どう子育てするかという点は
いつの時代も悩ましいものですね。


今回はしっかりした答えがない
フワっとしたブログですみません。
それでは。。。

2015年6月25日木曜日

ソルベーさん、凄すぎます

化学を勉強している人なら、
ソルベー法というのを
聞いたことがあると思います。


ソルベー法。
ガラスの原料となる無水炭酸ナトリウムの
製造法のことで、
製造にアンモニアを使用したことから
アンモニアソーダ法とも呼ばれています。


化学ではこの程度の知識しか教わりません。
あとは化学式を覚えて終わりです。
しかし、このソルベーさん、
実はものすごい人だったんです。


ソルベーさんはこの製造法で特許を取得したことで
大金持ちになりました。
そのお金の一部は慈善活動に寄付したそうですが、
もう一つ別に行ったことがあります。
それが「ソルベー会議」です。


ソルベー会議とは1911年から始まった
極めて小規模な科学者会議です。
3年に1回程度の割合で
ドイツのブリュッセルで開催されているのですが、
しかし、この会議に参加していたメンツがすごい。


ローレンツ、
プランク、
アインシュタイン、
ボーア、
キュリー夫人、
ポアンカレなど、
そうそうたるメンバーなのです。


ここで話し合われたことは
科学界において重要項目ばかりであり、
特にローレンツなどは
アインシュタインにも
「同世代の科学者の中で最も偉大な人物」
と言わせしめたほどの人物です。


そして彼が議長を務めていた
第1回〜第5回までのソルベー会議は
量子力学の時計を早めたと
言われているほどです。


たった20名足らずとは言え
世界の大天才たちを集めて
世界を大きく進歩させたソルベーさんの功績は
人類全体にとって意義深い。


私も以前友人と3名で集まり、
野望カンファレンスなるものを行っていました。
最近は互いに家庭を持ち、
仕事も忙しくなったことで
なかなか開催できていませんが、
この集まりがいずれ
世界を大きく前進させる何かを
生み出すかも知れません。


明治初期、
日露戦争において大きな戦績を残した秋山兄弟と、
俳句という世界に新風を巻き起こした
正岡子規は親友同士でした。


何かを変える可能性を秘めた大人物は、
やはりそういった者たちと引き合い、
互いを高め合っていくものなのかも知れません。


化学の授業で何とはなしに
ソルベー法はね〜
こういう化学式だよ〜
今度の試験で出すからね〜
で終わってしまうものですが、
本当はこういうことをこそ知りたいものです。
そうすれば単なる知識に
息吹が生じて生きた情報になります。


これは完全に理想論ですが、
勉強とはかくありたいものですね。

2015年6月24日水曜日

「鶏口となるも牛後となるなかれ」のウソ

漢文で必ずと言っていいほど登場するのが
この「鶏口となるも牛後となるなかれ」です。


これは中国の戦国時代において
強大になりすぎた秦を倒すために
周囲の国々を説得するために
蘇秦が唱えた言葉。
秦に服従するのではなく、
それぞれの国の王が
一国の独立した王として連合し、
共に秦を倒そう!
というものでした。


これが今では、
力のある集団の中で後からついていくよりも
レベルを下げてでもトップにいられた方がいい、
というニュアンスで使われることが
多くなってきたのですが、
こう言うとハッキリ分かりますよね。
負け犬根性丸出しだということです。


そもそもどこにいても
自分はトップになるんだという
気概があって然るべきところを、
自分がトップにいれそうな集団を
選んだ方が良いじゃん??
と考えてしまっているわけです。


このままでは
レベルを下げても鶏口にはなれません。
そこでも牛後です。
良くても牛腹くらいでしょう。


どんな水準の自分でいられるかは、
エフィカシーが関わっています。
目的達成における自分の評価の高さが
エフィカシーです。
自己肯定感とも呼ばれます。


「鶏口となるも牛後となるなかれ」は、
見事にこのエフィカシーを下げる言葉だったわけです。


このことは哲学や格言を見ていくと分かりますが、
昔の人の言葉の中には
“上手く諦める極意”的なものが
多く見受けれます。


これでは、どんどんエフィカシー下げるだけです。


「二兎追う者は一兎をも得ず」
これだってそうです。
この言葉を作った人は
二匹同時においかけて失敗したかも知れませんが、
二匹同時に捕まえるにはどうするかと
考えることに重要な飛躍があるわけです。


「三日坊主」だってそうです。
なぜ三日でやめたら悪いのでしょうか。
4日目にする気になったかも知れません。
仮に三日坊主だけで1週間の間を考えれば
○○×○○×○となり、
7日間中5日もやっていることになります。


全ては解釈次第なのです。


もしあなたが
「学校だけじゃ成績が伸びないから」
「周囲の友達がみんな行ってるから」
という理由で塾に行っているなら
最初から伸びるわけがないのです。


以前から言っているように、
塾は本来頭のいい連中が利用する
レベルの高い環境です。
補習塾といった
付いて行けない子達用の塾もありますが、
それこそエフィカシーの問題で、
そんな塾に行っていて伸びるわけない。
だって自分も“付いて行けない子”という
認識になっているからです。


自分はできて当たり前、
自分はもっと成績よくなくちゃおかしい、
そう思えるのがエフィかシーが高いと言います。


これは現実が伴っていない間は
高く保ち続けるのは結構大変ですが、
それができて初めて
目の前の現実が追いついてくるものなのです。
現実を変えるには
現実を変えるだけの何かを自分がしないといけません。
その「何か」がエフィカシーを上げることであり、
マインドを変えることなのです。


昔の人のありがたい言葉を
鵜呑みにしすぎないようにしましょう。
むしろ自分で格言創っちゃうのも
良いかも知れませんね。



2015年6月23日火曜日

天才たちのバトン

最近アインシュタインの特殊相対性理論
および一般相対性理論を勉強しています。


おそらく読者のみなさんも
アインシュタインの名前はご存知かと思います。


ではポアンカレはご存知でしょうか?


アンリ・ポアンカレは位相幾何学の分野で有名な
数学者の一人で、
懸賞問題にまでなった超難問「ポアンカレ予想」
の発案者でもあります。


彼も実は相対性理論を発表しているのです。
それもアインシュタインとは全く別に、
ほんの1〜2週間遅れというタイミングでした。
そのせいでか分かりませんが、
アインシュタインは有名になり、
ポアンカレは数学好きやその専門の人にしか
知られない人になっています。


ガリレオ・ガリレイは地動説で有名ですが、
この人は観察によって証明したのであって、
もともとはコペルニクスという人が
提唱した概念でした。


電球を発明したとされるエジソンですが、
彼は直流をメインに考えていた人です。
では今一般家庭でもおなじみの
交流を発案したのは誰だったのか。
それはニコラ・テスラです。


エジソンの下で働いていたテスラでしたが、
エジソンと袂を分かつことになったおかげで
歴史の表舞台から消えてしまった人材です。
しかし彼はエジソンに匹敵するほどの
大天才でもありました。


先に挙げたアインシュタインも、
自分一人の力で相対性理論を確立できたわけではありません。
エネルギー量子仮説を提唱したプランクや、
相対性原理を編み出したガリレイ、
ブラウン運動を研究したブラウンなど、
彼の前にも多くの天才たちがいたのです。


有名無名様々な天才たちが
今の私たちの便利で豊な生活を
実現してくれたのです。


今習っている数学も、
確かに将来使うことはほとんどないけれど、
あんなに複雑な問題を
こんなにあっさりとした公式で
解いてしまえるなんて
なんだかすごいと思いませんか?


三平方なんて覚えるのは楽ですが、
あんな綺麗な公式を発見したピタゴラスは
どれだけの天才だったのでしょうか。


私たちが日頃触れている主要5教科の中に
実は天才たちの英知が詰まっており、
人生を掛けた壮大なストーリーが
込められているのです。


単に覚える対象としてではなく、
それを編み出した彼らの人生に思いを寄せると
生きた情報に思えてくるかも知れません。


あ〜そう考えると面白いな!
と思ってくれたら、
きっと覚えることそのものが
今よりもっと楽になるし、
なにより楽しいものになるはずです。

2015年6月20日土曜日

「自分」の乗り越え方



今私は自分を乗り越えるための
勉強をしています。
自分を乗り越えるためには
自分というものの本質を
知る必要があります。


自分とはなんぞやって感じですが、
要するに
感情をコントロールしたくなったのです。


人生の効率化をさらに引き上げるには
いちいち不安になったり悩んだり
怒ったりイライラしたりする
情動を押さえ込む必要があります。


そういう負の感情のせいで
人生を停滞させたくないなと思ったのです。


それと同時に、
こういった無気力とか絶望感とか
劣等感とか、
そういうもののために
本来の力を十分に発揮できずにいる
子どもたちの様子を目の当たりにしていて、
これは勉強以前の問題じゃんと
思ったわけです。


感情をコントロールして
負の情動に支配されない自分を作れれば、
その過程で得た知識によって
子どもたちの無気力症候群への
対処法も学べるのではないかというのが
私の狙いだったわけです。


そもそも人間は
情動も思考も精神も認知も記憶も全てを
脳というコンピュータで行っています。
互いが複雑に絡み合い、
影響を及ぼし合いながら
それぞれの何かが生じるのです。


つまり、思考を鍛えることによって
精神を強くしたり
余計な情動を意図的に押さえ込んだり
できるようになるのではないか
というのが私の仮説でした。


前置きが長くなりましたが、
この加藤諦三さんの本は
かなり自己把握に活かせるものです。
他にも色々シリーズがあるので、
是非読んでみて下さい。


この本のおかげで、
だいぶ自分の“負”の根源が見えてきました。
自分の中の“正体不明”が
少しずつですが姿カタチ見えてきた感じです。


正体さえ分かれば対処は可能。
あとは意図的に思考を働かせて
腑に落としてしまえば終了です。
「ああ、そういうことだったのね」
と分かるだけでも
どれだけ救われることか。


主要5教科の勉強とは違いますが、
学びというのが本当に大事なものだと、
こういう勉強していると思います。


孫子も言うように、
敵を知り己を知れば、百戦危うからず。
しかし実際には、
敵のことよりも自分のことを知らない人が
はるかに多い気がします。


どちらかと言うと
自分自身に振り回されてしまう。
私もそうでした。
そしてそれが嫌になったのです。


自分の嫌な部分がなくなることで
自己肯定感が上がり
エフィカシーを高めることが可能になります。


エフィカシーが上がれば、
必然的に状況対処能力が向上するので
ブレイクスルーが起こしやすくなるのです。


もし心の隅の方に
どこか無気力な自分がいるようでしたら、
こちらの本、オススメです。

2015年6月18日木曜日

この失敗は母になるのか

今日私は大きな失敗をしました。
この2週間以上の努力が
一気に吹き飛びました。
全てがパーです。
おかげで今日は何も手に付きません。


うそです。
こうしてFBに投稿していますし、
仕事もあるので気は抜けません。


ただ、本当にさきほどまで
ショックがでかすぎて塞ぎ込んでいました。


失敗は、その程度が大きいほど
ものすごく辛い経験になります。
今回の失敗は私にとって
トラウマに残りそうなほど
本当に心をえぐり、
精神をへし折りました。


でも、それでも戦わなねばならないのです。
立ち止まれません。
戦わねば勝てない。
勝てなければ死ぬだけです。
by ミカサ『進撃の巨人』です。


人は自分の心に保険をかけます。
何か大きな失敗をしても
致命傷に至らないように、
傷つかないように
どこかでブレーキをかけながら
アクセルを踏んでいるのです。


しかし、保険は精神的なリスクヘッジだとしても、
失敗したときのことを考えている間は
100%の力は出し切れません。


保険をかけることの心理は、
本気で、全力で、全身全霊で取り組んだとき、
もしそれで失敗したら
もう立ち直れないほどのショックを
受けてしまうかもしれない恐れ故です。
再起不能だけは避けたい。
それは誰もが思って当然です。


ただ、それでは本気で戦えません。
それが精神的保険をかけることの
デメリットです。


なので今回の私は
ミカサのセリフを毎日つぶやきながら、
仮に失敗してもその結果を
五臓六腑で受け止めきる!
という思いで取り組みました。


が、結果失敗。
本当に全てが嫌になるほどのショックでした。
心臓がズキズキと痛み、
脳の血管がプチプチ切れている、
そんな感覚です。
まだそんな感じが続いています。
もう引きこもりたい。。。


でも諦めたくないのです。
諦めるわけにはいきません。
どんなに苦しくても、
どんなに堪え難い苦痛を受け続けても、
どんなに現実に受け入れてもらえなくても、
戦うことをやめたらアウトなのです。


「失敗は成功の母」という言葉があります。
トーマス・エジソンの言葉として有名ですが、
彼は他にも多くの名言を残しています。


ただ、今回私が言いたいのは、
エジソンの名言が云々ではありません。
それだけエジソンが失敗と向き合い
最後まで諦めなかったプロセス(人生)が
それらの名言を生み出したという
背景の存在です。


彼は電球を生み出すまでに
10000回の失敗をしたと言います。
彼にとっては「失敗」ではなく
単なる「経験」だというのですが、
内心本当にそうだったかは
分かりません。
エフィカシーを高める術を持っていたけど
内心不安で不安で仕方なかったことも
あるのではないでしょうか。


なんせ本当に電球に適した物質が
存在するのかどうかすら
保証されていないのですから。
100回の失敗でも萎えそうです。


最終的には
人間は情報処理システムなので、
解釈の問題に帰着します。
それを失敗ではなく前進と定義できれば
ストレスを溜めていかずに
済むかも知れません。


でも如何せん、
私の場合はまだ感情が追いつきません。
失敗するたびにバクバクしてしまいます。
また失敗したらどうしようと
どうしても不安を思い
ビビってしまうのです。


きっと受験生も同じように
不安な思いを抱えている人も
いることと思います。
だからこそ今日、
私の醜態をさらしました。


私と違い、受験は1年に一度。
泣いても笑っても
チャンスはその1度きりです。
でも、そのチャンスを手にするには
リスクに対して保険をかけている場合ではない。
悔いを残して言い訳で逃げるような結果のために
中途半端な努力をするなんて
馬鹿げています。


本気で、全力で、全身全霊で
取り組んで戦って下さい。
失敗はめちゃくちゃ恐いですし
不安です。
それでも、不合格の可能性を
今は忘れて下さい。
結果は出てから考えればいい。
目の前の1日1日を
MAX活用するしか
私たちにできることはありません。
努力は今この瞬間しかできないのです。


「失敗は成功の母」とは
本気で取り組み失敗した者にしか
適用されません。
保険をかけて戦っても、
その失敗は成功を生んではくれないでしょう。
失敗は、本気でなければ活きません。


失敗を母にするには、
覚悟を決めねばなりません。
強烈なショックを受け入れる覚悟を。
ビビってても構いません。
覚悟さえあれば。


勝ちましょう。
戦って勝ちましょう。
まだ生きている。
まだ私たちには時間があるのですから。

2015年6月17日水曜日

発想を飛躍させるには

今度映画化されます『進撃の巨人』。
そこには壁外に出て巨人の調査をする
調査兵団という組織が存在します。
そこの団長がエルヴィン・スミスです。


女型の巨人を捉えるエピソードの際、
彼はこんな言葉を使いました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

奴を捕らえるには
発想を飛躍させる必要がある

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


今手元にある発想力では
常にその発想の上を行かれて
彼らには勝てないということです。
あえて「そんなはずはない」という
想定外の可能性を
想定内に引き込んでの発想が
求められていました。


これは私たちにも当てはまります。
なぜ日本が勉強を義務化するのか。
その意味付けを自分なりにできなければ
不毛な時間潰しに終わってしまうのです。


私はその危機を
発想を飛躍させることでクリアしました。


正直私は自分勝手なワガママ人間なので、
自分が納得できさえすれば
どんな理屈でも構いませんでした。
とにかく勉強を受け入れて攻略せねば
先に行けないわけですから、
その真偽はどうでも良いわけです。


そこで私はどう発想を変えたのかと言うと、
必ず主要5教科の勉強は
将来活用できる何かを含んでいる
と考えるようにしたのです。
前提を変えた、とも言えます。


いつも言っている通り、
知識そのものには価値はありません。
三角関数なんて日常生活では使わないし、
物理の単振動も生物の細胞分裂も
科学の高分子化合物の名称も
世界史も、
そして英語ですら、
実生活上はほとんど出番なしです。


おそらく読者の皆さんも
これらができずに生活に困った!
なんてことは皆無なはずです。


英語も社会も理科も何でも、
本来ならば学びたいという興味がわいたときに
学べば良かったような内容です。
それを今無理矢理学ばされているのには
必ず理由があって然るべきだと
発想を変えたところから勉強攻略は始まりました。


例えば、英語の場合は
単語や文法を勉強しますが、
その理由は「書いてある内容を知る」ためです。
しかし、一方で
単語や文法で形成された言語の仕組みを知ることは
プログラムを勉強しているのと同じです。


プログラミングは最近脚光を浴び、
若いうちから教えよう!
みたいなトレンドが出てきました。
そしてプログラミングの仕組みは
コンピュータ言語なので英語と同じなのです。


各パーツの意味と、
それらがどういう理屈で繋がっているのかを
英語を通して学んでおくことは
実はかなり脳回路形成上有効なのです。


また、数学は論理の力を鍛えます。
それと同時にランダム思考を鍛えます。


ランダム思考で分かりやすいのは
医師や弁護士の方々の思考です。
無数のパターンの中から
目の前の事象に合わせて
解決策を練り上げるプロセスは
公式や定理などをパターン化して記憶し、
テストの問題の出題に合わせて
組み合わせて解くというのと同じです。


国語は読解力を養う教科ですが、
大事なのは客観性を保って
集中して聞いて初めて相手の言わんとしていることが分かる、
という至極当たり前のことです。


有識者や専門家が集まって
あるテーマに関して侃々諤々と討論をする
『朝まで生テレビ』を観ていても分かりますが、
誰も相手の意見を聞いていません。
相手の話を聞いているのは
自分の主張を突っ込むためです。
相手のことを理解するのではなく、
自分の正当性を認めさせたいわけです。


しかし、これではコミュニケーションとは言えませんね。
相手の言わんとしていることを理解する
という前提がないことには
それは単に一方的にボールを投げているだけです。
相手からのボールを取らずに
ひたすら自分のボールを投げるんです。
それも両方の人が。
生テレビでは全ての発言者がそれです。
不毛ですよね。


話がそれましたが、
社会は単純暗記の必要なことに対する
戦略を考える練習だと思えますし、
理科は色んな教科の勉強で得られる要素を
融合させたような内容になっています。
覚えたり、繋げたり、
客観的になったり計算したり
理論的に説明したりと
かなりのスキルを習得できる教科です。


とにかく、勉強を単なる知識暗記に終わらせず、
確実に自分の将来に直結させるには、
今のままではダメなんです。
発想を飛躍させる必要があります。


なぜ将来の役に立たない勉強をさせられているのか、
何か裏に意図があるんじゃないのか、
そうやって考えていくと、
自分を納得させられる理屈が見えてくるでしょう。

2015年6月16日火曜日

創造的自己懐疑を取り入れる

ちょっと難しく聞こえますが、
これは「自己懐疑のススメ」と思って下さい。


哲学において自己懐疑で有名なのは
デカルトの『方法序説』でしょう。
どんなに周囲のものを疑っても
それらを疑う自分自身だけは
どうしても疑いきれないという話です。


もし、自己懐疑が創造的でなかったら、
もっと分かりやすく言うと、
もし自己懐疑を思いつきでやったら、
どんどん自己否定の方向に落ちて行きます。
これは危険です。


自己懐疑とは自己否定でありません。
成長するために
「どこに伸びしろがあるか」
ということを考え続けることです。


本当に今の自分が限界か?
もっとレベルアップできるんじゃないのか?
本当にこの方法がベストか?
もっと効率的な方法があるんじゃないのか?


ずーっと考え続けるのです。
ただし、代案が生まれるまでは
現状の方法を継続させておくことが重要です。


立ち止まって考えていたら
時間がいくらあっても足りません。
一方で考えることをせずに
ひたすら今の方法にしがみついて
走り続けることもリスクです。


走りながら自己の現状を把握し、
これが本当に限界なのか??
と自己に問いかけながら、
さらなる成長の余地を探ります。


これが創造的自己懐疑です。


自己破壊は自己懐疑の結果
どうしても必要な場合に行うものです。


今の自分をいったん壊して
ゼロベースで考える段階は
必ず訪れます。


私も以前自分のファッションセンスを
どうしても改革したくて、
周囲に心配されるくらいに
服装がすごいことになったことが
ありました。
それでもめげずに、
色々と研究と実践を続けているうちに、
「オシャレさん」と呼ばれるまでになりました。


今では「お仕事はアパレルですか?」
と聞かれるのが一番嬉しいです。


ただし、自己懐疑や自己破壊は
まかり間違うと自己否定に陥り、
目的とは違う方に向かってしまうことがあります。


ある意味では確かに自己否定なのですが、
決してネガティブな意味でとらえないで下さい。
あくまでも今以上になるための
採るべき手段の一つです。


そして、自己懐疑や自己破壊は
自己肯定感がある程度高くなっていないと
どうしても自己否定に流されます。
その点も注意して下さい。


少し難しく感じたかも知れませんが、
要は今の自分が本当にMAXか?
ということを
常に自分に問いかけてほしいのです。


あなたはまだまだ力の半分も出してない。
そろそろ本気を出してもいいはずです。

2015年6月15日月曜日

大事なのは「外」の世界

塾をやめれば成績アップ!
と謳っていながら、
なかなか外看板を変えられない私です。
まだ「新しい学習塾ブレイクスルー・アカデミー」
となっていました。
すみません(汗)


どんなに教室の中が立派でも
外にさらされている看板が
魅力のないものなら残念ですよね。


大事なのはやはり「どう見えるか」
という「外側」の部分なのです。


少し視点を変えてみましょう。


例えば、日本史を勉強するとします。
世界史でもいいです。
日本で何があった、世界で何があった、
ということを私たちは皆
教科書で勉強し知ることになります。


しかしです。
教科書の記述がどこまで正しいと
言えるのでしょうか。


以前は聖徳太子と書かれていた人物は
今や厩戸皇子と書かれています。
聖徳太子はそもそも存在しなかった
架空の人物でした。


他にも肖像画の数点に
教科書的に変更が施されています。


歴史は更新されるものです。
世界最古の人類は
以前はアウストラロ=ピテクスでしたが、
今では300万年ほど遡り
テヘラントロプス=チャデンシスとされています。


教科書では大抵
「こういうことが“ありました”」と
事実体で書かれていますが、
それが時を経るにつれて
間違いでした!
ということになるわけです。


先日の従軍慰安婦問題もそうです。
朝日新聞の記事から始まったこの問題は
実は朝日のねつ造でした!
というまさかの結末を迎えてしまいました。


信長を伐ったのは明智光秀ではなく
もしかしたら豊臣秀吉かも
知れません。


ユダヤ人の大虐殺を行ったとされるヒトラーは
実はペスト拡大を阻止するために
アウシュビッツ収容所にユダヤ人を集め
殺さざるを得なかったのかも知れません。


飛鳥時代にいた蘇我氏は
実はローマからの渡来人で
キリスト教を広めようとして
仏教派の聖徳太子たちに
消されたのかも知れません。


これは教科書ではない市販本に書かれた
もう一つの仮説です。
しかし、可能性が0とは言えないものばかり。


教科書で習ったことは
正しいと思ってしまうし、
そう書かないと丸はもらえません。
学校や塾とは「正解」を教えるところではありません。
現時点での知識を覚えさせるところです。


もっと言えば、教科書は綿密な計画の下作られますので、
作られた時点それらの情報自体が
もう2年近く旧いものとなっています。
つまり最新情報ですらありません。


その意識がどこまで持てるかです。


重要なのは、
今教えられていることが
「正しい」とは限らないという点です。


かつてはみんな地球を中心に
宇宙が回っていたと思っていました。
それが常識だったのです。
「いや、地球回ってますよ」と言った
ガリレオ=ガリレイは裁判にかけられました。
今から考えれば「え!?」って話です。


しかし、教科書だけで、テキストだけで、
学校や塾だけで勉強している人は
果たしてどっち側の人間でしょうか。


私たちは一刻も早く、
教科書の「外」の知識を
吸収していく必要があります。
将来使うかどうか分からないものよりも
確実に目の前の問題を解決するために
必要なことを学ぶべきなのです。


そのためにも、
無目的で我武者らな勉強漬けにならず、
この先の武器となるように
今の勉強に取り組んでほしいと願います。

2015年6月13日土曜日

【番外編】10次元の世界とは



この本が出版されたのは2004年です。
もし当時の私がこの本に出会っていたら、
もしかしたら科学の道に進んでいたかも知れません。
人生を変えるインパクトのある1冊でした。


これまで科学はマクロとミクロの
2つの枠組みが別々に進歩を遂げてきました。
それこそ大天才たちの度重なる
発想の飛躍をもって、
いくつのも限界を超えて今に至ります。


そして、その2つの大枠を
ついに結びつける統一理論が生まれ、
それがこの『超ひも理論』なわけです。


この発想の生みの親は湯川秀樹氏。
それまで粒子をベースに考えていた科学の世界で、
誰よりも早く「広がり」の要素に気付いた人物です。


太さを持たず質量だけを持つ超ひもの
たった一つの物理量(自由度)「振動状態」で
この世の全てを“ひも解こう”というわけです。


ちなみにこの超ひもは
10次元の世界で記述されるものだそうです。
ちょっとイメージできませんね。


例えば、髪の毛を見て下さい。
こちらはあまりに細いので
一見すると1本の線のように見えます。
線は1次元です。


しかし実際には、
顕微鏡などで見ると分かるように
ちゃんと太さを持ち、高さもあるわけです。
つまり3次元の物質です。


このように、
私たちには認知できないけれど、
何かしらの観測技術をもって見ると
1次元のものが実は3次元だったということがある、
ということなのです。


すると、私たちの生きるこの4次元の世界
(縦、横、高さ+時間)で考えると、
それぞれの縦、横、高さという1次元の世界が
実は3次元であり、
そこに時間という次元を加えた
10次元の世界が存在しているという
ことなのだそうです。


要するに、
私たちの世界は4次元ではなく
10次元が元になって構成されている
ということになるわけです。


考えただけでも面白い。


最近のひも理論の詳細は
まだ勉強不足で理解できていませんが、
きっとこのほんの内容からは
はるかに先に進んでいることでしょう。


そして、もしこの『超ひも理論』が解明され
ミクロとマクロが統一されたら、
人類史上最高の科学革命が
起こるとされているのです。


ロマンですね〜


今月は別のテーマを勉強予定なので、
来月あたりに科学分野を追求してみようかなと
考えています。


きっともっと地味で地道な世界でしょうが、
科学者に憧れてしまえる
そんな魅力的な本です。
是非皆さんも読まれてみて下さい。

仏教もビジネス!?

週末の朝になんというタイトル(汗)
しかし頭に思いついたネタを
その日のうちに発信したいので
どうかお許し下さい。


というか、仏教やビジネスとは
勉強の根幹というか
勉強の先に確実にあるものですので、
発想として持っておく必要は
あると思います。


さて、最近哲学をよく聞いています。
勉強は一切していません。
車の中で流して聞いているだけです。
でも色んな考え方を学べます。


余談ですが、
勉強って机にしがみついてするものだという
狭い考え方をされている人が多いですが
全然そんなことはないですからね。
イヤホン1つで歩きながらできたり、
何もなくても頭の中だけでできることも
実はあったりします。
要は発想として持っているかということと、
それを実践する気があるかどうかの話です。


で、哲学の話なのですが、
今日はちょうど仏教の辺りでした。
おそらく学校でも歴史の時間に
色んな宗派があったんだよー
と習うと思うんですが、
大事なのはここです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①どうして宗派がたくさんあるのか
②どうしてこんなに仏教が求められたのか

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


実は仏教を創始した
ゴーダマ・シッダールタ氏は
自分の教えを文字に残すことを
禁じたそうです。
教えの全ては口承で伝えよと。


その結果今では日本仏教だけでも
数多くの宗派が生まれています。


たった一人の教えから、
今では色んな考え方が生まれて、
仏教がバラバラになっています。


そのこと自体は悪いことではありません。
時代に合わせてニーズは変わるし、
状況が変われば苦しみの種類も
変わるはずです。


おそらく時代が変われば
たった1つの教えでは
残っていかないことまで
仏陀(ゴーダマ・シッダールタ氏)は
気付いていたのではないでしょうか。
だから自由度を与えた。
宗派が乱立する余地を与えたのです。


日本に仏教が広まったのは
鎌倉時代が最初です。
その前の飛鳥時代にも
聖徳太子(厩戸皇子)が採用して
十七条憲法というのを作りましたが、
その時はまだ民衆には
宗教として浸透していたわけでは
ありませんでした。
あくまでも統治理論として
政治的に採用されたに過ぎません。


鎌倉時代は戦乱が相次ぎ、
天変地異や蒙古襲来など
社会不安を引き起こす理由が
多かった時代です。


そんな中で救いを求める人々に
仏教が受け入れられたのは
当然の流れだったでしょう。


これは余談ですが、
「宗教」という言葉が日本に生まれたのは
明治時代に入ってからです。
つまり、宗教という概念を日本人が持ったのは
明治時代以降ということになります。
ということは、
鎌倉時代に浸透した仏教というのは、
日本古来の八百万信仰と同じような
心の内面からくる自然な救済祈願だったと
考えられます。
これが「宗教」だったら、
ここまで受け入れられなかったかも知れませんね。


さて、仏教と一言で言っても、
日本に入ってきた仏教は
純粋な意味での仏教とは異質なものです。


中国を通ってきた時点で
儒教と混ざってしまっているので、
実は儒教的仏教だったわけです。


ただ、その中でもひときわ
純粋な仏教に近いとされているのが
法然の浄土宗です。


法然は当時にあっては
仏教界の革新者だったようで、
その理由は他力を採用していた点に
ありました。


他力とは、救う救わないを決めるのは
仏さまだからねー
という話です。
人間が自分で救われるために念仏を唱えるのは
自己の努力で良いんだけれど、
その人を救うかどうかは
仏様次第だから、
頑張って救われるように唱えてねー
という感じです。


これが他力本願の始まりです。


それをさらに究極まで研ぎすまして、
結局唱えるという行為も
仏様があなたにさせていることだよー
すごいよねー
と言ったのが親鸞でした。
信仰心すらも仏様の手のひらの上
というわけです。


ちなみに親鸞も革新者です。
彼は在家仏教を始めに実践した人でした。
当時は仏教徒は一生仏に仕える身ゆえ、
独身を貫くのが当たり前だったのです。
奥さんもいて子どももいる仏教徒は
この人が初めてだとされています。


こうして、色んな宗派が生まれたのですが、
これって結局は市場の取り合いなんですね。


仏教という軸がありながら、
それぞれが自分で考え
独自の宗教へと昇華させて
「自分の教えこそ本物!」と
広めていくわけです。


そのうち市場が少なくなってくると、
「そういえば、こうも言えそうだぞ!」
と解釈をかえて攻める。


各宗派の言っていることは
要するに仏教の解釈の違いですから、
何でもありっちゃありなのです。
なので、
「あれ?こっちの人が救われてないぞ!」
と思えば、
そういう人たちを救える理論を構築して
新しい宗派として打ち出す。


こう言うと失礼に聞こえますが、
救われる人が増えるので、
これも別に悪いことではありません。
仏教の教えを純粋に受け継ぐことも大事ですが、
そこに縛られず読み替えてでも
今の時代の救うべき人々に
受け入れられるカタチにする。
この発想も同じくらい大事なのです。


かく言う私はそれでも、
法然や親鸞のように
「純度100%」の仏教を伝えんと
思ってしまうタチです(汗)


こうして観ると、
法然や親鸞はベンチャー企業のようなもので、
多宗派が乱立するレッドオーシャンに現れた
革命児のような存在だったのでしょう。
まるで今の企業のあり方のようです。


このように、今も昔も
実はやっていることは変わらないのかも知れません。
与えたい者と受け取りたい者どうしのやり取り。


今日の話は勉強に直接関わりがないと
思われるかも知れませんが、
それもまた解釈の違いです。
この話を自分に役立つように
解釈を読み替えることができるかは
あなたにかかっています。


では。

2015年6月12日金曜日

息づかいが聞こえますか?

今日は歴史の話をします。


最近エグスプロージョンという2人組が
歴史上の出来事をダンスと歌で
覚えよう的なネタをしているのを
動画で発見しました。


私が観たのは「本能寺の変」ネタです。
ただ、実際記憶に残るのは
「本能寺の変♪本能寺の変♪」
というフレーズのところだけでしたが(笑)


普通にこういう試みは悪くないと思います。
体の動きとリズムで覚えれば
体験記憶となって忘れにくくなります。
脳機能には則っている。


ただ、さすがに1個1個全部を
こんな風に踊って覚えるのは
正直現実味がありません。
なにせ時間がかかりすぎるからです。


例えば私は、
本能寺の変に関しては
かなり詳細に語れる方です。
それは私が大河ドラマ『秀吉』が好きで
何度も観ているからです。


秀吉が百姓の身でありながら
信長に直接登用を志願するところや、
切腹覚悟で重大案件を次々とこなしていく様。
勿論、最終的には信長の後を継ぎ、
天下人にまでのぼり詰める過程。


方や当初は飛び抜けた高待遇で迎えられたものの
次第に信長から毛嫌いされていく明智光秀が、
いよいよ母親まで殺された頃から
謀反の思いを抱いていくいきさつ。
50人足らずで本能寺に入った信長を、
13000人で取り囲み鬼退治を実現した
その覚悟と高揚感。


もちろんドラマですから
脚色は多々あれど、
あれだけ面白く時代を描かれると
臨場感を感じずにはいられません。


他にも『坂の上の雲』もドラマ化されました。
あのドラマで明治の日本を知り、
当時の人々の熱さや必死さを感じて
手に汗を握りました。


記憶には「臨場感」が重要なファクターです。
エグスプロージョンのダンスも良いのですが、
それは本質を欠いています。
本来はその歴史を勉強することを通して
先人たちの思いや決断や生き方を学ばねばなりません。


こうすべき、ああすべきと言い出したら
ちょっと説教ぽくなりますが、
しかし勉強することで何を得るかが
ものすごく重要なのです。


教科書や問題集で出来事や年号を覚えても、
その登場人物たちの壮絶な人生までは
意識はいかないことでしょう。
しかし、本当はそういったところまで
味わう事が勉強する目的だし、
それができた方が
はるかに記憶に定着しやすいのです。


これは歴史のみならず、
化学や物理、数学でもそうです。


定理や法則を見いだした彼らの
研究に込めた思いの深さや本気度。
公式は覚えたらおしまいですが、
その公式を発見するまでに
どれだけの人々が人生を賭けて
諦めること無く戦い続けたか。


こういうところまで楽しめるように
なったら良いなと思います。

2015年6月11日木曜日

人は思い込みを棄てられない

題名の通りです。
人は自分の思い込みを
思い込みと気付いてもなお
棄てられないものです。


そして、その棄てられない
思い込みによって
大いに縛られ遠回りを強いられます。


それでも棄てられないのが
思い込みの恐いところでしょう。


たとえば六曜というのがあります。
大安、仏滅、赤口、友引、先負、先勝。
大安は縁起のイイ日で、
仏滅は縁起の悪い日と思っている方も
多いのではないでしょうか。


また行事やお祝い事などは
六曜を活用して日取りを決めている方も
多いのが事実でしょう。


しかし、実際には占いと一緒で
六曜自体には何の根拠もありません。
解釈の問題に過ぎないことを
習慣化されているが故に
気にしてしまうのです。


仏滅は文字が悪いために
不吉な日とされていますが、
もとは物滅という文字であり、
物が滅し新しいものに生まれ変わる意から
何かを始めるには
大安よりも適しているとも言えますし、
何より仏がいなく(滅してい)ても
大丈夫なくらいイイ日、
とする説もあるのです。


そもそも六曜自体は
仏教とは関係ないものですから
「仏滅」という文字を当てるのも
誤解のもとですね。


バレンタインにチョコをあげるのも、
もとは明治製菓が仕掛けた
商業戦略でしたし、
1日3食という生活習慣も
エジソンが自社で開発した電子レンジを
普及させるために提唱したものでした。


つまり、今の日本の習慣には
その背景に企業の利益追求が
ある場合も多々あるのです。


宗教も思い込みですし、
結構今の自分の生活リズムを
形成するのに活用している指標は
根拠のない情報操作や
単なる思い込みだったりするわけです。


勉強とはこういうものだ、
こうやってやらないと覚えられない、
自分は物覚えが悪い、
60点くらいが自分らしい点数だ、
などなど。


こういった思い込みを
一切除外して自分の純粋な考えを
しっかりと意識してみて下さい。


ゼロベースでモノを考えたときに
初めて自分の置かれた状況や
すべきことが見えてくるものです。

2015年6月10日水曜日

熊本から学びのストリームを

なぜ私がずっと
塾なんてやめてしまえ!
と主張するかというと、
結局は自分で勉強できる人には
勝てないからです。


それは能力的な面でもそうですが、
何より社会がそういう人を求めているんです。
誰かに背中を押されないと
頑張れない人ととか、
考えるのが面倒くさいからと
思考をやめて逃げてしまう人は
社会では役に立ちません。


ただ一方で私は、
主要5教科のような勉強ばかりの話を
する気は毛頭ありません。
私は「学び」にフォーカスしていきたい。


勉強という言葉を使うと
ものすごく語弊が生まれてしまいます。
勉強とは大人にとっては
一生続けていくべきものですが、
子どもたちの課されている勉強は
ゴールが決まっている知的マラソンです。
一つの言葉でそれぞれが
別々のものを想定してしまうように、
ネガティブな印象を持つ上に
あまりにも定義が曖昧な言葉です。


その点「学び」という言葉は
余計なイメージを含みません。
知的好奇心に則った、
趣味や関心に従った純粋な思いも全てが
この「学び」には含まれています。


そして、こういった感覚で
子どもたちにも勉強を捉えてほしいのです。


受験制度という土俵の上で意味する
「勉強」という仕組みを紐解くことと、
純粋な「学び」の心を大事にする
本来の意味での「勉強」を
柔軟に使い分けてほしいのです。


そして、勿論子どもたちだけでなく、
一般の方々に向けても
よく学べる環境を提供したいというのが
私の思いです。


また部屋の模様替えを進めて、
明日新しいモードに切り替わります。
さらに学びを促進する環境に
なるのです。


少しずつですが、
この場所が「もっと学びたい」という思いを
内側からわき上がらせる環境になればと
願ってやみません。


いずれ必ずやってくる未来のために
今できることがあなたにもあるはずです。
今何もせずに手をこまねいていても
良いとは思っていないはずです。
何かきっかけを待っているのかも知れませんね。
そういうあなたのきっかけになれたらとも
思っています。


学びたいと思ったその時に
その思いにふさわしい場所となる。


心機一転、
今日からまた奮起してまいりましょう。

2015年6月6日土曜日

塾に行くべきか辞めるべきか、それが問題だ・・・

20世紀はじめに
プラグマティズムという哲学思想を世に広めた
ウィリアム・ジェームズという人がいます。


プラグマティズムを最初に提唱したのは
チャールズ・サンダース・パースです。


そもそもこの思想は
物事の認識に関する順序に関して
重要な気付きを与えてくれる
新しい哲学思想体系です。


例えば「硬いモノ」があるとします。
私たちはこう考える事が多いでしょう。


硬いから曲げようとしても曲がらない。
硬いから引っ掻いても傷がつかない。


しかし、パースはこう言います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

曲げようとしても曲がらないから硬い。
引っ掻いても傷がつかないから硬い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


つまり実践の結果として得られる事象をもって
「硬い」という認識を得るというわけです。
因果関係が逆だったのですね。
言われてみればそうだ!
と私も一人で感動してしまいました。
さすが論理学者(数学者でもあり科学者でもある)
パースらしい見解です。


ここからジェームズは
有用性と真理の関連性を見いだします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

有用であれば真理であり、
真理であるならば有用なのである、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

と考えたのです。


例えば「神は存在するか?」という命題があります。
この命題はすでに
数学的にも物理学的にも
言語学的にも、
そしてなんと哲学的にも
不存在が証明されてしまった命題です。


しかしそんな命題も、
仮に神が存在することで
心の平安が得られるという有用性を得られるなら
この命題は真理と見なせる、
と言うのです。


確かにそうですね。
神がいるのかいないのか、
そこが問題なのではなくて、
神を信じることで救われる人がいるのなら
それは真理と呼んでも良い事なのです。


このことを踏まえると、
私が提唱する「塾を辞めて自分で考えよ」
という問題提起にしても、
塾をもし有用だと思えば行くべきですし、
そうでないと思える場合には
辞めれば良いのです。


それは別に私の意見が正しい正しくないという軸とは
全く別の視点から導いても良いのです。
私の言っていることには反対だが、
自分の判断で辞める事にした、
で良いのです。


私は全ての方にとって有用だと思って
情報を発信していますが、
それが受信したあなたにとって
有用と感じられるかどうかとは
全く別の話です。
別で良いのです。


なので、冷静な視点で塾を捉えて、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

塾は果たして自分にとって有用なのか、
一体どのように有用なのか、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

と考えてみて下さい。
きっとイイ答えが導きだせることでしょう。

2015年6月5日金曜日

若いうちは仏教は勉強しない方が良い理由

以前勤めていた塾で
仏教を勉強していた中3生が
こんなことを私に言いました。


なんだか生きている事が
空しくなってきました。。。


え〜〜〜〜〜〜!?


その理由を聞くと
仏教の「空(くう)」の概念を知って
頑張る事の意味を見失った
と言うのです。


確かに空はそうなります(汗)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

全てはあるとも言えるし
無いとも言える。
世の中の全ては
幻みたいなものです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

不正確な表現かも知れませんが、
つまりはこういうことです。


脳機能学者で私が信奉する
苫米地英人氏の書籍を読むと、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

目の前に広がる物理的空間の情報も、
頭の中だけで繰り広げられる
抽象的なイメージも、
脳内処理される時点で
区別できないものとなる。
どっちも「情報」に過ぎない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ということが分かります。


以前近未来を舞台にした3部作『マトリックス』
という映画がありました。
あの世界は、
自分の生きている目の前の現実が、
実は全て見せられていた夢だった、
というストーリーです。
仮想現実の世界を現実だと思って生きていたけど、
実際にはその逆だったわけです。


私たちは夢を見ますが、
あれもかなりリアルですよね。
触感もあるし声もするし。
このように脳には夢の世界も
目の前の物理的な世界も、
実は区別することができないのだそうです。


極端な例を言えば、
あなたがもしニューヨークに行きたいとします。
ニューヨークの町並みをイメージして、
自分がその中を闊歩している
そんなイメージを具体的に想像してみて下さい。


すると、その具体的なイメージと、
他の何でも良いのですが過去の記憶情報との
明確な違いは感じますか?


過去のことはもはや「情報」です。
思い出すことしかできません。
思い出された記憶情報のリアリティーと
自分で作成したイメージ情報のリアリティーは
実は区別できないものだということです。


もし今後ニューヨークに実際行く事があっても、
現地にいるその瞬間は感動しますが、
そこから帰ってきた後には
それは単なる(記憶)情報でしかなく、
行く前にイメージしていた情報と
区別できなくなってしまうわけです。


ということはわざわざニューヨークに
実際に行く必要はなかった??
というよくわからないことになります。


これを2500年前に悟りを開いた
ゴータマ・シッダールタは気付いていました。


老荘思想で有名な荘子も
同じような思想を唱えています。
それが「胡蝶の夢」です。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

夢の中で自分は蝶になって飛んでいた。
しかし実際には
自分が蝶になったのか、
こっちの世界の方が実は夢で
蝶が自分になったのか、
それはよくわからない、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

と言うのです。


理論的に脳機能が解明されるずっと以前から、
脳の特性はすでに既知のものに
なっていたというわけです。


そうすると、
現実に執着する必然性を
見失ってしまいがちになります。
それが先に挙げた生徒の悩みでした。


こうして考えると
仏教を勉強する時期というのが
ありそうな気がします。
私も以前仏教の教えを勉強しようと
色々動いていましたが、
途中でやめてしまいました。
理由は自分の人生の質を
上げてくれるものと感じなかったからです。


物欲にまみれ
様々なことに執着したいという思いが
人生のモチベーションである私の生き方と
真逆の思想でした。


なのでガツガツ生きたい!
という方は特に
今は勉強しない方が良いと思います。
受験生もなおさらです。


とは言っても、
宗教自体は持っておくべき教養ですので、
時期を見て調べてみる事をオススメします。

2015年6月4日木曜日

学歴格差よりも深刻な問題とは

勉強に関する面白いネタがありましたので、
こちらでもご紹介いたします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

衝撃!貧乏な子どもがいくら勉強しても
遊んでいる金持ちよりも成績が悪いという
衝撃的なデータが!(by LITERA)
http://lite-ra.com/2015/05/post-1143.html

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


なお、こちらの記事への見解は
以下のFacebookで公開しておりますので、
是非ご確認下さい。
こっちも毒舌です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

https://www.facebook.com/masaharu.ando.7

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


さて、ここでお話ししたいのは、
学歴格差よりももっと深刻な
問題についてです。


それは

◆◆◆◆◆◆◆

学力格差

◆◆◆◆◆◆◆

です。


メディアで取り上げられている問題は
学歴格差が多いのですが、
その根本的な原因は学力格差です。


ただ、なぜ学歴格差の方が報じられるのかと言うと、
消費を促したいという意味合いと、
「学歴」というフレーズの方が
情動を刺激するからです。


学力が高い低いという見方よりも
学歴が高い低いという見方の方が
直感的に理解しやすいという理由も
あることでしょう。


しかし本当に問題にしないといけないのは
学力格差の方なのです。


例えば今の日本はどうなっているかというと、
「その先には険しい山道しかありませんよ!」
と注意を呼び掛けても、
「別に構いません」
「そんな先のことは考えていません」
といった返事ばかりが返ってくる状態です。


隊列を組んで整列し、
多くの兵と一緒に決まった速度で行進して、
1000m級の山に無目的に向かっていきます。


人とは自己満足に生きたいものです。
自律の気概だけは立派で、
最終的には本望で死にたいのです。


ですから目の前が平坦な道のうちは
大丈夫大丈夫~と笑っていますが、
いざ険しそうな山道が見えてきたら
どうしようどうしようと
急に慌てふためくことになります。


それでも、その隊列から離れて
自立する術は身に付いていないので、
そのまま皆一緒に
険しい山道に突入していくわけです。


それでも行きつけるのは
高々1000m程度でしょう。


しかしこの中にはズルイ輩もいて、
「あれ?どうやらこのまま行っても
面白くなさそうだぞ?
向こうの山の方が良さそうだ」
とこっそり隊列から離れていきます。


そして独自のルートで
2000m級、5000m級、
そして8000m級に行きつける者も
出てくるわけです。


おそらく多くの方にとって
「学力」という言葉は曖昧な理解しか
されていないことでしょう。
もしかしたら成績の格差のことだとか
偏差値の格差だと思われているかも知れませんね。


ただ、だからこそ学力格差が認識されずに
「学歴」という表面的な議論しか
できなくなっているのです。


大事なのは「学力」です。
それを是非御記憶下さい。

2015年6月3日水曜日

チャンスに関する3段階

最近すごく意識しているのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分は果たして
チャンスにふさわしい人間だろうか。
自分は果たして
チャンスにふさわしい努力をしているだろうか。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ということです。


私はキリスト教の信者ではありませんが、
最近すごく神様の存在を感じます。


というのも、本当に自分に
チャンスを与えてくださっているのだな
と感じるからです。


もちろんそれを「神様からのギフト」と呼ぶのか
「運命」と呼ぶのか「偶然」と呼ぶのかは
人それぞれでしょうが、
私は神様からのギフトだと思っています。


そうすると、
自然とその神様の存在に対して
下さるチャンスにふさわしい自分になろうと
思えるわけです。


ちなみに、
チャンスには3つの段階があると考えています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①チャンスに気付けるかどうか
②チャンスを掴めるかどうか
③チャンスを活かせるかどうか

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

です。


チャンスとはチャンスっぽくないものもあります。
チャンスっぽくてチャンスじゃないものもあります。
要はまず気付けなくては話にならないのです。


必ず巡ってくるチャンスに気付くことが
最初のステップとして、
次にそのチャンスをガシッと掴めなくてはなりません。
目の前に来たのに見逃してしまうことも
十分あり得るわけです。


いやいや、チャンスが来たら
誰だってすぐ飛びつくでしょう!
と思われるかも知れませんが、
実はそうでもありません。
チャンスが”リスク”に見えることもあるからです。
いえ、リスクそのものかも知れません。


確実に無傷では掴めないチャンスの場合、
中には傷つくのが恐くて
手を出せないことだってあるのです。


また、チャンスだと思うんだけれど
本当にこれはチャンスなんだろうか。。。?
という場合もあるでしょう。


とにかくチャンスとは
全部が全部ポジティブなイメージとは
一致するわけではないのです。


そして、仮にチャンスをつかめたとして、
そのチャンスをしっかり活かせるかどうかが
最も重要な問題です。


掴んだだけでオッケーなチャンスなど
ほとんど存在しません。
それを自分なりに加工して
欲しい成果に練り直さないといけないわけです。


このように、
チャンスは気付けて掴めて活かせて初めて
チャンス足り得るのです。


あなたにも確実に
毎日チャンスが山のように降り注いでいます。
しかしもしあなたが
とてもそうは思えないと感じているなら、
まだチャンスに気付こうという意識に
欠けているのかも知れません。


そして、もしそれでもチャンスが見えないと言うなら、
チャンスを求めて行動範囲を広げるしかありません。
学校と塾と家の往復だけの行動範囲では
今以上にチャンスを広げることは
できないでしょう。


塾に行く時間がもしフリーに動ける時間になれば、
好きなように気分転換ができます。


かく言う私も、
時々散歩と称して色んな場所に
出かけていました。


脳は新しいことに大いに刺激され、
刺激されることで
活性化するためのホルモンが分泌されます。
この活性化状態になることで
記憶力もより良くなるわけです。


逆に同じことの繰り返しの毎日では
徐々に脳がマンネリの生活の中で
機能低下をしていくので
そもそもやる気が湧きにくい状態になっていきます。


あなたが成績を上げたいとか
点数を伸ばしたいという目標が
漠然としてでもあるなら、
まずは生活リズムに
無理矢理変化を起こして
脳を活性化するところから
始めると良いかも知れませんね。


2015年6月1日月曜日

パルメニデスの誤謬

これは2009年に出版された
DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー別冊11月号で
ハーバード・ビジネス・スクール教授
クレイトン・M・クリステンセン氏がされていたお話の題名です。


パルメニデスとは古代ギリシャで
「万物は不変である」と言った哲学者。


しかし現代においては
経営理論や戦略フレームワークは
時代とともに移り変わり、
決して不変ではあり得ません。


それを受けてクリステンセン教授は
「パルメニデスの誤謬」として
万物は決して不変ではないと論じたのです。


「誤謬(ごびゅう)」とは「真理」の対義語。
論理的もしくは形式的に
ある意味において合理性を失っていること、
というニュアンスです。


ただし、クリステンセン教授の言うような
単純な意味での不変を唱えていたとは
私にはどうも思えません。


実際、アリストテレスやプラトン学派は
パルメニデスの思想を大いに評価し、
イデア論の言説とまで言っています。


パルメニデスの言う”変化”とは、
在るものが無くなり、
無いものが在るようになることであって、
それは感覚的にはそうだろうけど、
理性的に考えれば
有が無になり、無から有が生まれるというのは
おかしくないか?と言うことです。


そう考えれば、
表面的には経営理論は形を変え、
戦略フレームワークも進化を遂げてきたでしょうが、
それは目の前の状況に応じて
各々の要素が組み変わっていっただけで、
要はパターンの組み合わせが
入れ替わったに過ぎないとも
考えられるかも知れません。


これまでになかったものが生み出されたのではなく、
これまであったものに新たな視点が加わって、
別の角度から捉えなおされ、
別の理論やフレームワークと融合されたりしながら、
”新しき”と呼ばれるようになったわけです。


これは勉強に関しても同じでしょう。
勉強方法なんて無数に存在しますが、
それらはバラバラなことを言っているのかと言うと
決してそうではありません。


ましてや、別々の人が
全く真反対のことを言っていたとしても、
そのこと自体は決して矛盾ではなく、
両者とも求める成果を出せたという点では
至極合理的な帰結なのです。


とすれば、
一体それら無数に存在する勉強理論の
根底にある共通認識は何なのか。
それこそがパルメニデスの言う
”不変な何か”なのでしょう。
私が言う”勉強の原理原則”であり
”勉強のルール”です。


ただし、私は勉強に哲学を持ちこむ気は
全くありません。
勉強は実学なので哲学で語るべき対象ではありません。
教育という分野で見れば
そこに哲学的なアプローチがあっても
良いのかも知れませんが、
こと勉強においてはそんな曖昧なものではなく
受験制度というシステムで動いている以上、
哲学が入りこむ余地はありません。


なので、”勉強の原理原則”とは
共通のルールであって
共通の見解といった曖昧なものでは
決してないということなのです。


また、教育改革が進められているように、
勉強の意味するところのものが
時代に沿って変化するは
十分考えられます。
技術の進歩や国際情勢の移り変わりの中で
価値観というものは
どんどん変化していくものだからです。


今回は少し固めの文章になりましたが、
パルメニデスの言う「万物」は
おそらく不変と言えるものでしょうが、
もっと表層的な現象や価値観と見れば、
確かに誤謬という解釈になるのかも知れません。


要するに、なにを見て語るかということですね。


勉強とは何なのか、
教育とは何なのか、
人生とは何なのか、
自分とは何なのか。


その答えを模索してみては
いかがでしょうか。

2015年5月30日土曜日

前提は何か

BTTの授業でも先日お話ししたテーマで

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

前提を忘れてはいけない

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

というものがあります。


私がなぜ今勉強のプロと名乗るかというと
それは勉強の仕組みを理解したからです。
勉強に闇雲に取り組んでいるうちは
頑張っても頑張っても
なぜか手応えがなく
成績も伸びていきませんでしたが、
理屈で突き詰めていくと
ちゃんとそこにはルールがあって、
そのルールに則って取り組めば
自ずと欲しい結果が手にできる
ということが分かったのです。


その仕組みを考える上で重要なのは
前提が何かということです。


「勉強」という言葉だけを取り出せば
そこには子どもサイドと大人サイドが
別々の意味を込めて使っていることに
気付くことでしょう。


子どもたちにとっては主要5教科でしょう。
授業があってテストがあって
点数が出て受験があってといったものです。


しかし大人の言う勉強とは
生きるための学びを指します。


つまり、両者は全く別の意味で「勉強」という言葉を
使っているのです。


ここが実はとても重要で、
勉強とはそもそも際限のないものですから、
子どもたちが「学び」として勉強に取り組むと
とんでもないことになります。


なにをどこまでやっていいのか分からず、
ペース配分も分からないまま
走り続けなければならないのです。


しかし、主要5教科の勉強となれば
話は別です。
そこには明確なゴールがあって、
守らねばならないルールがあるので、
なにをどこまでやればいいかが
ハッキリ分るはずなのです。


にも関わらず、
守るべきルールも意識しないうちに
果てのない大地に駆けだしてしまえば
途中で迷子になって当たり前です。


まずは勉強には前提があることを
思い出しましょう。


ちなみにこれは「小前提」です。
この下にはもっと大きな括りでの
「中前提」があります。


少し抽象的になってきました。
例を入れましょう。


この世界は「地球」です。
私達は地球という球体の惑星に住んでいます。


その地球上にはいくつか大陸があって、
その大陸上にはいくつもの国があり、
それぞれの国が独自のルールを持っています。


日本人として生きるということは
日本の法律の下で生きるということ
なのですが、
もっと大きな前提を考えれば
国を越えて地球人として生きている
ということになります。


それと同じで、
勉強という行為を行うというのは、
少なくても小中高大というレールを走るという意味であって、
そのレールは受験制度や教育制度といった
「小前提」の上にあるということです。


そして、それはあくまでも大陸の一部にある
一国に過ぎず、
他にも色んな「小前提」の世界があるわけです。


スポーツであったり音楽であったり
武道であったり芸であったりするのです。


そして、それらの国々は大陸である
資本主義という「中前提」の上にあるということです。


他にも社会主義などもありますから、
大陸も一つではないということですが、
それらの大陸も地球にあたる生活という
「大前提」の上にあるのです。


ということは、
勉強のルールは受験制度や教育制度という
前提を意識して初めて明確になりますし、
でもその先で大人になったら
自分は資本主義社会で生きることになるという
もっと広い意味での前提も忘れてはいけないわけです。


その点をあまりに多くの子どもたちが
認識せずに大人になってしまうという点が
大いに懸念材料となり、
今の教育改革の引き金になったわけです。


ちょっと小難しく聞こえるかも知れませんが、
今日の話はかなり重要です。
是非忘れずにいてほしいと願います。

2015年5月29日金曜日

その日、その時間の”ベスト”に賭ける

目標を持つことは重要です。
常に将来のビジョンを明確に意識し、
そこに向かって努力を続けるというのが
頑張り方のセオリーです。


また、過去の成功をモチベーションに活用するのも
一つの方法かも知れません。
あの時の俺にできたんだ、
今の俺にもきっとできる!
こうしてセルフイメージをしっかり持つこと。
結果を出すには欠かせないことです。


そうしたことを踏まえてなお、
今日言いたいのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今この瞬間の自分に集中しろ

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ということです。


将来というのは「未来」です。
未だ来ぬものが未来です。
つまり、本当にそうなるのかどうか
分からない部分があるものです。
すると不安になったりします。


また、過去とは過ぎ去りしものです。
あの時の自分と今の自分は違いますし、
あの時のことと今のことは違います。
つまり、あの時できたことが
また今もできることを保証してくれはしないのです。


冷静に考えてみると、
未来への展望や希望も、
過去の栄光や成功も、
何一つ今の自分を保証するものは
ないということなのです。


どうしてこんなネガティブな話をするかというと、
このように物事は「解釈」の問題であって、
生きれるのは今しかないからです。


今が確実にベストな状態にあれば、
実は過去も未来もベストな解釈になります。


これは以前仏教を勉強していた際に
先生から教えていただいたことなのですが、
将来が不安な人というのは、
実は「今」が不安だから
未来を不安視してしまうのだそうです。


逆に言えば、
「今」に全く不安がなければ
将来を不安がることはないはずだ、
と言うのです。


確かに、と思いました。


今が最高ならば、
これまでも最高だったから
今の最高に繋がったのだと思えますし、
今が最高なんだから、
この最高のまま努力すれば
未来だって絶対最高じゃん!
と思えるはずなのです。


ということは、
良くても悪くても
過去の自分や結果に囚われず、
どんなに実現したい
理想の目標があったとしても、
その目標からいったん目を離し、
今目の前のことに集中して取り組むことが
実は本当に重要なことなのです。


私は最近そのことを実感として感じました。


逆立ちしても叶えられないような
バカ高い目標を常に思うと、
今よちよちレベルでしか成長できていない
情けない自分を責めたくなってしまいます。
焦らせたくもなるものです。


しかし、今のこのよちよちがなければ
この先で走ることだってできません。


ニーチェの言うように、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

いずれ飛びたいと願う者も
いきなり羽は授けられない。
まずは歩くことから学びなさい。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ということです。


残り230日ほどでセンター試験ですが、
今全然目標に届いていないからと言って、
ダメだダメだ俺なんか~!!!
とネガティブになっていたら
全く勉強にならないわけで、
まずは自分のレベルに応じた内容から
確実に取り組んでいかねばなりません。


それがたとえ小学生レベルの計算練習でも
合格したいなら戻ってやるべきなのです。


でも焦るとすぐ結果を求めて
今使ってる教科書から離れられない。
だからいつまでも伸び悩むわけです。


明確な目標は必要です。
でも努力するその瞬間その瞬間には
いったん忘れて努力そのものに
集中しきることが不可欠です。


その時間のベストパフォーマンスの積み重ねが
確実な成長を促し、
目標への一歩を進めてくれます。


今を、もっと大事にしましょう。

2015年5月28日木曜日

自分に合った学び方を選択できるような教育環境が、求められています

先日5/26に行われたTED×Kids@Chiyoda。
そこでの松谷知直くんのスピーチが
話題になっています。
http://spotlight-media.jp/article/152241398098350293


そこでは、自分の発達障害が原因で
学校での学びの“決まり”についていけず
挫折しそうになったという話がされていました。


学校側が一切の理解を示してくれなかったため、
彼は自分に合った学習法がないかと
別の可能性を模索し始めます。
その結果出会ったのがiPadでした。


しかし、iPadを持ちこむことにすら
学校側は当初許可をくれなかったそうです。


まぁ、こう言ってしまうと
学校側が悪者になってしまいそうですが、
国の教育機関が
学ぼうとする者にこのような対応をし、
その意欲を削ぐのであれば、
それは本末転倒なわけで、
ちょっと対応が悪いなと感じます。


そういえば以前勤務していた塾では
ネットで調べることすら禁止でした。
こんな時代遅れな塾があるのかと
バカらしくなりましたが、
それと同じくらいに
融通の利かないのが学校です。


当アカデミーに通ってくれている生徒さんの
学習指導のために
1週間の時間の使い方をヒアリングしたところ、
学校からの宿題が多すぎて
プラスαが入れにくい(汗)
という状況が分かったケースがあります。


さらに突っ込んで聞いてみると
学校での成績分布が見事に
ふたこぶラクダになっているそうです。


これは要するに
学校のやり方について行ける子は
成績上位層に偏り、
学校のやり方が合わない子は
成績不振層に偏るという構図です。


もしこれが塾ならば、
やり方が合いませんからと辞めれば良いのですが、
学校でこれをされると悲惨です。


1日の半分以上を学校に投資するのですから、
学校が自分に合わないというのは
致命的です。


ただ、今回の子のように
イレギュラー対応が必要なケースに
今の学校が対応できるような仕組みが
まだ確立されていません。


マニュアルを外れた対応が
どこまで自分の裁量内でできるのか、
学校側はその生徒のどこまでを
許容範囲にするのか等、
どこかで線引きをせねばならないはずなのですが、
それがまだ教育現場で
整備されていないのです。


つまり、学校にはその学校のやり方がある。
塾にはその塾特有のやり方がある。
そのやり方に合う子は伸びて
合わない子は伸びない。
そういうことになっているのです。


そこにおいて今回の松谷くんの主張は
ある種の問題提起になったのかなと感じます。


勿論、発達障害のある子が散在するよりも、
そういった子が通う別の枠のスタイル
(例えばフリースクールのような)
があると、
その学校だけは特殊なルールで
生徒に応対しても良いとして
問題が解消しやすくなると思います。


別のニュースでは
この不登校の子たちが通うフリースクールも
義務教育化しようという動きもあるようですし、
特別学校(ネーミングはイヤですが)の
義務教育化が認可されれば、
教育現場の多様性が生まれて
今の概念が覆るのではないかと
勝手に思っています。


個人的には携帯のように
ガラパゴス化してしまう気もして
ちょっと心配な点もあるので、
ここは”学校”というコンセプトそのものが
完全にパラダイムシフトをして、
現行マニュアルの撤廃の下、
全ての教育機関が
柔軟に生徒対応できるような
抜本的な制度改革が
必要なのではないかと思います。


ここでの最大の問題を挙げれば、
一にも二にも人材育成ですが。。。


この松谷くんのような
発達障害を持つ子に限らず、
普通は皆それぞれが
自分なりの勉強法を持っているはずで、
学校や塾のような画一的な環境では
効率的な勉強はできないものです。


どこかで何かを合わせながら、
その不自由な制度の中で
精いっぱいの努力をする、
みたいな。


でも、瞬発力がある子もいれば、
コツコツ努力するのが向いている子もいるし、
性格も価値観もバラバラなんだから、
皆それぞれが
自由に勉強できる方が
絶対効率ですし、
楽なはずなんです。


でも多くの子どもたちが
自らを不自由な鎖で縛りつけて、
先生の指示に従うだけになっている。


だから逆に自分で考えようとする子が
横並び教育から外れて異端児扱いされるのです。


これではいけません。
今の日本はどこの国よりも、
自分に合った学び方が選択できる教育環境が
求められているのです。